九曜美月02
初対面の感想は、一言で言うならば、当時の俺には最悪だった。人との関わりを嫌っていた俺の事を知る筈もない彼女は
「そっちに行ってもいいか?」
と、俺の返事も待たずに気に登りはじめた。
「へぇ・・・・良い場所を知っているな」
と、俺の隣に腰掛け、葉の茂みの隙間に見える町並みに、視線を向けた。
「あなた、誰ですか?」
嫌悪感を隠す事も無く言った一言に、彼女は悪戯な笑みを浮かべ
「あんたこそ、誰?」
と、言い放った。
「あなたに名乗る必要はないでしょう」
苛立ちは増すだけで、もうこの場には居られない。そう思い、俺は滑るように木からベランダへと降りる。
「またな、海棠澪亜」
「なんで、名前・・・・」
知る筈も、教えてもいない俺の名を口にする彼女に、俺は苛立ち以上に驚いた。
「これ、忘れ物だ」
そう言って放り投げられたのは、一冊のノート。ご丁寧にもしっかり名前の書かれたそれをどうやら彼女は見つけたらしい。
受け取ったノートを脇に抱えてその場を去ろうとしたら、再び上から声が降って来た。
「礼も無しかい?海棠澪亜くん?」
ささやかな挑発が、今度はしっかり耳に入った。
「どうもありがとうございましたっ!!」
吐き捨てるようにそう言うと、彼女は満足気な笑顔を見せてこう言った。
「私は美月、九曜美月だ」
手を振る彼女を残し、俺は大学を後にした。
ピーッピーッピーッ!
腕時計のアラームが、休憩時間の終わりを告げる。喫茶店の客足は変わっていない。多くもなく、少なくもない。終業時間まで、残り2時間、俺は再びカウンターへと戻った。
「ありがとうございましたー!!」
最後の客を見送り、入り口の看板の灯を落とす。春とはいえ、夜風はまだまだ冷たい。簡単な掃除を済ませ、バイト先を出たのは11時に針が差し掛かろうとしている所だった。
「澪亜、お疲れ。ホイっ!!」
最後に店を出た先輩が差し出してくれたのは、一本の缶コーヒー。有り難く受け取る俺に並び、先輩も歩を進める。
先輩の暮らすアパートと俺の住んでいるアパートは同じ通りにあり、バイトの帰りは大体一緒に帰っている。
昔の俺には、考えられない事だよな・・・・などと苦笑してみると、不思議そうに先輩は首を傾げた。
「いや、最近笑うようになったな」
「昔の俺には考えられないって言いたいんでしょう?」
「そうだな、私のおかげか?」
「先輩のおかげです。感謝してますよ」
しつこく関わりを持とうとした先輩を嫌ったままでいたならば、今の俺は存在しない。少しづつではあるが、自然と感情を出せようになって、俺を取り巻く環境は、少しづつ変わって行った。
♪〜♪〜♪〜
「あ、メール」
取り出した画面には、最近友達と呼べるようになった田尻という男からの、他愛のない文章が並んでいる。
「なんだって?」
「今から飲みに来ないか?だそうです。先輩も一緒に来ませんか?」
田尻と先輩は面識もあり、よくバイト先にも来てくれる常連でもある。
「あぁ、田尻か。ふむ・・・・」
少しの間、考えるそぶりを見せた先輩は「酒か、いいな!!」と、了承し、俺は田尻に「友達を一人連れて行くよ」とメールを返した。
「先輩、寒くないですか?」
「ん?そうだな、少し寒いな・・・・」
まだ夜風の冷たい春先、外灯に映える先輩の頬は、風に触れて淡いピンク色に染め上がっていた。
「これ、使いませんか?俺はそんなに寒くないですから」
「え、いいのか?」
首に巻いた黒い無地のマフラーを先輩の首に巻くと、指先に触れた先輩の肌から体温が伝わって来る。とても優しく、じんわりと・・・・
「澪亜はやっぱり、優しいな・・・・」
「そんな事、ありませんよ」
俺の否定の言葉を、先輩は柔らかな笑顔で俺の手を握る。
「ほら、指の冷たい人間は心が温かい。澪亜だってそうだ」
「単に冷え症なだけですよ。それより、少し急ぎましょう」
「そうだな」
さりげなく先輩の手を離し、ポツリポツリと頼りなく灯る外灯の中を、少しだけ歩く速度を上げた。隣で並ぶ先輩の顔は、どこか淋しさを浮かべていた・・・・。