小説)石部夜戦⑧
井伊の赤備えは、崩れに崩れていた。
大損害を受けたのに加えて、「井伊の赤鬼」こと井伊直政が、首を失ったからである。
敵兵に首を掻かれたわけではない。
突撃を指揮している最中に、頭に抱え大筒の直撃弾を受けて、文字通りに雲散霧消してしまったのだった。
これを目にするや動揺が広がり、配下の兵は槍を捨てて後ろに逃げようとした。
すると――狭い一本道である――後続の兵団とぶつかり、東海道は身動きが出来ないほどの渋滞となってしまった。
『賊』は決して前進を急がない。
弾を放った大砲や鉄砲は後ろに回り、装填済の列が前に出る。
いわば信長の長篠の戦い(設楽原の戦い)の二番煎じなのだが、銃に加えて貫通力の高い砲(抱え大筒)を賊が装備していること、戦場に幅が無いことの二つが徳川勢の攻撃を難しいものに変えていた。
崩れた井伊勢に代わって、前に出ようともがいていた大久保隊に、じわりと前に出た『賊』から容赦なく銃砲撃が浴びせられた。
井伊勢残余と押し合いヘし合いで団子状態の大久保隊は、敵に向かって突撃にかかることすら叶わず、壊滅的な大損害を受けた。
◇
榊原康政は瀬田橋の無事を確認すると、橋の警備に四騎を残し、大津の城へと駆けに駆けた。
京極勢も石部方面の変事に気が付いていたようで、篝火を盛んにし、石垣の上や建物の窓には城兵が鈴なりになって東の空を見ている。
――ええい! 騒ぎに気付いていながら、物見も出しておらんのか!
康政は大手門の橋の前で輪乗りすると、哨兵に向かって
「内府からの使いである! 開門せい」
と怒鳴った。
城主 高次の前に案内されると、蛍と揶揄されていた男は、既に軍装に身を固めていた。
今日の昼に顔を合わせたばかりだから、高次も康政のことは覚えていて
「式部大輔殿、いかがされました?」
と挨拶抜きで単刀直入に質問をぶつけてきた。
息子を人質として家康に同道させているのだから、細かい事な抜き、である。
「賊に石部本陣を夜討ちされました次第」
康政は『夜討ちをかけてくるなど、治部をおいて他に考えられず』と思ってはいるのだが、確たる証拠が有るわけではない。賊、と濁すしかなかった。
「援兵を、お出し下さいませ」
「心得た」
と高次の返事は早かった。
「城の守りに200を残し、800の兵で直ぐに発ち申す」
援兵要請を予想して、抜かりなく手筈を整えていたのだ。
ただし騎馬の数は少なく、750以上が徒歩の兵である。
大津から石部宿までは、ほぼ26㎞。
6㎞/hの駆け足で、休まず駆け抜けたとしても4時間半はかかってしまう。
康政は「一刻も早く」と懇願するしかなかったが、文字通りの「一刻」30分間で到着するのは物理的に不可能であるのは分かっていた。
しかしこの選択には疑問が残る、と言わざるを得ない。
大津城は琵琶湖に浮かぶ城だから、騎馬の数が少ないのは当然なのだ。
物流だろうと兵員輸送であろうと、船を使うのが便利。
仮に船を使って兵を石部へ送るとするなら、およそ1時間強。
駆け足移動よりも3時間近くは時間短縮が叶ったはずだ。
兵800を移動させるためには船数が足りなかったのだとしても、危急の事態に間に合わない800に比べれば、戦闘参加可能な400の方が価値がある。
陸戦の達者な「小平太」は、琵琶湖の蛍に、いっぱい食わされたのかも知れない。




