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1)蛍大名の饗応

 日本史上の大事件だから、関ヶ原合戦に関するif考察が多いのは当然だろう。


 例えば

「関ヶ原南西の松尾山に陣取っていた小早川秀秋が、家康から寝返りの催促に撃ち込まれた鉄砲に逆上し、配下の兵15,000(8,000とも)を西軍の大谷吉継勢ではなく、眼下の東軍 福島正則勢6,000に突っ込ませていたら?」

であるとか

「南宮山に陣取った毛利秀元勢15,000が、吉川広家のサボタージュを排除して、東軍後詰の池田輝政隊・浅野幸長隊を蹴散らし、背後から家康本隊を襲ったら?」

などなど。


 明治の陸軍大学校でも、ドイツ陸軍から派遣されて兵学教官を引き受けたメッケル少佐(当時 アダ名は「渋柿オヤジ」)は、図上演習で「この戦いでは西軍が勝利する」との自説を譲らなかったという。

 そのくらい、動員兵力と陣立てだけを見れば、西軍が負ける要素は無かったわけだ。


 しかし実際には開戦数時間で西軍は総崩れとなり、敗北を喫する。

 理由は簡単で、西軍で戦意が高く力戦したのは石田・宇喜多・小西・大谷隊などに限られ、毛利隊や長曾我部隊は傍観するのみで動かず、小早川・脇坂・赤座・朽木・小川隊は裏切った。

 これでは西軍が勝てたはずがない。



 西軍で裏切りや日和見が多発した原因は、諸将が家康の『力量』に怯えたからである。

 いくら石田三成が亡き太閤への恩顧を唱えようが、関白秀頼への忠義を求めようが、光成と家康とでは実績に差があり過ぎる。


 この場合、個人的な人間力(あるいは人としての魅力)だけが問題だったわけでない、と結論付けられるのは、最晩年の耄碌しきった秀吉にでも「秀吉がまだ生きている」というだけで、家康以下全ての大名が逆らえなかったという事実に依る。


 実績のある実力者というのは、その存在だけで周囲を意のままに操ることができる、というわけだ。



 だとすると、家康が健在のまま関ヶ原合戦に突入してしまうと、事前に家康が内通工作を成功させていようがいまいが、歴史上のセキガハラと類似の結果に収束してしまう可能性は高い。


 例えば、松尾山の小早川秀秋が大谷吉継隊に突如攻撃を”しなかった”としても、島津隊が横殴りに三成の陣を蹂躙してしまう、みたいな歴史の修正力が発動してしまうのかもしれない。


 だからセキガハラで西軍が勝利しようとするならば、関ヶ原に東西両軍が集結してしまう前に、家康を亡き者にしてしまう事こそが歴史を変えるifとして、一番の早道と言えるのかもしれない。

 家康が頓死してしまってなお、嫡子 秀忠に東軍諸将が従って大阪を攻めるとは考えられないからだ。


 では、果たしてそのようなチャンスが光成にあったであろうか?


 結論から言えば「有った」

 家康が会津討伐に出発するため秀頼と大阪城で謁見を終え、伏見城で鳥居元忠と別れの宴を催し、東海道を東に進んでいる時に。



「叛意アリ」と詰問使を送られた上杉景勝が、『直江状』を送り返したのが1600年4月14日付けのこと。


 同5月、家康は諸将に会津討伐を行なう旨を告げ、各大名は自国に戻り出陣の準備を始める。


 6月6日、家康は大阪城西の丸に諸将を集め、討伐軍の陣立てを発表。

 ただし大阪城にいたのは諸将、つまり大名と重臣たち(とその手勢)であり、討伐軍の全兵力がいたわけではない。

 兵は各大名の国元で動員され待機していたわけだ。


 6月8日、家康に対し後陽成天皇から晒100反が下賜される。

 6月15日、家康に対し秀頼から金20,000両、米20,000石が下賜される。

 これはあくまで、家康が朝廷と関白秀頼の命を受け、逆賊上杉を討つという体裁を整えるため。

 家康が大阪を留守にして東国に発てば、京・大阪で反徳川勢(石田三成・安国寺恵瓊)が徳川征伐の軍を起こすであろうということは、家康も承知していた。

 なお、黄金や米が下賜されたといっても、大阪城から荷車でゴロゴロ会津まで曳いて行けるはずもない。下賜されたのは目録である。現物は追って手配という段取りであろう。

 明治期のことになるが、米1石は2.5俵 150㎏と規定される。関ヶ原合戦の時期もだいたい同じくらいの量だったと仮定すると、米20,000石は50,000俵 30,000tということになる。


 6月16日、家康は大阪城から出陣。京都桃山の伏見城に入る。

 伏見城に鳥居元忠ら老臣2,300人を守兵として残し、自らは徳川四天王以下の精兵3,000を率いて18日に伏見を出立。


 同18日昼、家康は手勢らとともに大津に達し大津城主 京極高次から饗応を受ける。

 この京極高次という人物、姉が秀吉の側室となり、自身も淀君の妹を妻としていたため、彼女たちの尻の光で輝いているだけの凡庸な男「蛍大名」と揶揄されていた。

 しかし後に9月7日に始まる関ヶ原合戦の前哨戦 大津城の戦いでは城兵3,000を指揮して、西軍15,000の猛攻におよそ一週間(15日まで)耐えた。

 女たちの尻のおかげで光っているだけの人物とは違ったのだが、家康がもてなしを受けた6月18日の段階では、彼は蛍大名だったわけである。家康にしてみれば、高次を戦力として考えてはいなかっただろう。豊臣家の準一門衆ともいうべき大津城主が、東西のはざまでフラフラしていてくれれば儲けもの、程度の認識だったのではあるまいか。


 同18日、大津を発った家康一行は東海道に道を採り、夕刻には石部(滋賀県湖南市石部)に至る。

 東海道五十三次の51番目の宿場町である石部宿で、一行は宿泊の準備を始めた。

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