小説)石部夜戦①
1600年6月18日、会津討伐に出発した家康は、石部宿の小島本陣に腰を落ち着けていた。
しかし寛いでいたわけではない。
夕餉の膳を前に料理には箸もつけず
「どうしたものか」
と爪を噛んでいる。
この仕草は家康が焦燥感に駆られているときに出る癖で、実は癇癪持ちの家康の爪は、子供のころからいつの時も短かった。
家康の苛立ちには訳がある。
甲賀衆の篠山景春が「水口の城、長束正家が嫡子 助信に叛意あり」と知らせてきたからだ。
長束正家自身は、徳川四天王の一人 本多忠勝の妹 栄子を嫁としており、家康との仲も悪くはなかった。
しかし会津討伐に反対するなど、家康の思惑に反した動きをするし、五奉行時代の同僚、石田三成との縁も切れてはいない。
ここで仮に、篠山景春からの報告が「水口の城で、長束正家が兵を整えて家康を討たんと待ち構えている」というものであったなら、家康は「正家づれに、手出しする肝のあろうものかよ」と鼻で嗤ったかもしれない。
家康は長束正家や増田長盛のことを、石田三成や大谷刑部と比べて下に見ている。
行政官僚としての手腕は買いつつも、武人としての覚悟や能力は劣る、と。
しかし、息子 助信が内府暗殺を企んでいる、という情報には、冷ややかな現実感があった。
家康は大阪城西の丸に踏ん反りかえり、大名間の縁組や、禄の加増などを勝手に行い、目の上の瘤であった前田利家が死去するや、前田討伐(加賀討伐1599年8月)の軍を起こした。
要は挑発を続けて「豊臣の世は終わった。徳川の支配が始まった」という事を天下に知らしめたかったわけだが、豊臣恩顧の者らには鬱憤が溜まっていたのも事実。
古強者の現実主義者なら「内府の世になるのは仕方のないこと」と膝を屈して受け入れざるを得まいが、理想主義者(特に年若い青臭い理想主義者)には耐えられない。
いつか大きな爆発が起こるであろう、というのを家康は当然のことと思っていたし、今回の会津討伐のための東下も、敢えて暴発を誘引するための謂わば「誘いの隙」であった。
――しかし、ここ石部で、か!
騒ぎが起これば、佐和山の三成が出張って来よう。
城から軍勢を動かすとすれば、ほぼ一日の行程であるが、駆け付けてきた石田勢が家康の味方をするとは考えられない。
「物見を出せ。今すぐに」
と家康は、騎馬武者による将校斥候を命じた。
「水口の城を見て参れ。城方がどのような構えをしておるのかを」
そして手勢には「出立の備えをするのだ」と行軍準備を命じた。
「東海道が塞がれておらねば、急ぎ今夜の内に押し通る」




