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4)分水嶺への介入

 1600年6月18日の石部宿が、徳川vs豊臣の分水嶺であることは分かった。


 それでは、どのように歴史介入を行なえば「家康討ち死に」のフラグを立てることが出来るであろうか。

 具体的に言えば、佐和山城の三成の重い腰を上げさせる方法は何だったか、である。



 18日昼に大津城で大休止した時点で、この日の家康一行が近江国のどこかで夜を過ごすことは確定していた。

 また中山道を通るには鳥居本を経ねばならず、三成の佐和山城に近付きたくはない、という心理的・戦術的抵抗感が強いから、草津から東海道へ向かうというのも確度は高い。


 すると

△大津から草津まで3里24町。およそ15㎞。計15㎞。17時着

◎草津から石部まで2里25町。およそ10㎞。計25㎞。19時着

○石部から水口まで3里12町。およそ13㎞。計38㎞。22時着

 水口から土山まで2里25町。およそ10㎞。計48㎞。翌1時着

 土山から坂下まで2里30町。およそ11㎞。計59㎞。翌4時着

と石部宿で宿泊するのは容易に推測がつく。


 それというにも、江戸時代の参勤交代での大名行列の移動速度が40㎞/日くらいだったというから、大津を昼過ぎに出発した家康勢が、夕刻に25㎞先の石部で宿泊準備を始めたというのは妥当なラインであるからだ。

 無理をすれば38㎞先の水口まで到達することは出来ようが、そこには長束正家がいる。

 長束正家が城を挙げて家康を歓待する可能性はあるけれど、逆に罠を張って待ち構えていないとも限らない。

 また、48㎞先の土山(滋賀県甲賀市土山)や、59㎞先の坂下(三重県亀山市)まで足を伸ばそうとすれば徹夜での強行軍となる。1600年の時点で1543年生まれの家康は既に57歳。日頃から健康に気を遣っているとはいえ無茶をしたくはなかっただろう。


 石部で一泊しさえすれば、次の日、陽のある内に三重県まで歩みを進めることが出来るのである。


 石部の家康、鳥居本の三成、水口の正家はそれぞれ一見穏やかに夜の支度を始めたが、その実、斥候・物見をあちこちに放って、備えを固めていた。



 さて鳥居本(佐和山城)の三成。

 三成自身が禄高4万石の時に、その禄高の半分2万石で召し抱えた戦上手の鬼左近が

「立つべき時は、今ですぞ」

と再三献策してくる。


 彦根から石部までJR線の営業キロなら草津経由で48.6㎞。

 地形無視の直線距離でも20㎞はある。

 間道を使って出来るだけ短い距離で移動しようとしても、鉄道営業キロと直線距離との平均をとって34㎞くらいと見るのが妥当な線か。

 軍勢を徒歩移動させるとすれば、20時に石部で戦闘開始をするならば、34㎞/4kmhで8.5時間前には出発しておかなければならない。すると行軍開始は11時半となり、家康が大津城に迎え入れられた時点でほぼ同時に佐和山城出発となる。


 こう考えると、三成が兵を出し渋った理由も何となく見当が付く。

 佐和山城が家康方の物見から見張られているのは間違いない。天下の公道である中山道を封鎖するのは不可能なのだ。

 そうなると、三成が軍を起こせば密偵は即座に大津に走る。

 家康は大津を発たずに、京極勢とともに大津城へ籠るであろう。



 それでは陸路を採らずに船を使えばどうか。

 前述の『私説・日本合戦譚』にも「大船二十余艘を調達して水口まで押寄せた」としている。


 江戸時代のことになるが、彦根藩の小早こはやは24丁艪で彦根~大津を4時間で移動できたという。

 すると野洲川河口までだと3時間程度で、佐和山城から進出できたであろう。

 船のサイズや喫水の問題はあるものの、そのまま船で石部にまで乗り入れることが出来たなら、佐和山城からの所要時間は4時間程度か。

 陸路移動の半分の時間しか掛からない。16時に発てば20時には予定戦場へ兵を送り込めることになる。夜支度を終えて一息ついた家康一行を襲撃するには丁度良い。


 ただし3,000の兵を無理なく船に乗せる事は可能だろうか。

 20数艘を25艘と仮定すると、1艘あたりの乗り込み人数は120人!


 海上自衛隊の9mカッターは、漕ぎ手12人で定員45人。

 矢切の渡しの渡し舟の定員は30人。

 福岡市内と能古島を結ぶフェリーで、定員が200人。

 120人を運べる船となると安宅船クラスの最大級の船でしか有り得ない……。

 琵琶湖の遊覧船ミシガンをチャーターしたとしても定員は787人。4隻が必要なのだ!


 だとすると、水路を採った島左近以下の決戦兵団は、45人×25艘で1,125人程度。

 残りの2,000は「家康、大阪を発つ」の一報が入った時点で行動を起こし、予め水口近傍へと先回りしていたと考える方が妥当なのかも知れない。


 水口に移動した兵を指揮したのは、島左近に次ぐ次席家老の舞兵庫まいひょうごこと前野忠康まえのただやすか、猛将 杉江勘兵衛すぎえかんべえ


 島左近の船団から奇襲を受けた徳川勢が、何よりも家康の命大事と水口岡山城を目指して難を避けようとすれば、舞兵庫隊が(ことによると長束勢の加勢も受けて)水口宿で押し包むという段取りである。


 いくら奇襲を受けたとはいえ、家康供回りの選りすぐりがそうそう簡単に――それも数に劣る島左近1,000相手に――崩れるだろうか? という疑問には「島左近隊がかか大筒おおづつを装備していたから」としよう。

 抱え大筒とは、手持ちの大砲(大口径火縄銃のこと)で、発射するのは炸裂弾ではなく実体弾。

 実体弾は主にやぐら門扉もんぴの攻撃に用い、野戦で散開歩兵に対して使用しても効果は薄いとされるが、石部宿夜襲を受けたときの徳川勢なら家康を中心に密集体形を採るはず。

 すると家康側の密集円陣に、接近して大口径実体弾を撃ち込めば、高い貫通力から一発あたりで数人から十数人の名の有るつわものがミンチになる。(抱え大筒の有効射程は1~2㎞とも言われるが、50mほどの近距離で使用してこそ、石部宿夜襲では効果を発揮しよう)

 抱え大筒の装備数は、一船につき一門とすれば25門となる。実体弾1発あたり5人の死傷者を発生させたとすると、島左近隊は第一撃で125人の損害を与える計算となる。

 再装填は難しいかもしれないが、奇襲第一撃で4%の損害を受けた徳川勢は指揮系統の再編のためにも「一先ず退き、態勢を立て直す」必要が生じよう。


 なお石部宿で夜襲を受けた家康が、水口方面へでなく、大津を目指して引き返すことは無いだろうと推測されるのは、大津に至る以前に瀬田の唐橋を通過しないとならないため。

 古来、瀬田川を巡る戦いでは、橋を焼き落すもしくは橋板を剥がすなどの妨害工作が採られた。

 家康が大津城まであと一歩の距離まで逃げおおせたとしても、橋が破壊されていたら瀬田で雪隠詰めになってしまうからである。

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