表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/16

小説)石部夜戦①

 1600年6月18日、会津討伐に出発した家康は、石部宿の小島本陣に腰を落ち着けていた。


 しかし寛いでいたわけではない。

 夕餉の膳を前に料理には箸もつけず

「どうしたものか」

と爪を噛んでいる。


 この仕草は家康が焦燥感に駆られているときに出る癖で、実は癇癪持ちの家康の爪は、子供のころからいつの時も短かった。


 家康の苛立ちには訳がある。

 甲賀衆の篠山景春が「水口の城、長束正家が嫡子 助信に叛意あり」と知らせてきたからだ。

 長束正家自身は、徳川四天王の一人 本多忠勝の妹 栄子を嫁としており、家康との仲も悪くはなかった。

 しかし会津討伐に反対するなど、家康の思惑に反した動きをするし、五奉行時代の同僚、石田三成との縁も切れてはいない。


 ここで仮に、篠山景春からの報告が「水口の城で、長束正家が兵を整えて家康を討たんと待ち構えている」というものであったなら、家康は「正家づれに、手出しする肝のあろうものかよ」と鼻で嗤ったかもしれない。

 家康は長束正家や増田長盛のことを、石田三成や大谷刑部と比べて下に見ている。

 行政官僚としての手腕は買いつつも、武人としての覚悟や能力は劣る、と。


 しかし、息子 助信が内府暗殺を企んでいる、という情報には、冷ややかな現実感があった。


 家康は大阪城西の丸にりかえり、大名間の縁組や、禄の加増などを勝手に行い、目の上の瘤であった前田利家が死去するや、前田討伐(加賀討伐1599年8月)の軍を起こした。

 要は挑発を続けて「豊臣の世は終わった。徳川の支配が始まった」という事を天下に知らしめたかったわけだが、豊臣恩顧の者らには鬱憤が溜まっていたのも事実。


 古強者ふるつわものの現実主義者なら「内府の世になるのは仕方のないこと」と膝を屈して受け入れざるを得まいが、理想主義者(特に年若い青臭い理想主義者)には耐えられない。

 いつか大きな爆発が起こるであろう、というのを家康は当然のことと思っていたし、今回の会津討伐のための東下とうかも、敢えて暴発を誘引するためのわば「誘いの隙」であった。


――しかし、ここ石部で、か!


 騒ぎが起これば、佐和山の三成が出張って来よう。

 城から軍勢を動かすとすれば、ほぼ一日の行程であるが、駆け付けてきた石田勢が家康の味方をするとは考えられない。


「物見を出せ。今すぐに」

と家康は、騎馬武者による将校斥候を命じた。

「水口の城を見て参れ。城方がどのような構えをしておるのかを」


 そして手勢には「出立の備えをするのだ」と行軍準備を命じた。

「東海道が塞がれておらねば、急ぎ今夜の内に押し通る」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ