赦しの生前贈与
野々宮 透子が職場から帰宅したとき、自宅アパートの固定電話のモニターが暗闇で明滅を繰り返していた。
モニターには「チャクシンガアリマシタ」とメッセージが表示されている。メッセージの下には電話番号。
透子は照明も点けず、バッグも手に持ったままその電話番号を確認する。
名前ではなく、電話番号が表示されているということは登録されていない番号。
セールスかなにかだろうと予想していた透子の表情が歪んだ。三十代も後半に入り、仕事の疲れが溜まりやすくなった身体が更に重くなる。
市外局番により、父方の祖父が住んでいる地域からの電話だと分かったから。
多分、この番号は恭子叔母さんの家。あいつの妹。
透子が子供の頃から、祖父母と恭子は近所に住んでいた。祖母の死後は、恭子が一人暮らしの祖父の面倒をみている。
自分と恭子、祖父の繋がりはなんともおかしな関係だと思う。
透子が13才のとき両親は離婚し、透子は母親に引き取られた。
そのとき、透子は喜んでいたのだ。
――やっと、あいつと他人になれた。
戸籍など小難しいことは無視して、透子の中では父親は他人になった。
酒、タバコ、ギャンブル、暴力――、透子が忌み嫌うものを煮詰めたような人間。
父親に対しての感情は憎悪しかなかった。
そんな透子に罪悪感を抱いたのか、不憫に思ったのかは分からないが父方の祖父母、叔母は離婚後も透子の手助けを続けた。
しかし、そんな関係も透子の高校進学、就職と透子が年齢を重ねるに連れ疎遠になっていった。最後に祖父母と叔母に会ったのは、十年以上前に癌で死亡した透子の母親の葬儀のとき。
その五年後の祖母の葬儀に、透子は参列していない。父親に会う可能性を考えるとどうしても行けなかった。
今、恭子さんが私に電話してくる理由――――
祖父が死んだのだろうか。
心臓を鷲掴みされるような不安に襲われる。
いつかはこんな日がくると覚悟していたはずなのに。
一度深呼吸をして受話器を掴む。暗闇の中、着信のリダイヤルボタンを押す。
数回のコール音の後、電話が繋がった。やはり恭子が出た。
「もしもし?」
「あ……、透子です。ごめん、さっき帰ってきたの」
「うん、いいのよ。あのね……」
一秒にも満たない沈黙に動悸が高まる。耐えられない透子は口を開く。
「じいちゃんに何かあった?」
「……じいちゃんじゃなくてね」
「えっ?」
予想とは違う展開に透子は戸惑う。「祖父の訃報の連絡ではなかった」という安堵と「なら何があったのか?」という新たな不安。
「透子ちゃんのお父さんのことなのよ。……じいちゃんから何も聞いてないでしょう?」
「……うん。何も」
「先月…………、死んだのよ」
「えっ!?」
叔母の説明を聞く。
父親は離婚後も何も変わらず堕落した生活を続けた。
家を借りることも出来なくなり、県外の警備会社の社員寮に入っていた。
数ヶ月前から口内に大きな腫れ物が出来て食事も困難になりはじめ、同僚たちは病院へ行くことを勧めたが頑として行かなかった。
「……でね、私にお父さんの上司の人から電話があったの。『病院行くように説得して下さい』って」
「うん」
「次の日、私はクルマで寮に行ったのよ。でもね、そのとき布団の中で……」
――死んでいたのか。
何の感情も持たず、透子は事実のみを受け入れる。
「透子ちゃん、ここからはその……、今後の話なんだけど、あの人のことだから何処に幾ら借金があるか、いつそれが表に出てくるか分からないのよ」
「……そうね」
十分考えられることだと透子も思う。
「透子ちゃん、相続放棄の手続きなさい。私、先週弁護士に相談に行ったのよ。そしたら『相続放棄しておいた方がいい』って。私もそう思うわ」
「私もそっちがいいような気がする」
あいつが勝手に拵えた借金の返済など冗談じゃない。
恭子から弁護士の連絡先、大まかな流れの説明を聞き、バッグから取り出したスマートフォンに記録する。
最後に恭子が付け加えた。
「透子ちゃん、この手続きとかのお金は私が出すから」
「えっ……。ダメよ、そんなの」
「いいの。お願いだからそうさせて。透子ちゃんにもお母さんにもあの人がすごく辛い思いをさせたのは分かっているから……。ね?」
恭子がここまで強く口にしたら、絶対に折れないことを透子は知っている。
「分かった。甘えさせてもらいます。ありがとう」
「いいのよ」
二人の会話は終わった。受話器を置き、思い返すと透子も恭子も死者を悼む言葉は一言も発していなかった。
暗闇の中、立ち尽くしたまま透子は心配した。
息子に先立たれた祖父のことを。私とは違い、落ち込んでいるだろう。今度、会いに行こうか。恭子さんへお礼も直接言わなくてはならないし。
――――お前は本当に落ち込んでいないのか?
頭の中で声がした。自分の声のようでもあるし、あいつの声のようにも聞こえる。
――――お前は自分の父親が死んだというのに落ち込まないのか?
透子は、背中の大きな火傷の跡に虫がカサカサと走るような感覚に襲われた。
気色悪い。ふざけるな。
「……ふざけるな」
意識せず、声に出していた。
「ふざけるな。死んだら綺麗さっぱり水に流すとでも? 『なんだかんだでいいトコもあったなあ』とか思い直すとでも? テレビドラマじゃないんだよ」
透子の身体は小さく震えている。
「ふざけるな。死んだらチャラに出来る程度のことなら、私は死ぬ前に赦せるわ。生きてるうちに赦すし、伝えるわ」
いつの間にか涙が溢れ出している。
「だから私は、あんたが死んだくらいでは赦さない。絶対に赦さないわ。ふざけるな。人間のクズが……」
透子が流している涙に悲しみは一滴も含まれていない。
「本当にふざけるなよ」
頭の中の声は逃げるように消えていった。
しばらく泣き続けて、透子は部屋の照明を点けた。
食事も入浴も、睡眠さえもしたくなかった。
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