小説)石部夜戦⑦
本多忠勝は、井伊直政を捉まえて「何が起きている」と騒ぎの次第を質す心算だったのだが、駆け出してすぐ、妙な男を見つけた。
裏通りから姿を現すや、何かを旅籠に投げ込もうとしていたのだ。
胴鎧に陣笠という典型的な足軽の恰好ではあったが、この大騒ぎの中で妙に落ち着き払った雰囲気を醸し出している。
「何者!」と呼びかけると、不審な足軽は手にした何かを忠勝に向かって投げ、刀を抜いた。
忠勝は投げつけられた物を槍の柄で払った。黒い塊で、導火線には既に点火されている。
焼き討ち用の焙烙玉か、と思っていたのだが、払ったときの手応えは鉄の塊である。
「おのれ曲者!」と忠勝は手槍を扱いた。
しかし老練な忠勝には似合わず――ほんの一瞬の逡巡ではあったが――賊を突き伏せるのを優先するか、導火線を踏み消すのが先か、迷った。
忠勝が今、第一義に為すべき事は家康の命を守ることである。
忍び一人を槍の錆にしても、大勢を動かすことは出来ない。
(忠勝は怪しい足軽を、火付け働きを請け負った忍び、と判断した)
また――石部宿は既に大火に包まれているのである――地面に落ちた焙烙玉ひとつの導火線を踏み消そうが最早どうにもならぬ。
――忍びなど捨て置き、殿を無事に落とし参らせることこそ、今の自分の為すべき事ではないのか?
忠勝は、ここでは気を抜いて誘いの隙を見せるべきだったのかも知れない。あるは曲者など捨て置いて、家康の元へと駆け戻るか。
そうしておけば、曲者は風を食らって逃げ出していた可能性もあった。
しかし彼が構えていたのが蜻蛉切の名槍でなくとも、名人・上手と呼ばれる者ならそうなのかも知れないが、穂先を向けられた側には「助からぬ」と絶望を感じさせる力が有った。
曲者は雄叫びを上げるや、刀を上段に振りかぶって突進し、相打ちを狙った。
――大人しく逃げればよいものを。脇が、がら空きじゃ。
と忠勝は、鎧に守られていない脇の部分に槍の穂先を突き入れた。
ずぶ、と肉を貫いた手応えが伝わる。
しかし、その時。
地面で火を噴いていた震天雷が、傲然と炸裂!
鋳鉄の小片と爆炎とを激しく撒き散らした。
――ぬうう。抜かったわ。
1560年の初陣以来、数知れぬほどの戦場を往来しながら一度も手傷を負うことの無かった忠勝が、始めて付けられた傷であった。
全身に破片を浴びた忠勝は、血に染まりながらも『手傷を負うたことよりも、もっと困った事が起きた』と感じた。
爆発の轟音のせいで、耳が利かなくなっていたのである。
――耳が聞こえず目が見えずでは、赤子も同然。敵の気配を察することすら叶わぬわ。
◇
渡辺勘兵衛が鉄砲を放つと、血塗れの偉丈夫はガクリと膝を突いた。
勘兵衛たちは船まで駆け戻ると「よし、退け」と下流へと向かった。
家康を射殺すことは出来なかったが、石部宿は手のつけようがないほどの大火に見舞われていて、家康は水口に落ちるか炎に巻かれて焼け死ぬかの「二つに一つ」であろう、と思われた。
――水口を目指して落ちれば、白髪首は前野さまの隊が討ち取るであろう。
勘兵衛は軍船の上で不敵に嗤った。




