小説)石部夜戦⑨
家康は本陣を捨て、石部宿では『賊とは距離を取る方向』すなわち水口に近い側ある旅籠へと居を移していた。
そして旗本たちを、石垣ならぬ人垣として敵の肉薄を防がせていた。
はじめは「我らに夜討ちをかけるなど、どこの馬の骨が血迷いおったか」と余裕があったのだが。
「押し返して、一人残らず討ち取れい。いや、何人かは生かして捕らえなばならん。誰の差し金であるのかを、吐かせねばならぬからな」
けれど――
「井伊修理大夫様、お討死!」
「本多中務大輔さま、お討死!」
「大久保治部大輔(忠隣)様、お討死!」
「高力左近太夫(忠房)さま、お討死!」
と次々に、三河以来の忠臣の戦死の報が伝えられると家康は
「もう駄目だ。ここで腹を切る」
と騒ぎだした。
「弥八郎、介錯せぇ」
長い付き合いの本多正信は
――またか。
という思いである。
家康という男は危機に陥ると必ず「腹を切る」と騒ぎだす。これは若い内から何度も見てきた光景だ。
家臣を奮起させ、死兵へと駆り立てる策、と噂する者もいたが、正信は「演技ではなく地であろうと」考えていた。
家康が旗印に選んだ『厭離穢土 欣求浄土』という文句は、天台宗の僧 源信の『往生要集』から採られたものであるし、正信自身も若いころは一向一揆に身を投じ、一時は家康とも戦争をしたことがあるという、まことに抹香臭い主従であったからだ。
それだけに正信には、家康の浄土に持っている憧れや、この世への諦観が見えていた。
だから、ただの恰好と放っておけば、知らぬうちに勝手に腹を切ってしまいかねない、という危惧があった。
「殿! 気を確かになさいませ。今、殿が腹を切ってしまえば、殿のために命を落とした者たちが浮かばれませぬ。何としてもここは生き延びて、捲土重来を期しませぬと」
そして「策があります」と家康の耳元に口を寄せた。
「髷を解いて、顔には煤を塗り、汚した旅籠の者の衣を纏いて、宿場の下働きの老爺として水口へと落ちるのです」
「ただの爺のふりをするのか?」
「御意」と正信が頷く。
「恐らく琵琶湖から襲い来た敵は治部の手の者。湖賊にしては鉄砲の充足ぶりが良過ぎましょう。なれば町人・百姓には手を出すこと能わず、と硬く軍規で戒められておるはず」
「う・うむ。治部であれば、さもあろう」
「しからば、山賊や野武士に逢うた時になら『一番危うい仮装』をするのが、この場合には『最も安全な姿』と言えましょう」
◇
佐和山城下の港、今でいえば彦根港あたりの湖岸では、竈を築いて大釜で飯を炊き、女房どもが手早く握り飯に結んでは漬物や佃煮とともに竹の皮に包み、弁当を拵えていた。
数がまとまれば、湯冷ましの白湯を詰めた竹の水筒とともに舟に積み込む。
舟には弁当の他に、玉薬(火薬)も載せられる。
舟は島左近隊の兵を運んだ軍船とは違い、艪がニ本の伝馬船や猪牙船と呼ばれるタイプの小型船だ。
乗り込むのは漕ぎ手の他に、あと一、ニ名。
だから増援ではなく補給舟という役向きである。
舟が小ぶりで搭載貨物が軽量だから、二本艪でも足は速い。
第一便の弁当舟2艘は、湖上で左近隊軍船に追いつく予定であった。
実を言うと、石部攻めの総大将 石田治部少輔三成はここにいた。
戦場で太刀を抜き、眦決して兵を叱咤するのではなく、港で淡々と、補給品出荷に携わっていたのだった。
握り飯を結んでいる女房が
「殿は、真っ先切って采を振っておらなくても宜しいのですか?」
と、からかうように尋ねると、三成は
「我もその様に考えていたから、其方の言うのは尤もだと思う」
と生真面目そのものに応えた。
「しかしながら、我が前に出ると、何かといろいろ邪魔になるらしいのだな」
島左近や舞兵庫と云った、三顧の礼で迎え入れた戦場での叩き上げ実力派家老達から「殿には決戦で最も重要な役割に徹していただきとう存じます」と、強く言われていたのだ。
「玉薬や飯を、必要な時に必要な場所へ間違いなく手配すること。合戦における継戦の肝、いわば兵糧奉行の重責にございます」
兵糧奉行をそつ無く熟すことの難しさを、三成は太閤の戦ぶりに学んで重々知っていたから、反論・却下することは出来なかった。
加えて『我が戦に口出しすると、戦慣れした猛者たちには邪魔臭いのであろうな』という、彼らの本音も察した。
「まあ、我の戦下手は今に始まった話でもないし」
石部合戦は、三成の戦争ではなく、左近の戦争になっていたというわけだ。




