騒音テレビの謎
『さぁ、点数は3対0のまま迎えた九回裏! ツーアウトながら満塁で打席には代打・大川! 一発が出れば代打逆転満塁サヨナラの場面で、球場のボルテージは最高潮に達しようとしています! お聞きください、この大歓声! 割れんばかりの応援の声の中、ピッチャー、第一球を……投げました! 空振り、ストライク!』
野球中継のアナウンサーの興奮した声が大ボリュームで室内に響き渡る。ゲームは今まさに最高のシチュエーションを迎えており、どちらのチームを応援する人間であったとしても、手に汗を握る展開と言ってもいいだろう。だが、この部屋の主である堀村朝彦の顔に浮かんでいたのは、どういうわけか興奮ではなく『怒り』の形相だった。
『ピッチャー、第二球を……投げた! わずかに外れてボール! ワンストライク、ワンボール! 高町さん、どうですか?』
『そうですねぇ、ここはバッター、臆することなく思い切りよくスイングできるかどうかがカギになると思いますねぇ』
『なるほど。さて、第三球は……あぁ、ファール! 大飛球でしたが、ボールはスタンドへ飛び込んでいきました。カウントはツーストライク、ワンボール! バッター、追い込まれています! さぁ、キャッチャーの要求は……サインが決まったようです!』
「……」
堀村の怒りの形相がますます凄まじいものになっていく。と、そんな中、ラジオの音声が一際大きなものへ変化した。
『打った! 大きい、大きい、大きい、大きい! 大川、大川、大川ぁぁぁぁぁ!』
「……」
『入ったぁぁぁぁぁぁぁっ! 土壇場、代打逆転満塁ホームラン! 代打大川、やりました! 拳を突き上げながらダイヤモンドを一周し、仲間が出迎えるホームベースへ向かって、今……ホームイン! 場内、割れんばかりの大歓声! お聞きください、このファンの喜びの声! 相手ピッチャーはがっくりとうなだれながら自軍ベンチへ……』
「うるせぇっ!」
ついに堀村は絶叫し、持っていたペンを机に叩きつけた。それも当然と言えば当然で、今まさに大音響で室内に響き渡るこの音声は、堀村の部屋ではなく堀村の隣の部屋から壁越しに鳴り響いているものなのである。
「ったく、何のつもりなんだ! 近所迷惑って言葉を知らねぇのか!」
堀村はそう叫びながら、怒り心頭に立ち上がり、玄関の方へ向かった。もちろん、隣の部屋の住人に文句を言うためである。
ここは都心にあるごくありふれた十階建てマンションの一室であり、堀村の部屋は七一一号室。そして今まさに大音量で野球中継を垂れ流しているのは、角部屋に当たる七一二号室であった。
堀村は廊下に出ると、そのまま廊下の突き当りに位置する隣の七一二号室の前に立った。ドアの向こうからは今もなお大音量の野球中継が鳴り響き続けている。
「おい、あんた! いい加減にしやがれ! こんな夜中に迷惑かけてんじゃねぇよ!」
堀村はそう言いながら七一二号室のドアをノックする。が、部屋の中から反応はない。もしかしたらこの大音響でノックの音そのものが聞こえていないのかもしれない。
「ちっ、くそったれが!」
そう呟きながら、何気なく駄目元でドアノブをひねってみる。堀村からすれば嫌がらせのつもりだったのだが、予想に反して、どういうわけかすんなりとドアが開いた。
「ん?」
自分でやっておきながら堀村は首をひねる。ドアの鍵を開けっぱなしにするなど、不用心にも程がある。しかもドアを開けると、中では野球中継の音声が先ほど以上の大ボリュームで響き渡っており、あまりのうるささに頭が痛くなってくるほどである。ここまでの大音量だともはや臨場感があるとかを通り越して単なる苦行でしかない。というか、普通の人間ならこんな大音量の中に長時間いるなど不可能だ。ここに至って、堀村も何かおかしいと感じ始めていた。
「おい、いるのか!?」
堀村は音声に負けないように大声をあげるが、返事は一向にない。誰もいないのにこれだけの大音声を響かせているのならそれはそれで問題だが、だとすれば部屋の住人は鍵もかけずにどこに行ったのかという話になってくる。中を確認すべきなのだろうが、どういうわけか堀村は自分の足がすくむのを感じていた。
隣の部屋には誰が住んでいたっけ……堀村は反射的にそんなことを考えていた。何しろここは都会の独身者向けマンションであり、家賃が安い代わりに人の入れ替わりも多いので隣人が誰なのかを知らないことも多い。かくいう堀村自身、ここには三ヶ月ほど前に引っ越してきたばかりであった。
それでも頭を振り絞って思い出していると、ようやく何度か部屋の前で鉢合わせして挨拶した記憶を思い出した。確か、隣に住んでいたのは大学生くらいの若い男だったはずだ。ただし名前はわからない。ドアの横の表札にも名前は書いていなかった。
とにかく、このままにしておくわけにはいかない。堀村は意を決して室内に入り、中を確かめてみる事にした。家具の配置を除けば部屋の構造自体は隣室である堀村の部屋と全く同じはずである。室内は鳴り響くテレビの音以外変わった様子はなく、それどころか誰かがいる気配すらない。
「誰かいないのか?」
そう呼びかけながら、堀村は一番奥にあるリビングに到達した。問題のテレビはそこにあり、今も大音量を鳴り響かせ続けている。だがその音量を下げる前に、堀村はリビングに転がる『それ』を見てしまった。そしてその瞬間、堀村は汗がサッと引くような感覚に襲われ、その場から動けなくなってしまった。
「あ……あ……」
部屋の一番奥……ベランダに通じるガラス戸の近くで転がっているもの。
それは、血にまみれた若い男の死体だったのである。
「被害者は今原浩太、二十三歳。アパレルメーカーの社員ですね」
それから三十分後、現場となった七一二号室は、堀村の通報で駆け付けた警察関係者で埋め尽くされていた。あれだけうるさかったテレビは今は電源が切られており、発見者の堀村は部屋の外で事情聴取を受けているはずである。
そして、遺体の横にはこの事件を担当する警視庁刑事部捜査一課第三係の新庄勉警部補が立っていたが、そのすぐ隣になぜかくたびれたスーツ姿の元警視庁刑事部捜査一課警部補の私立探偵・榊原恵一と、セーラー服を着た榊原の自称弟子である立山高校ミス研部長・深町瑞穂まで立っているのだった。
「榊原さん、すみません。お送りするはずが巻き込んでしまって……」
実は、榊原たちは第三係の要請で別件の事件の捜査に協力しており、ついさっきのその事件の片がついて新庄が事務所まで車で送ってくれることになったのだが、その途中で事件発生の無線が入ったため、なし崩し的に榊原たちを乗せたまま現場に急行することになってしまったのである。榊原からすれば運が悪い話ではあったが、とはいえ目の前で起こった事件を黙って傍観するようなことは榊原にはできないようだった。
「まぁ、乗り掛かった舟だ。こうなったらとことんまで協力するつもりだがね」
「感謝します」
とにかく、話を聞く限り異常な現場だった。最大の問題は、やはり遺体発見のきっかけとなった大音量で鳴り響くテレビの存在である。
「遺体発見は午後九時頃。大音量で鳴り響くテレビの野球中継に怒った隣室の住人がこの部屋を訪れ、鍵が開きっぱなしだったため不審に思って中に入った所、被害者の遺体を発見。すぐに携帯で通報したという流れです。検視官によると、死因は背後から刃物で刺された事による刺殺で、死亡推定時刻は遺体発見のおおよそ一時間ほど前……午後八時前後ではないかという事です」
「凶器の刃物は?」
「現時点では発見されていません。犯人が持ち去ったものと思われます」
「問題のテレビの音声が響くようになったのはいつ頃からだ?」
榊原のその問いに対し、新庄は即座に応えた。
「発見した隣人……名前は堀村朝彦といいますが、彼の話では『詳しい時間はわからないが、野球中継で八回表の攻撃が始まるくらいから音声が自分の部屋に響くようになった』という事です。テレビ局に問い合わせたところ、その場面は午後八時を少し過ぎたくらいの話で、犯行時間と概ね一致しています。堀村氏も最初は我慢していたのですが、まったく音量を下げる気配がなく、しかも野球中継が九回になると実況もヒートアップし始めてさすがに耐え切れなくなったとか」
「確か、今日はサヨナラ満塁ホームランが出た試合だったな」
それならテレビの実況もさぞうるさい事になったはずである。
「さて、瑞穂ちゃん、君はこのテレビの件についてどう思うね? せっかく来たんだから、参考までに君の意見を聞かせてもらおうか」
と、榊原は後ろに控える瑞穂にまるで試すように尋ねた。瑞穂は慌てたように考え込んだが、やがて遠慮がちにこう言った。
「えっと……例えばですけど、隣の部屋に助けを求めたかった……とか」
「ふむ。その心は?」
「これだけ大音量でテレビが鳴り響いたら、隣室の人が何事かと思って部屋にやってくるはずです。実際、そういう経緯で遺体は見つかっているみたいですし、テレビの音を大きくする事で助けを呼ぼうとしたんじゃないかなぁって」
と、隣の新庄も瑞穂の意見に同意するような見解を示した。
「我々もその可能性が高いと考えています。テレビのリモコンは被害者の近くに落ちていましたし、逆に携帯電話は被害者から離れた場所……キッチンのカウンターの隅で充電されていました。この部屋に電話はその携帯しかありませんので、犯人が立ち去った後で瀕死の被害者が最後の力を振り絞って助けを求めるためにテレビの音量を上げたという考えには説得力があります。実際、リモコンからは被害者の血痕と指紋が検出されました」
「なるほどね」
そう言いながら榊原は遺体の周囲を確認する。遺体は部屋の一番奥……ベランダへ出るガラス戸のすぐ近くに倒れており、周囲のカーペットには流れ出た血がしみ込んでいた。遺体の近くには血まみれになっている問題のテレビのリモコンの他、近くの机から落ちたのか割れた花瓶や辞書、ハサミやペンなどの文具が散乱している。榊原が無造作にベランダのガラス戸を開けると(無論、手袋はしている)、ベランダには干しっぱなしの洗濯物が風に揺れていた。ベランダにはなにも不自然な点はなく、干されている洗濯物にも血痕などは付着していないようだった。
「となると、まず怪しいのは第一発見者の堀村氏か?」
榊原の言葉に新庄も頷く。どんな事件でも『第一発見者を疑え』というのは捜査の鉄則であり、当然今回もその点については最初にはっきりさせておく必要があった。
「確かに、テレビの音量に怒って部屋に来た云々という状況は堀村氏の証言によるものでしかありません。殺害後に部屋を去ったところまでは良かったもののその後被害者がテレビの音量を上げた事に気付き、気付かなかったと言うのも不自然なのでやむなく自ら通報して発見者を装った可能性も捨てきれません」
「……少し、話を聞いてみるか」
そう言うと、榊原は部屋の前で事情を聞かれていた堀村の元へ向かった。新庄が合図をすると話を聞いていた所轄の刑事が一礼して離れ、代わりに榊原と新庄が前に出る。
「いくつか質問してもよろしいですか?」
榊原が尋ねると、堀村は榊原の事を刑事と思ったのか青ざめた表情のまま頷いた。
「被害者の今原氏と今まで何か面識のようなものはありましたか?」
「い、いえ。隣人ではありましたけど滅多に会う事もなくて、会っても廊下ですれ違うくらいでした」
「個人的な付き合いはなかった?」
「その通りです」
「つまり、今日まであの部屋に入った事もない?」
「あ、当たり前じゃないですか!」
堀村の反論に対し、新庄は小さく耳打ちする。
「鑑識の結果、室内からは堀村氏の指紋がいくつか見つかっています。ただ、これは堀村氏が遺体を発見した際に付着した可能性が高いという事です。もちろん、堀村氏の証言が正しければの話ですが」
「なるほどね」
榊原は頷き、さらにこう尋ねた。
「今まで、今日のように被害者がテレビの音量を上げてあなたが迷惑した事はありますか?」
「いや……ないと思う。こんな事は正直初めてです」
「では、誰か怪しい人間を見た覚えはありますか? 今日の事でも、あるいはここ数日の事でも構いませんが」
「さ、さぁ、わかりません。あんまり人付き合いがいい方じゃなくて……」
堀村は疑われているのがわかっているのか必死に思い出そうと顔をしかめているが、残念ながら何も出てこないようだった。
「では、被害者の死亡推定時刻と思しき午後八時頃、テレビの音量以外で何か不審や気付いた事はありませんでしたか?」
「いや……何分、仕事に集中していたもので。コーヒーを飲みながらパソコン作業をしていました」
「お仕事というのは?」
「クラウンソフトというIT会社のシステム開発部の責任者をしています」
「責任者……お若いのに随分出世されているようですね」
「いや、まぁ……こういうIT系の会社では珍しくもない事ですよ」
「そうですか。あと、参考までにお聞きしますが、今日、帰宅したのは何時頃ですか?」
「ええっと……午後七時頃だったと思います」
「その時に廊下で被害者に会ったりはしましたか?」
「いえ、誰にも会わなかったはずですが」
「帰宅した後はすぐに仕事に?」
「いえ、簡単な夕飯を作って食べてからです」
そこで新庄が耳打ちする。
「被害者の会社の同僚に話を聞いたところ、被害者は午後五時頃に会社を出ています。帰宅したのは恐らく午後六時から七時の間かと思われます」
「彼が遭遇しなかったとしても不思議ではない、か」
それから少し堀村に対する質問が続いたが、いずれも曖昧な答えで、結局それ以上の手掛かりは得られないまま質問を終わらざるを得なかった。が、榊原は何かを考えつつ、おもむろにマンションの廊下をゆっくり歩き始める。
「さて、と……」
榊原はそう呟きながら、現場周辺の廊下を観察していく。突然の行動に新庄や瑞穂が戸惑っている間にも、榊原は被害者の部屋の前から堀村の部屋の前を通り過ぎ、そのまま堀村の部屋の反対側の隣の部屋……七一〇号室の前で足を止め、後ろで呆気にとられている堀村に尋ねた。
「この部屋には誰か住んでいますか?」
「え、えぇ。名前は知りませんが、若いOLさんが住んでいたはずですが」
「そうですか」
榊原はそれだけ答えると、直後、何のためらいもなく七一〇号室のチャイムを鳴らした。すぐには応答がなかったが、それでも何度かチャイムを鳴らし続けていると、やがてインターホンから応答があった。
『……はい』
「失礼、夜分恐れ入りますが、少し話を聞かせてもらっても構いませんか?」
『は?』
向こうから訝しげな声が響く。ある意味当然の反応だろう。と、榊原は新庄に対して意味ありげな目配せをした。新庄はそれを見て何かを悟ったのか、榊原の近くにまで行くとインターホンに向かってこう言った。
「こちらは警察の者です。マンション内で事件があり、その捜査をしています。それで住人の方にお話を聞いているところなのですが、ご協力をお願いできませんか?」
『……少しお待ちください』
その言葉に、インターホンの向こうで息を呑む声がしたが、いったん音声が切れると、五分ほどしてドアが開いて堀村の言うように若いOL風の女性が姿を見せた。新庄が彼女に警察手帳を示す。
「こんな時間に申し訳ありません。少し、話を聞かせてください」
「はぁ、それは構いませんけど……何かあったんですか?」
女性が不審そうな表情で尋ねると、新庄の代わりに榊原が前に出て質問を始めた。
「この騒ぎにお気付きではなかった?」
「えぇ。仕事で疲れていて、帰ったらすぐに寝ていましたから。今、あなたたちに叩き起こされたところです」
女性は榊原も刑事の一人だと判断したのか、すぐにそんな皮肉気な言葉を返した。が、榊原は全く動じずに済ました表情でさらに言葉を返す。
「そうでしたか。ちなみに、お仕事は何を? ええっと……」
榊原はチラリと表札を確認するような仕草を見せ、それを見て女性はため息をつきながら答える。
「寺池です。寺池則美。警備会社の事務員をしています」
「あぁ、失礼。それで寺池さん、あなたが帰宅したのは今日のいつ頃ですか?」
「いつ頃って……確か、午後七時半過ぎだったと思いますけど」
「その際、何かマンション内で変わった事はありませんでしたか? 何でもいいんですが」
「変わった事……別に何も」
「確かですか?」
「えぇ」
「マンションに入ってから誰か見慣れない人と廊下ですれ違ったというような事は?」
「ありません」
「……結構。ところで、先程の話だと、あなたは帰宅後すぐに寝たという事ですが、それも間違いありませんか?」
「間違いって……確かに夜食を食べたりシャワーを浴びたりくらいはしましたけど、帰宅から一時間後にはベッドに入っていました」
「なるほど、ね」
榊原は意味深に頷くと、質問の切り口を変えた。
「話は変わりますが、『今原浩太』もしくは『堀村朝彦』という名前に心当たりはありませんか?」
「……さぁ、知りません」
「知らない、ですか」
「えぇ。最近引っ越してきたばかりだし、あまり近所付き合いもしていないので。部屋の前に表札も出ていませんし」
「ふむ……ところで、帰宅してから寝るまでの間に何か物音はしませんでしたか?」
「物音ですか?」
「何でもいいんですがね」
「……生憎、何も。」
「例えば、テレビの音はどうでしょうか?」
「テレビって……そんなの、聞こえるわけがないでしょ。どれだけ離れてると思ってるの」
「そうですか」
「あの、もういいですか? 私、明日も早いんです。もう寝たいんですけど……」
不審げな表情から不満めいた表情に変わっていた彼女はそう言って話を切り上げようとしたが、榊原は穏やかな口調でこう言った。
「あぁ、失礼。こちらからの質問はあと一つだけですので、それに答えて頂ければお休み頂いて結構です」
「はぁ、そうですか。ならさっさと済ませてほしいんですけど、その質問って何ですか?」
「いえ、簡単な質問ですよ」
そう前置きすると、榊原はまるで世間話をするかのようにさらりと告げた。
「寺池さん、どうしてあなたは、今原浩太氏を殺害したのですか?」
瞬間、マンションの廊下の空気が一気に緊張に包まれたのだった……。
「……え?」
人間というものは、想像を超える何かが発生するとまともにものを考えられなくなってしまうものらしい。この時の寺池則美がまさにその状態で、榊原による言葉の『奇襲』を受け、咄嗟に反応する事ができなくなっていた。そして、その隙を逃す榊原ではなかった。
「あなたですよね? 今回の事件の真犯人」
「い、いきなり何を言って……」
先制パンチを受けて何とか体勢を立て直そうとする則美だったが、榊原はそれを許さない。
「あぁ、失敬。『質問』と言いましたが、別に答えてもらわなくても結構です。その反応で全てわかりましたし、答えてもらわずともある程度の事は推測がついていますから」
「いい加減に……」
則美の顔に怒りが浮かぶが、榊原は穏やかな口調ながらも鋭い視線を向けて言葉を紡ぎ出していく。
「この事件最大の疑問点……それは、言うまでもなく犯行現場に大音量で鳴り響いていたテレビという事になりますが、よりこの疑問点を詳しく言うなら、『なぜ、犯人は犯行後にわざわざテレビの音量を最大に上げて現場を立ち去ったのか?』という事になります」
「えっ!」
声を上げたのは瑞穂だった。何と榊原は、テレビの音量を上げたのは瑞穂が推測したような被害者ではなく、むしろ犯人の方だったと主張しているのである。
「あの、先生。音量を上げたのは被害者じゃないんですか?」
瑞穂の問いに、榊原はあくまで則美の方をしっかり見据えながら答えた。
「一見するとそう見えるのも無理はないが。私は音量を上げたのは被害者ではなく犯人だったと推理する。まぁ、より厳密に言うなら『被害者が音量を上げたとは考えにくいので、必然的に残る犯人が上げたと考えるしかない』という事になるがね」
意味がよくわからない。首をひねる瑞穂に榊原はさらに説明する。
「仮に音量を上げたのが被害者自身だったとした場合、その目的は瑞穂ちゃんがさっきも言ったように『周囲に異常事態を知らせて助けを求めるため』としか考えられない。それ以外に被害者がそんな事をする理由がないからだ。だが、そうだとするなら被害者の行動に不可解な点がある」
「不可解な点、ですか?」
「あぁ。と言うのもだ、もし本気でテレビの音声で助けを求めるつもりだったとするなら、なぜ被害者はベランダの扉を開けるなり、ガラスを割るなりの行動をしなかったんだろうか?」
「え?」
思わぬ事を言われて瑞穂はきょとんとする。
「いくら音量を上げたところで、助けを求めるべき隣室は壁の向こうだ。気付かれない可能性の方が高いし、気付いたとしてもすぐに様子を見に来るとは限らない。実際、堀村氏が我慢できずに様子を見に来るまで一時間前後はかかっている。瀕死の被害者にそこまで気長に待つ余裕はないはずだ」
確かに、よほど短気な人間でもない限り、隣室から大きな音が響いてすぐに文句を言いに行く人はいないだろう。大抵は相手がすぐに音量を下げる事を期待して、その音が一定以上響き続けない限りは苦情を言ったりはしないはずだ。
「だが、被害者が倒れていた場所のすぐに横にあるベランダの扉を開ければ、この問題はすぐにでも解決するはず。テレビの大音量が外に鳴り響いているとなればすぐにでも誰かが駆け付けてくるだろうからな。しかし、この被害者はそれをしていない」
「でも、倒れていた被害者にはベランダの鍵を開けるなんて……」
そう言いかけて、瑞穂はふと、現場検証の際に榊原が鍵を開ける事無く無造作に現場のベランダの扉を開けていた事を思い出した。それが意味する事は一つである。
「そう、ベランダの鍵は開いていた。でなければ私が現場検証時にベランダを開ける事はできないはずだ。そして鍵が開いていたなら、倒れていた被害者にもベランダの扉を開ける事はできるはずだ」
「それはそうですけど……」
「それに、仮に鍵が開いていなかったとしても、被害者の近くには分厚い辞書が落ちていた。ガラスもそれほど厚いタイプではなかったし、いっそこれでガラスを割る事もできたはずだ。むしろそうした方が、異常事態を外部に知らせる事が可能だったはず。いずれにせよ、この状況で今にも死にそうな被害者が近くにあるガラス戸に何もせずにいきなりテレビの音量を上げた理由に説明がつかない」
「だけど、例えば先にテレビの音量を上げて、その後でベランダを開けようとした際に力尽きた可能性もあるんじゃ……」
瑞穂は遠慮がちに反論してみるが、榊原は首を振った。
「その場合でも、『テレビにしか手を出していない』というのはあまりにも不可解だ。何度も言うように、被害者はベランダのガラス戸のすぐ横に倒れていた。そして、被害者はいつ死んでもおかしくないほどの瀕死の重傷だ。だとすれば、『テレビの音量を上げる』『ベランダの扉を開ける』という動作を悠長に一つずつやる余裕などない。いつ力尽きてもおかしくない以上、普通なら被害者はこの二つの動作を『一度にしようとする』はずだ。少なくとも、より簡単に手を出せるガラス戸に一切触れる事無くテレビの音量を上げる事だけに集中するというのは、死の間際の被害者の行動としてはあまりにも不自然すぎる」
「それは……確かに」
瑞穂としては納得せざるを得ない。確かに自分も同じ状況に陥ったのなら、いつ死ぬかもしれない状況で一つ一つやる余裕はないだろう。無理にでも一度にやろうとするはずで、少なくともガラス戸側に何の痕跡も残っていないというのは不自然すぎた。
「以上より、被害者がテレビの音量を自分で上げたという可能性は考えにくい。となれば、テレビの音量を上げたのは犯人自身という事になる。状況から見て犯行後にリモコンで音量を上げ、なおかつ被害者が自分でリモコンを操作したように見せかけるため血痕と指紋を付着させたと考えるのが妥当だろう。すると次の問題は『なぜそんな事をしたのか』という事になる」
「なぜ、って……」
瑞穂は戸惑うが、榊原はすぐに答えを告げた。
「簡単に言うと、『犯人がテレビの音量を上げた事でどのような事象が発生したか』を考えればいい。そしてそれは言うまでもなく、『テレビの音が隣室である堀村氏の部屋まで響き渡り、騒音に怒った堀村氏が現場を訪れて遺体を発見する事になった』という事象だ」
「それは……言われるまでもなくその通りですけど……」
その先の論理がわからず、瑞穂は真剣に困った表情になる。が、榊原の口調はゆるぎなかった。
「ならば話は簡単だ。騒音で怒った堀村氏が現場を訪れ遺体を発見する事……それこそが現場のテレビの音量を上げた犯人の目的そのものであり、そして堀村氏は見事に犯人の思惑通りに動いてしまった。それがこの事件で犯人が描いた構図だったというわけだ」
そう言われて瑞穂は考え込む。
「つまり早期に遺体を発見させる事が犯人の目的だったってわけですか? でも、何のために?」
この手の事件の場合、よくあるシチュエーションは意図的に早期に遺体を発見させる事で遺体の死亡推定時刻を正確に算出させ、それを利用したアリバイ工作を行うという手法だ。だが、今回はそもそもアリバイを持っているような事件関係者が確認されておらず、この可能性は考えにくいと瑞穂は思った。
しかし、榊原は瑞穂の考えを大きく超える答えを返した。
「それはもちろん、犯人が『堀村氏の部屋』に侵入するためだ」
「え?」
聞き違いかと思い、思わず瑞穂はそんな声を上げてしまった。だが、榊原は大真面目である。
「隣の部屋から大音量の音が長時間鳴り響き続ければ、当然部屋の住人は怒って隣の部屋に抗議に行く。ただしこの時はまさか隣で殺人事件が起こっている事などわからないから、少し注意してすぐに戻ってくるつもりのはずだ。その状況で、わざわざ自分の部屋のドアの鍵をしっかり閉めてすぐ目の前にある隣の部屋に行ったりするかね?」
「ええっと……」
そう言われると、確かに同じ状況なら、自分もわざわざ自分の部屋の鍵をかけたりせずそのまま文句を言いに行きそうだ。
「そして実際に隣の部屋の前に行ってみれば、どういうわけかドアは開いている。そうなれば、堀村氏は不審に思って部屋の中を確認しにいくはずだ。何しろこの部屋は、テレビの大音量が鳴り響いているにもかかわらず鍵が開いたままという異常事態なわけだからな。だがこの時点……つまり彼が確認のために隣室に足を踏み入れた段階で、彼の視界からすぐに戻るはずだった自室のドアは消えてしまっている。しかも鍵がかかっていない状態で、だ。そしてもし、彼の部屋に不法侵入したいと考えている人間がいるなら、この瞬間はまさに絶好の機会という事にならないかね?」
「じゃ、じゃあ……」
「犯人は堀村氏が隣室に入っていくのを確認し、堀村氏の自室に侵入した。そして、そこで『目的』を果たすと、堀村氏が遺体を発見して隣室から出てくる前に、すぐに彼の自室から脱出したはずだ」
話を聞いていた堀村の顔色がみるみる蒼くなっていく。
「被害者の遺体がなぜ部屋の一番奥のベランダ沿いにあったのかという疑問にも、この推理が正しいとすれば簡単に説明がつく。それはなるべく堀村氏による遺体の発見を遅らせ、なおかつ部屋の一番奥まで侵入させる事で、堀村氏が自室に戻ってくるまでの時間稼ぎをするためだった。だからこそ犯人は被害者の遺体を一番奥のベランダ沿いに遺棄した。もっとも……その結果さっき話したベランダの矛盾が発生してしまい、真相を明らかにする大きな手掛かりになってしまったのは皮肉だがね」
「だったら、今回の事件の犯人の動機は……」
「この推理が正しければ、今原氏殺害は堀村氏の部屋に侵入するための『手段』に過ぎない。となれば……犯人にとって本命はあくまで堀村氏の方で、今原氏に対する直接的な殺害動機は存在しない可能性さえある。ある意味、恐ろしい話だがね」
誰もが絶句する。他人の部屋に侵入するために何の関係もない隣人を殺害する……それが本当なら確かに恐ろしい話なのは事実だった。
「一体……犯人がそこまでの手段を使って堀村氏の部屋に侵入した『目的』は何だったんですか?」
新庄の問いかけに、榊原は淡々と応じた。
「関係ない人間を殺してまで部屋に侵入したからには、考えられる目的はそう多くないだろうな。堀村氏の部屋の中にある何かを密かに奪おうとしたか、あるいは……部屋に何か仕込みをして遠隔的に堀村氏に危害を加えようとしたかだ」
「危害、ですか?」
「あぁ。はっきり言ってしまえば、堀村氏の殺害が目的だった可能性さえある」
「さっ……」
いきなりとんでもない事を言われて後ろで堀村が絶句するが、榊原は涼しい表情のままだ。
「さっきも言ったように、関係ない人間を殺してまで部屋に侵入している以上、生半可な理由ではなかったのは確かなはずだ。当然、堀村氏の殺害を計画していた可能性は考慮しなければならない」
「警察の目の前で新たな殺人を実行しようとしていたって事ですか? いくらなんでもリスクが高すぎませんか?」
瑞穂は信じられないという風な顔をする。しかし、榊原はこう切り返す。
「逆だ。警察がうろついているこの状況で、今原浩太殺害事件の第一発見者が密室となった自室で死亡していた場合、警察がどういう判断をすると思うかね?」
「それは……その死に様にもよりますけど、普通だったらその第一発見者が犯人で警察の捜査に耐え切れなくなって自室で自殺した、と考えると思います」
実際、現状では第一発見者である堀村をかなり疑わしい目で見ていた事は事実だ。第一発見者を疑うというのは犯罪捜査の鉄則でもある。
「つまり犯人としては、本命の標的である堀村氏を自殺に見せかけて殺害する事で今原浩太殺害の罪も彼にかぶせてしまい、さらに警察の目の前で『自殺』を許させてしまう事で、その後の警察の捜査を打ち切らせようという思惑があったんだろう。なかなかによくできた計画だ」
そう言ってから榊原は少し声を落とした。
「何だかんだ言ったが、この推理が正しいかどうかは改めて堀村氏の部屋を調べてみるのが一番手っ取り早い。物の盗難が目的なら部屋からなくなっているものがあるはずだし、危害を加える事が目的なら何かの仕掛けが室内に残されているはずだ。仮にさっきの推理のように自殺に見せかけて遠隔的に殺害したかったとすれば、採れる手段はそう多くない。例えばそう……部屋の飲み物に毒物を仕込むとか」
それを聞いてかすかに目の前の則美の顔色が変わる。それを見ながら、確信めいた表情で榊原はこう続けた。
「私としては部屋の中にある飲み物を調べてみることをお勧めする。特に飲みかけの飲み物でもあれば、なお優先して調べるべきだ。聞いた話だと、彼は部屋を出る前にコーヒーを飲んでいたようだから、その辺りが怪しいかもしれない。今まで自室で飲んでいた飲み物にまさか毒物が入っているとは思わないだろうし、無警戒かつ高確率で堀村氏は飲むはず。確実に彼を殺すなら、私ならそこに毒物を仕込むね」
「……」
「それと自殺に見せかけるつもりだったら、部屋のどこかに『自身が今原氏を殺害した犯人で、罪の意識に耐えきれなくなって自殺する』というような事が書かれた遺書がこっそり隠してある可能性もある。あるいは、直接凶器の血痕付き刃物を室内に隠す事もできたはずだ。この推理が正しいなら、堀村氏がまだ亡くなっていない現状、その辺りの証拠が室内に多く残っているはずだ」
榊原の言葉に、新庄の目配せを受けて刑事や鑑識の人間が堀村氏の自室に飛び込んでいく。堀村氏は茫然自失のまま、彼らの行動を止めるような事はしなかった。
「もっとも、さすがに現段階では堀村氏に対する動機までわかりかねるがね。ただ、直接堀村氏を殺害するという簡易な方法を採らず、あえて堀村氏に今原氏殺害の疑いをかけてから自殺に見せかけて殺害するという回りくどい方法を採用していたとするなら、堀村氏を肉体的のみならず社会的にも抹殺する事が目的だったと考えるべきなのかもしれないがね。まぁ、その辺りの真相の解明は今後の捜査次第だろう」
そして、榊原は改めて正面の則美に向き直る。
「さて……仮にここまでの推理が正しかったとした場合、犯人は堀村氏が隣室に行くタイミングをどこかで見計らう必要があります。何しろどれだけ大音量でテレビを流していても、堀村氏がいつ苦情を言いに行くかは本人以外誰にもわからないんですからね。となれば、犯行後一時間にわたり、犯人は被害者及び堀村氏の部屋の入口をどこかで監視していた事になるのですが、そうなると問題は『犯人は一体どこで監視をしていたのか』という点になります。しかも犯人は、堀村氏が被害者の部屋に侵入したタイミングで堀村氏の部屋に侵入しなければならないので、その監視場所は両者の部屋に近い場所でなければならない。さて、両者の部屋を誰にも気付かれずに一時間以上監視できて、なおかつ堀村氏が被害者の部屋に入った瞬間に堀村氏の部屋に侵入できる……そんな都合のよい場所がどこにあるかと言えば……」
「……被害者か堀村氏の部屋の隣室、という事になりますね。被害者の部屋は角部屋で隣室は堀村氏の部屋しかないので、そうなると必然的に堀村氏の部屋から見て被害者の部屋とは反対側の隣室であるこの部屋が怪しいという事になります」
新庄が厳しい表情で榊原の言葉を引き取った。だからこそ、榊原は堀村の隣室であるこの部屋の住人に狙いを絞ったのだ。
「ざっと調べましたが、廊下や被害者の部屋に盗聴器や隠しカメラがあった痕跡はなし。堀村氏の部屋はまだ調べていませんが、そもそもこの犯行の目的は堀村氏の部屋に侵入する事であって、盗聴器だのを仕掛けるために堀村氏の部屋に侵入できるのならこの犯行そのものを行う意味がありません。となれば、直接監視していたと考えるしかない。堀村氏に気付かれずにそれができるのは隣室のこの部屋だけというわけです」
そして榊原はジッと則美を見つめる。
「さて……今までの推理に対して何か言うことは?」
それに対し、則美は顔を引きつらせながらもこう反論した。
「証拠は……私がそんなことをした証拠はどこにあるんですか!」
だが、榊原は動じることなく冷静に切り返す。
「事件が起こったのはついさっき。ならば、被害者の今原氏を殺害した際の証拠類……例えば、殺害時に着ていた血痕付きの衣服や手袋などはまだ処分できていないはずです。凶器の刃物は堀村氏の部屋に隠して罪を押し付ける事ができるでしょうが、明らかに堀村氏と体格が違うあなたの服や、内側に指紋が残っている可能性がある手袋まで押し付ける事はできなかったはずです。おそらく犯人もこんなに早く自身に疑いがかかる事は想定していないはず。予定では明日にでも堀村氏の『自殺』が発覚し、事件が一応の終息を見た時点でそれらの証拠はゴミにでも出して隠蔽するつもりだったのでしょうが……残念でしたね」
と、そこへ堀村の部屋を調べていた刑事や鑑識職員が出てきた。
「新庄警部補、部屋の机の引き出しの中にこれが」
そう言って刑事がビニール袋に入れられた凶器と思しき血痕付きの包丁と、『遺書』と書かれたパソコン打ちの紙を示す。新庄はチラリと堀村の方を見やるが、彼は真っ青な顔で「覚えがない」と言わんばかりに激しく首を振る。どうやら榊原の推理通り、目的は何かの窃盗ではなく堀村氏の殺害だったようである。
「それと、テーブルの上に置いてあった飲みかけのコーヒーを調べたところ、酸化還元反応を確認しました。詳しい調査はこれからですが、おそらく青酸カリが入っていますね」
鑑識の報告に、堀村はもはや卒倒しそうな様子だった。もしこの場に榊原がいなかったら、そのまま部屋に帰って何も知らずにさっきまで飲んでいたコーヒーを飲むことになっただろう。そうなったらわけもわからないまま死亡する羽目になった上に、一切の弁明ができないまま全ての罪を着せられて社会的にも半永久的に抹殺される可能性があったのだから、堀村のこの反応も当然と言うべきものだった。
「失礼ですが、あなたの部屋の中を調べさせて頂いても構いませんか?」
新庄は丁寧に、しかし有無を言わさぬ口調で則美に詰め寄る。が、則美は引きつった顔をしながらこう反論した。
「お断りします。調べたかったら令状を持ってきてください」
この状況での家宅捜索は任意捜査であり、拒否された場合は裁判所の発行する家宅捜索令状が必要になる。深夜のこの時間帯に裁判所が開いているわけもなく、令状の発行は早くても明日の朝。その間に証拠を処分する腹積もりなのだろう。
だが、そうは問屋が卸さなかった。
「いいでしょう。ところで話は変わりますが……あなた、さっきおかしなことを言っていましたね」
「は?」
「私があなたにいくつか質問をした時の話です。私が『今原浩太もしくは堀村朝彦という名前に心当たりはないか?』と尋ねた時、あなたは知らないと答えた上で、その理由として『最近引っ越してきたばかりで、あまり近所付き合いもしておらず、部屋の前に表札も出ていなかったから』というような事を言っていたはずです。間違いありませんね?」
「それは……確かにそう言いましたけど、でも、それが何か?」
警戒気味に反論する則美に対し、榊原は矛盾点を叩きつけにかかる。
「何かも何も、なぜあなたは私の尋ねた二人……つまり『今原浩太と堀村朝彦』の事を何も知らないと言っておきながら、同時にこの二人が『このマンションの住人である事』……それも『この部屋の近所の住人である事』を前提としているような答え方をしたんですか?」
「……え?」
そう聞かれて、則美の顔色が見る見るうちに蒼くなっていく。それを確認しながら、榊原は静かに語りかけていく。
「あの質問をした時点で、私も新庄警部補もあなたに先入観を抱かせないために事件の詳細についてはあえて一切話していませんでした。話したのは『マンション内で事件があった事』と『それについて話を聞きたい』という事だけで、『事件が起きたのはこの部屋の隣室である』とか『その事件は殺人事件である』とか『その事件でマンションの住人が殺された』というような具体的な事は全く話していません。しかもあなたは話の冒頭で自分から『今の今までずっと寝ていてこの騒ぎには全く気付いていなかった』と言っていたはずです」
「それは……」
則美は何かを言おうとするが言葉が続かない。榊原はさらに畳みかけていく。
「この状況で刑事から特定の人名を聞いた場合、普通の人はその人物が何らかの事件の関係者である事までは推測できても、それがどんな事件で、その人物が事件においてどのような立場なのかまでは把握できないはずです。例えば『今原浩太』という名前を聞いたところで、それが被害者なのか容疑者なのか、被害者だとしてどこでどのような被害を受けどのような立場の人間なのか、逆に容疑者だとしてそれが果たしてマンションの関係者なのかどうかなど、その手の詳しい話は全くわからないはずですね」
「……」
「にもかかわらず、あなたは事件がこの部屋の近隣の部屋で起こった事、そして知らないと言ったはずの今原浩太と堀村朝彦が近くの部屋の住人である事を正確に知っていた上で、どういうわけかそれを知らない風に取り繕っていました。そうでなければこの質問において『近所付き合い』『表札が出ていない』などという単語は絶対に出てこないはずです」
則美は歯を食いしばりながら榊原の言葉を聞いている。自分がミスをしてしまった事は理解したようだが、それでもまだその眼には闘志がこもっている。が、榊原はそんな則美に対してさらに追い打ちを仕掛けにかかった
「それともう一つ。あなたが寝るまでの間に何か不審な音がしなかったかと聞いた時の話ですが、何もなかったと答えたあなたに対し、私はさらに『例えば、テレビの音はしなかったか?』というような質問をしました。それに対し、あなたの答えは『テレビって……そんなの、聞こえるわけがないでしょ。どれだけ離れてると思ってるの』というようなものだったはずです」
「……」
これ以上、上げ足をとられるのが怖いのか、則美は榊原を睨んだまま何も答えない。が、榊原は鋭い視線を彼女に向けながら容赦なく続けた。
「問題はその答え方でしてね。『聞こえるわけがない』……なぜそんな聞こえない事を『断定』するような言い方をしたんですか?」
「……どういう意味?」
「あなたの答え方は簡単に言うと『この部屋でテレビの音が聞こえる事は絶対にあり得ない』……つまり『この部屋で他の部屋のテレビの音が聞こえない事を確信している』と解釈できるものです。しかし、なたにはなぜそれが確信できたのでしょうか?」
「なぜって……だから、部屋一つ離れているのよ。いくら防音じゃないからって、部屋が離れていたらそんな音が聞こえるわけが……」
と、そこまで言って則美はハッとした様子で急に口をつぐんだ。榊原が小さく不敵な笑みを浮かべる。
「その言葉が聞きたかったんです。では、今の言葉を踏まえた上でもう一つ質問しましょう。寺池さん、なぜあなたは、テレビの音が鳴っていたのが『隣室ではない』と思ったのですか?」
「いや、だって……」
「普通、この聞き方をした場合は『隣室での物音』について考えるはずです。しかし、あなたはなぜか二つ隣の部屋……つまり、殺人現場の音について聞かれたかのような答え方をした。それはまるで、テレビの音が鳴っていたのが殺人現場である事を知っていたかのような反応です。何度も言うように、この質問をした時点で我々は『殺人現場が二つ隣の部屋だった』などという情報は一切明かしていません。にもかかわらず、なぜあなたはそれを前提とした答えをしたのですか? この矛盾は、先程の発言の矛盾以上に致命的なものであるはずです」
「う……うう……」
則美は答える事ができず、呻き声を上げる。と、ここで榊原は後ろの新庄に呼びかけた。
「新庄、これならば彼女の緊急逮捕の要件は満たせるか?」
その言葉に、新庄も何かに気付いたように頷いた。
「……えぇ。一般的に認識されている緊急逮捕の構成要件は『死刑、無期または三年以上の懲役もしくは禁固に当たる罪を犯したと疑う充分な理由がある事』『急速を用し、裁判官の逮捕状を求める事ができない事』『逮捕の必要性がある事』の三つです。本件は殺人事件ですので三年以上の懲役に当たる罪に該当し、今は夜間ですので裁判官の逮捕状を求める事ができない状況です。また、任意の家宅捜索を拒絶した彼女の態度を見るに、今逮捕しなければ証拠の隠滅や逃亡を図る可能性が非常に高い。そして、犯人しか知りえない情報を述べたたった今の失言で『本件殺人を犯したと疑う充分な理由』ができたと我々は解釈する次第です。つまり……刑事訴訟法210条の緊急逮捕の要件を満たしたものと判断します」
逆に言えば、推理前の段階では「逮捕の必要性」や「殺人に関与していると疑う充分な理由」はなかったという事でもある。だからこそ、榊原は失言を誘発させる事で「事件関与を疑う充分な理由」を生み出し、さらに彼女が失言をして犯人である事がほぼ確定した時点であえて推理をぶつけて任意の家宅捜索を拒否させる事で「証拠隠滅を図る可能性」を推認させ、緊急逮捕の可能性を生み出したのだろう。ある意味、則美からすればまんまと榊原の罠にはまった形だった。
「だそうです。さて、どうしますかね?」
榊原がそう言って則美を睨んだ瞬間、もはやこれまでと判断したのか、則美は目の前に二人がいるにもかかわらず、勢いをつけてドアを閉め部屋に立て籠もろうとした。が、榊原がすかさず閉まろうとするドアを足で強引に止め、その間に新庄がなおも両手で無理やりドアを閉めようとする則美を拘束しにかかる。それでもなおドアにしがみついて首を振りながら激しく抵抗する則美に対し、新庄は鋭く告げた。
「寺池則美! 今原浩太殺害容疑であなたを緊急逮捕する!」
「放して! 放してよ! こんな……こんな終わり方……畜生!」
絶叫する則美に他の刑事たちも殺到し、榊原は「後は任せた」と言わんばかりにその場から一歩引く。その瞬間、この事件に決着がついた事を瑞穂は悟る事になったのだった……。
その後、彼女を拘束した状態のまま朝になると同時に、警察は裁判所に申請して寺池則美の自室に対する家宅捜索令状を申請し、部屋の捜索が実行に移された。結果、室内から榊原が述べたような血染めの衣服や手袋、さらに青酸カリを入れていたと思われる小瓶などが見つかった事から、この時点を持って正式な逮捕状が発行。寺池則美は今原浩太殺害容疑で正式に逮捕される事となったのである……。
……それから数日後、榊原をもってしてもあの段階ではわからなかった事件の動機についての情報が新庄からもたらされた。そしてその動機は、榊原からしても想定外のものだった。
「産業スパイ、だと?」
品川にある事務所でその電話を受けた榊原の顔が険しくなる。電話口の新庄の口調もかなり深刻なものだった。
『証拠がそろって観念したのか今日になってついに自白しました。堀村氏と寺池則美の間に面識がないのも当然です。彼女は産業スパイもどきの工作活動の一環として何の関係もない今原氏を殺害し、その上で全ての罪を着せて一度も面識のない堀村氏を殺そうとしていたようです』
「詳しく聞かせてくれ」
新庄の話によると、堀村の勤務先であるIT会社『クラウンスタジオ』は新進気鋭のベンチャー企業ながらすでにいくつかのソフトウェアプログラムで独自の特許を得ており、実はそのプログラムのいくつかがロケットなどに内蔵される高度なコンピュータープログラムへ転用できる可能性を秘めていた。
これに目を付けたのが近年ソフトウェア業界に参入してきたばかりの『ダニエルイノベーション(通称「DI社」)』という外資系企業で、彼らは数年後に種子島から打ち上げが予定されている国産ロケットに使用されるコンピュータープログラミング開発の受注を巡り、国内最大手のソフトウェア企業『アルヴァスソフト』と激しく争っている状態だった。この受注合戦の状況については、正直な所、新規参入したばかりのDI社に対して今までにも何度か国産ロケットへのプログラミング提供の実績を持っているアルヴァスソフトの方が一歩も二歩も進んでいる状態であり、このままでは受注合戦に敗北する可能性が極めて高い状態だった。
そんな中、彼らはクラウンスタジオが特許取得していたソフトウェアプログラムに注目。そのソフトウェアプログラムは今までにない斬新なコンセプトで作られていたことから、これさえあればまったく新しいプログラム開発が可能となり、受注合戦で確実に勝利できるどころかその後のビジネスにおいても他社に対して有利に立ち回れる可能性を秘めていた。そこからDI社は密かにクラウンスタジオの上層部と接触し、企業合併や技術提携など硬軟織り交ぜた交渉を展開していたのだが、自社の技術に自信を持ち、さらに急な接近に警戒心を持ったクラウンスタジオ経営陣はこれらの要請をことごとく拒否。このような経緯で追い詰められたDI社が選んだ手段が、産業スパイを使ってクラウンスタジオに対する非合法な工作を行って交渉を有利にするというものであり、その実行役として選ばれたのが今回の犯人である寺池則美であった。
『調べた所、寺池則美の勤務先は『ハートフル警備』という小さな警備会社なのですが、この会社は元暴力団員が設立した汚れ仕事も請け負うような会社であり、そのハートフル警備の社長とDI社の社長が懇意の関係にあった事が判明しました。このため、DI社からハートフル警備にクラウンスタジオに対する産業スパイ関連の依頼が行われ、その依頼を受けたハートフル警備社長が部下の寺池に今回の一件を指示したという経緯のようです。寺池自身、かつてはレディース系の暴走族に所属していた事があり、その時に当時まだ暴力団員だったハートフル警備社長とのつながりができ、レディース脱退後にその縁で現在の会社に就職したという経歴の持ち主でした。本人は事務員と言っていましたが、どうもこの手の裏の仕事の際にも使われる存在だったようで、現在、余罪を追及しています』
「……目的は、クラウンソフトの重要人物である開発部責任者の堀村に殺人の罪を着せて『自殺』させる事で同社に対する世間の批判を喚起し、クラウンソフトを経営的に弱体化させて問題の技術の買収、もしくは会社そのものの合併に持ち込む事だったという事か」
『その通りです。なお、今回の件を受けてすでにDI社とハートフル警備に対する強制捜査が行われています。関係者の数も多いため、今後、それぞれの会社からかなりの数の逮捕者が出る事も想定されています』
「予想以上の大捕り物になりそうだな」
さらに詳しく聞くと、事件当日の具体的な犯行の形態は概ね榊原が推理した通りだった。真の標的である堀村朝彦の隣室に引っ越す事に成功した則美は、堀村の反対側の隣室にたまたま住んでいた今原浩太に目をつけ、好意がある風を装って密かに接触を図っていたのだという。当の今原は彼女に裏があるなど微塵も思わないままこれに引っかかり、ついには自室に彼女を招き入れるまでになったとの事だが、それは全て彼女の計略だった。事件当日、今原の部屋を訪れた則美は疑う事なく招き入れられ、今原が隙を見せた瞬間を見計らって背後から刺殺。その後、部屋に残った自身の痕跡を消しつつ、テレビの音を大音量にして部屋から脱出したのだという。もちろん、隣室にいる堀村以外の第三者が来てもらっては困るのでベランダのガラス戸を開けたりするような事はできなかったのだが、皮肉にもそれが榊原に不審を抱かせる事になってしまったのである。
その後も榊原の推理通りで、自身の部屋のドアの隙間から様子を伺いつつ、テレビの騒音に我慢できなくなった堀村が今原の部屋へ向かい、そのまま異常に気付いて部屋に入ったのを見計らってすぐに堀村の部屋に侵入。凶器の血が付いたナイフやパソコンで打った遺書を隠し、机の上にあった飲みかけのコーヒーに青酸カリを混入して脱出すると自室に戻り、あとは第一発見者として疑いをかけられるであろう堀村が自室に戻って毒入りコーヒーを飲み死亡するのをゆっくり待つ計画だったという。しかし、まさかそうなる前の段階で表向き何の関係もない自分が警察の訪問を受ける事は完全に想定外で、それゆえに榊原の問いかけに対する受け答えにボロが出てしまったのが運のつきだった。
『とはいえ、間一髪でした。もし榊原さんがいなかったら、恥ずかしながら堀村殺しを防ぐ事はできなかったかもしれません。そうなれば最悪の場合、寺池の計画通り堀村を犯人と断定して捜査が終了していたか、仮に堀村の死を殺人と見ぬけていたとしても解決までにかなりの困難を伴う事になった可能性があります。本当に助かりました』
「役に立てたのならそれで充分だ。わざわざ報告してもらってすまないね」
『いえ、協力して頂いたのですから当然です。では、ひとまずこれで』
「あぁ、わかった」
榊原は電話を切ると、事務椅子にもたれかかって小さく息を吐いた。その様子を、来客用ソファの方から瑞穂が見つめている。
「何と言うか、予想以上に大きな話になったみたいですね」
「そうだね。さすがにそこまでは私も予想外だったが……ひとまず、目の前で新たな殺人を許すという最悪のケースにならずに済んでよかった」
「でも、いきなり隣の部屋の人に話を聞き始めて、そのままその人を犯人呼ばわりした時はびっくりしましたよ。もし、あの時の尋問で相手が失言しなかったらどうするつもりだったんですか?」
瑞穂の素朴な疑問に榊原はあっさり答えた。
「その場合は推理をぶつける事なく一度退くしかなかっただろうね。もっとも、それでも一応堀村氏の部屋の確認は進言するつもりだったし、新たな犯行さえ防げればまた別のやり方で犯人を追い詰める事は充分にできたとは思う。ただ、今回は比較的スムーズに事が運んでホッとしているのも事実だ」
「……色々考えているんですね」
「人の人生がかかっているからね。探偵として二手、三手先まで考えるのは当然だ」
「そうですよね……。勉強になりました」
「なら結構」
そう言うと、榊原は話を切り替えるようにこう続けた。
「さて……一応、ひと段落着いたし、ご飯でも食べに行こうか。さすがに今度はいきなり事件に巻き込まれるという事もあるまい」
「どこに行くつもりですか?」
「そうだね……近くに新しい洋食屋ができたらしいから、そこに行こうと思っている」
「賛成です! じゃ、早く行きましょう!」
そして、二人は事務所を出ていった。真の探偵・榊原恵一の日常はいつもと変わらず続いていく。たとえどんな事件が起こり、そして彼の前に立ちふさがろうとも、それは決して変わる事のない事実なのである……。