小説)石部夜戦②
「これは……」
騎馬斥候が水口を遠望したとき、仰天したことに城も街道も篝火で明々と照らし出されていた。
城方に悟られぬよう下馬した上で、闇に紛れて慎重に近づくと、東海道は俵と荷車とで厳重に閉塞されているのが見て取れた。
多数の兵や人足が松明を掲げて山積みの俵を取り巻いて動き回っており、まるで獲物に取り付いた蟻の群れのように見えた。
それ以上足を踏み入れて、城兵に街道封鎖の理由をきつく質すなどは思いもよらぬ。
弓鉄砲でたちどころに射殺されてしまうであろう。
「闇討ちどころの話しではない。これは堂々の合戦支度じゃ! 早う殿に御注進せねば」
◇
家康の騎馬斥候が泡を食って道を取って返したとき、水口宿では長束正家と石田家家老の舞兵庫とが、こんな会話を交わしていた。
「何度も繰り返し申し上げて恐縮だが、兵糧米の進上とは治部殿も考えましたな。関白様が二万石を下賜されたとはいえ、内府殿の手元には直ぐには届き申さぬ。この俵の山を御覧になれば、さぞ喜ばれましょう。本当に上手い一手じゃ」
「は。我ら謹慎中の身であります故、会津攻めには同道叶いませぬ。せめて兵糧米を献上することでお役に立てればと。我らの無理な頼みを快くお聞き入れいただきまして、大蔵大輔様には返す返すも御感謝申し上げるしかかなわず。……そろそろ内府殿が、御着きになられる時分でございますな。内府殿の御許しが頂ければ、我ら荷運び人足として、七里の渡しまでは御供仕る所存」
二人の傍らでは、正家の長子 助信が帳面を片手に父の仕事ぶりを学んでいた。
俵の数を検分する父の顔は、水を得た魚のように輝いていた。
◇
舞兵庫の荷駄隊が水口に姿を見せたのは6月17日のこと。
長束正家が家康接待の支度で忙しくしている最中だった。
荷駄隊の編成は、2俵積み駄馬500頭(口取り500人)米400石相当、5俵積み荷車200台(引き手押し手など人足1,000人)米400石相当と、合計800石分で秀頼が家康に約束した2万石の4%にあたる。
本来ならば小荷駄隊には数百人レベルの武装兵が護衛に付くのが普通だが、舞兵庫の荷駄には護衛がいなかった。
それもそのはず、駄馬の口取り・車引きの人足全員が石田家家臣の武者であり、甲冑も身に着けず太刀も帯びず、捩じり鉢巻きに襷掛けで脇差のみ腰に差す、といった出で立ちではあるが、賊や盗人など寄せ付けぬ迫力があった。
舞兵庫は武者ばかりが人足働きをしている理由を「百姓は田仕事で手が離せぬ時期にて」と笑いながら説明した。「兵糧運びに汗を流すも、これも戦場に出られぬ我らの、御奉公の一つと思えば」
6月半ばともなれば、麦は穀物倉に満ちている時期だが、米はそろそろ市場でも品薄に成り、値が張りつつあるころ。買えば高いし、農民から徴発すれば怨嗟の声が上がる。
長く兵糧奉行を務めた正家には、三成の心尽くしの意味が分かった。
「治部殿は謹慎中の身ゆえ顔を出すことは出来ますまいが、兵庫殿は名代として御挨拶なされるがよろしかろう。陣中ゆえ、内府殿もうるさいことは言われますまい。御挨拶の際の裃は、当家で御用意させていただきますぞ」
「有難き幸せ」と舞兵庫は頭を垂れた。
「我が殿も、直江山城守殿に『一刻も早う、内府殿に恭順いたされるべき』と書状をしたためました由。会津は強国なれど、一国にてはとても内府殿に敵いませぬ故」
◇
鬼謀の軍師 鬼左近が描いた筋はこうである。
ひとつ。
長束正家に、水口を訪れた家康を闇討ちにせよ、と言い含めても動けまい。正家は毒をかったり、刺客を使うなどの働きとは縁遠い男である。
水口で、ひと戦せむと思えば、兵は佐和山から出すべし。
ふたつ。
水口の城に、石田の兵を入れよ、と頼んでも、正家は承服すまい。
事が露見すれば、会津討伐はたちどころに打ち切りとなり、代わって水口討伐が始まるのみにて。
みっつ。
兵には鎧を着させず得物も持たせず、丸腰の人足として佐和山より兵糧米を運ばせるなら、水口の城を訪れるに正家も疑わず。
よつ。
城と水口宿とに篝火焚きて、街道に俵二千を積み上ぐるならば、内府の物見は、東海道を塞ぐとは「何事ならむ」と肝を冷やすこと間違い無し。
いつつ。
石部宿で大筒の音が轟けば、その砲声は水口にも届こう。
「すわ変事なり。内府殿をお助け参らせずして何とする」と水口から石部へ向かうのであれば、正家はそれを止めず。
長束勢には城と兵糧とを堅く守るように言い含め、甲冑・刀槍は、水口の城から借り受ければ良し。
即座に騎馬五百・徒歩一千の隊が出来上がる。
むつ。
水軍勢の夜襲に内府崩れたれば、水口よりの千五百と挟み撃ちを為し、内府の御首頂戴仕るのみ。
内府の御首以外は、突き捨てにすべし。




