3)水口岡山城
家康一行が石部宿で歩みを止めたのには意味が有る。
石部宿の一つ先の宿場町は水口宿であり、そこには水口岡山城が控えていた。
城主は長束正家12万石。五奉行の一人で三成の同僚である。
いや……1600年6月18日時点では三成は隠居しているから、同僚であった、とする方が正しいか。
頭抜けた事務処理能力を持つ人物で、秀吉の小田原征伐や文禄・慶長の役では兵糧奉行を務め、よく大軍勢の兵站を保った。
家康は当然、この長束正家にも調略をかけていた。
正家も「事ある時には」と家康に応じている。
けれどもこの長束正家、東西決戦の機が熟した最中には、東軍に味方しようと瀬戸内海を渡った長宗我部盛親を説得、西軍に参加させている。豊臣への恩義を忘れているわけではない。あるいは三成への友誼を。むしろ五奉行の中で三成の暴走を危ぶみ、積極的に家康に近付いたのは増田長盛(大和郡山城20万石)の方で、長盛は大阪方の情報を逐一家康に報告していたくらいだ。
にも関わらず、関ヶ原合戦がいざ始まると、長束隊は長宗我部隊の前に立ち塞がり、長宗我部隊の戦闘参加を阻んでいる。(ただし南宮山の毛利本隊と同様、吉川広家の妨害で前に進めず、とも)
要は武闘派としての肝の据わっていない人物ということで、その時点その時点の風次第、敵か味方かどちらに振れるのか見当が付かない。行政官僚としての力量は抜群だが、武官としての武者働きを頼みにするには――家康・三成のどちらにとっても――ちと心許無い男であった。
それを見抜いていた家康は
「夜間、水口の城に草鞋を脱ぐのは、危うい」
と感じていたわけだ。単に虫の報せというよりも、冷徹な先読みの為せる技である。
長束正家との局地戦で勝利できるか、という事よりも、水口合戦が始まってしまった場合の全国へ伝播する影響を怖れた。
――東西決戦の体裁が整う前に、水口で済し崩しに大戦の火蓋が切られてしまえば、その場はなんとか切り抜けられても戦は日ノ本全土で燎原の火のように燃え広がろう。徳川が幕府を開くどころか元の木阿弥。元亀天正の二の舞よ。
実際、関ヶ原合戦が勃発したとき、待ってましたと言わんばかりに黒田如水が「東軍の一部隊として」九州割拠に動き出した。
関ヶ原合戦が僅か一日で終わってしまったために、黒田如水は殊勝気に押さえた西軍領を家康に差し出したが、家康は如水の野望を見抜いていたし、如水も家康が承知の上でいることを当然としていた。結果、如水は加増の申し入れを辞退、隠居している。
大津城の京極高次に続いて、水口岡山城で饗応を受ける予定であったが、家康は石部宿で身動きが取れなくなっていたというのが正しいのかも知れない。
◇
このあたりの家康・三成の動向を、松本清張の名著『私説・日本合戦譚』の『関ヶ原の戦』からピックアップしてみたい。参考にしたのは文春文庫の同名文庫本で1981年11月発行の第8刷。
「彼は大津に着いて京極高次の饗応をうけ、石部から近江水口に向かったが、ここでは泊まらなかった。彼は一行を武装させ、えい、えい、と掛け声をかけて水口を通りぬけた。
水口城主は長束正家だ。正家は、五奉行の一人として石田方であったため、家康の警戒するところとなったのである。この用心はあとで無益でないことが分った。」
p222 17行目~20行目
「ところで、家康が大阪を発向して、近江水口に到着するまえのことである。三成の謀臣島左近が三成に進言した。
『今夜、家康は、水口に泊まるそうです。すぐさま、家康の館に、夜討ちをかけたらどうですか?』
三成は、それを聞いて
『それにはおよぶまい。かねて長束とは示しあわせておいたから、彼が水口で謀を行なうだろう』
と答えた。島は納得せず、
『天狗も鳶と化せば蜘蛛網にかかる譬もあります。今夜の機会を逃さず、ぜひ決行なされ』
とすすめたが、三成は愚図ついている。
そこで島は、自身で三千人をひきい、水口のちかく、葦浦観音寺あたりから、大船二十余艘を調達して水口まで押寄せた。すると、家康は、水口には泊まらず、その夜のうちに通過したと聞き、島は地団太を踏んで引返した。この三成の優柔不断さを、あとで大谷刑部が大いに批判している。」
p226 1行目~13行目
◇
石田三成は、家康を討ち取る絶好のチャンスを、己が優柔不断によって失った。
「小魚呑大魚」が叶う、天の時・地の利が訪れていたにもかかわらず、頼みとした鬼謀の軍師の献策を退けたのだ。天地人のうち、三成は最も重要な人の和を欠いた。
狭量と評されることの多い三成であるが、彼の最大の失敗は『居城の佐和山城に近い石部宿で大休止している家康の小勢(たった3,000人のみ!)を見逃しにした』ことである。
結果として三成自身は関ヶ原で敗北の後、斬首。
主家の豊臣氏は家康の手によって滅亡する。