2)中山道 鳥居本宿
さて、東海道を石部宿に、というと妙に思われる方がおられるかも知れない。
石部駅はJRの路線で言うと、東海道線ではなく草津線の駅だからだ。
JR草津線は滋賀県草津市の草津駅から、三重県伊賀市柘植駅を結ぶ路線で、野洲川沿いを走っている。
だからどうしても「東海道を東に向かう」というと、草津→彦根→米原→関ケ原のルートをイメージしてしまうのだが、その区間のJR東海道本線は旧街道でいえば中山道にあたる。
〇草津宿:滋賀県草津市 中山道68番目の宿場 東海道52番目の宿場(中山道と東海道との合流点)
〇守山宿:滋賀県守山市 中山道67番目の宿場
〇武佐宿:滋賀県近江八幡市 中山道66番目の宿場
〇愛知川宿:滋賀県愛知郡愛荘町 中山道65番目の宿場
〇高宮宿:滋賀県彦根市高宮町 中山道64番目の宿場
●鳥居本宿:滋賀県彦根市鳥居本町 中山道63番目の宿場★西に石田三成の居城『佐和山城』があった 後に佐和山城は廃城となり更に西の湖岸近くに『彦根城』が築かれる
〇番場宿:滋賀県米原市番場 中山道62番目の宿場(北陸道との分岐点)
〇醒井宿:滋賀県米原市醒ヶ井 中山道61番目の宿場
〇柏原宿:滋賀県米原市柏原 中山道60番目の宿場
〇今須宿:岐阜県不破郡関ケ原町 中山道59番目の宿場
〇関ヶ原宿:岐阜県不破郡関ケ原町 中山道58番目の宿場
〇垂井宿:岐阜県不破郡垂井町 中山道57番目の宿場(美濃路との分岐点)
〇赤坂宿:岐阜県大垣市 中山道56番目の宿場
このように大垣~草津間のJR東海道本線は、むしろJR中山道線と呼び替えたくなるほど旧中山道に沿って走っているのだ。
それはさておき、中山道63番目の宿場町「鳥居本宿」に注目していただきたい。
この鳥居本宿近傍には、中山道と北陸道とを扼するかのように佐和山城が聳えている。
俗謡で「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と唄われたという名城。言わずと知れた石田三成の居城である。近江佐和山19万4千石。
1600年6月18日当時、三成は1599年に起きた加藤清正・福島正則ら七将による三成襲撃事件の幕引きのために奉行職を解任され、佐和山城に隠居/蟄居していた。
しかし隠居/蟄居していたと言っても座敷牢に押し込められていたわけではない。佐和山の城で指揮下の全兵力を握っていたわけである。
19万4千石といえば、徳川家康256万石の7.6%の石高に過ぎず、関ヶ原合戦時に動員出来た兵数も
石田三成隊:5,820人
徳川家康本隊:30,000人
と段違いに少なかった。
けれども会津討伐に向かう途上のこの6月18日の時点では、家康の供回りは選りすぐりの精兵ばかりとはいえ3,000に過ぎない。
佐和山城下の鳥居本を押し通ろうとすれば、地の利が有り数に倍する石田勢に囲まれ、腹背から攻め立てられる可能性が有った。
しかも戦端が開かれた場合、石田勢の指揮を執るのは戦下手の三成ではない。
軍師で侍大将の戦上手、鬼左近こと島清興である。島左近が采を振るえば、配下がどんなに惰弱な兵であろうと虎狼のように躍動したという。
中山道を東へと向かっていたら、家康は3,000の兵と共に鳥居本で死地に陥っていたであろう。
悪くすれば、そこで首を失っていた可能性もある。
だから家康は、草津宿から中山道の守山宿方向にではなく、東海道の石部宿方向へと軍を進めたのだ。
なお家康には、例えば本能寺の変の後、伊賀越えで難を逃れた時のように脇街道や間道を抜けるという選択肢は無かった。本街道を威風堂々進むしか許されなかった。
苟も内大臣(内府)で会津討伐の総大将なのだ。
「治部少輔の影に怯えて、間道を逃げるように急いだ」
と、第二の伊賀越えを失笑されるわけにはいかなかったからだ。
したがって、石田三成・島左近主従には
「家康は草津から東海道に入る」
という事は容易に予想ができた。
あとは家康を東海道の何処で討つか、という決断である。