小説)石部夜戦⑥
渡辺勘兵衛は手分けすると、配下を街道の裏手から走らせ、次から次へと旅籠へ震天雷を投げ込ませた。
激しい炸裂音とともに木造家屋の調度品や畳が燃え上がり、一度上がった炎は天井を舐め、建物は次々に白煙を上げた。
このため石部宿全体が、煙幕を張ったかのように見通しが悪くなった。
徳川旗本の混乱はいや増すばかりで、ある者は
「殿の回りを固め参らせよ」
と本陣に向かい、また或る者は
「火を消し止めるが、なにより先ぞ」
と火の出た旅籠を壊し始めた。
◇
砲声は水口まで届き
「何事ならむ」
と石部方面の空を見守っていた長束正家らにも、緊張と混乱とが伝播した。
石部方面の夜空は、もともと家康一行が篝火を多く焚いていたため若干は赤っぽく彩られていたのだが、煙が上がるとともに、その煙が赤く染まった。
煙の下では少なくとも数軒の建物が、激しく燃え上がっているのは間違いない。
「赤気じゃ! 赤気が昇っておる」
長束正家の長子 助信が大声を上げた。
「父上、いかがいたしましょうぞ?」
直ぐに救けを向かわせるべき、という意思を含んだ問い掛けである。
けれども老練な正家は、配下の兵を繰り出すのには躊躇した。
援軍の依頼が来たのなら、迷わず即座に手元の人数を走らせる。
――しかし……失火ということも有り得る……
援軍要請も無い状況で、家康の本陣に武装兵を差し向けたとしたら
「謀反を疑われるではないか!」
到着と同時に、徳川方の旗本と斬り合いになるかも知れない。
困じ果てている正家に、客将の舞兵庫が助け舟を出した。
「我らが見届けて参りましょう。幸いに、と申しますか鎧兜は身に着けておりませぬ。駆け付けても内府殿に敵と見誤られることは無いと存じます。それに駄馬とはいえ、五百の頭数を引き連れてきております」
「行って頂けまするか」と手を取らんばかりの正家に、舞兵庫は「承知つかまつった」と頼もし気に応じた。
見ていた助信は長束家の兵に
「腰の物を、石田さま家中の兵に!」
と命じた。
「前野殿。修羅場に向かうに、脇差のみでは余りに心許無う存じます。せめて太刀なりとお持ちなされませぃ」
「有難き幸せ」と舞兵庫は、大小を差し、裸馬に跨った騎兵500を従え、水口を発った。
残りの1,000人も、騎馬侍から「内府殿、御急場」の報せがあれば、徒歩の兵として急行すると、長束家から武具を借り受け出撃準備にかかった。
◇
「首尾は良し」
炎上する石部宿を見遣り、渡辺勘兵衛は配下の小隊に引き上げを命じた。
二名戻らぬ者がいたが、徳川侍に見咎められて切り死にしたか、しくじって手にした震天雷が爆ぜるのに巻き込まれたか、それは判らぬ。
「御家老の元に戻りて、今度は槍働きに励まん」
家康狙撃の機会が有れば、と勘兵衛自身は火縄銃を携えていたのがだが、小太りの白髪頭を見掛けることは終ぞ無かった。
島左近からは出発前に「深追いはせぬよう。我ら攻め手は徳川勢より数が少ない」と言い含められていた。
「必ず生きて戻るのだ。無駄死には許さぬ」
これは今夜の襲撃に限ったことではない。家康を切るのに成功したとして、その後一足飛びに秀頼体制が万全になるとは限らない。家康の嫡男 秀忠は健在であるし、徳川一門衆は強勢を保つであろう。戦続きの世になるのは、容易に予測がついた。
しかし、引き揚げようとした勘兵衛の目に、ひとりの偉丈夫の姿が映った。
兜を被らず、粗末な手槍を杖代わりにしている。
しかも全身、血に塗れていた。
手負いであるのは間違いないが、その男、纏っている空気が違った。
信じられないほどの修羅場を潜った漢だけが持つ空気。
――窮地の家康を救うとすれば、あの偉丈夫をおいて他におらず!
勘兵衛は、尋常の勝負を挑みたい! という、湧き上がるような己が欲求を押さえつけ、家康を射る予定だった鉄砲を構えた。




