ハルの唄2
つき合い始めて2、3カ月たったころの週末の夜、絵里が前から見たいと言っていたお目当ての映画を見終わり、何時ものように居酒屋で映画の感想をしゃべりながら2人ともほろ酔い気分。店を出て手をつなぎ帰りの駅までの夜風が、やけに気持ち良かったのを覚えている。楽しかったねって、ほほ笑む絵里に、あぁ楽しかったって笑顔で相づちを打ちながら、終電の時間は迫ってて。
「キャー電車来ちゃうきちゃう」
途中から駅に半分は駆けこんだ感じになって、あわてて券売機の前で財布を取りだす絵里の横顔を見ていた。そしていつもだと、この後改札を抜ける絵里に手を振りながら見送るだけで済むのに、今日に限って、あ…どうしても絵里を帰すの嫌だ。離れたくない。そばにいてほしいって思う気持ちが急に心にもたげてきて。明日も2人休みだし、たしかまだ俺が帰る方面の電車は2本ほど残っていたよな。
そしてめちゃめちゃ緊張しながら目をつぶって大きく深呼吸をし、思い切って家に来ないかって伝えてみた。でも絵里はその言葉を聞いた直後、電池が切れたように券売機の方を向いたまま手が止まってしまう。俺も勇気を振り絞ったものの、絵里の横顔を見たままで黙り込んでしまった。
そこからほんの数秒。パパァー!
どうなるかドキドキしたが、不意に近くで車のクラクションが聞こえ、その音が合図のように絵里は小さな声で「うん」てうなずいてこたえてくれた。そして俺の手を探すようにして手をつなぎ強く握りしめてくる。
それからは俺の自宅方面に向かう電車の中で、2人並んで長いすに座ったけれど会話もなく沈黙がつづいた。でも手はつないだままで。最寄り駅で降りて、コンビニで翌朝のパンとサラダ、飲み物を2人で買った。俺の自宅に付くと場の雰囲気がよくないって思ったのか?、絵里はいつもの絵里らしくないちょっと高めのテンションで、男性の家に入ったの初めてだって部屋の中をうろうろ、目をキョロキョロしていた。
手持ち無沙汰だったからインスタントコーヒーを入れ、テレビを見ながら、雑談したりして結構遅くまで起きていたんだけど、ぼちぼち布団の準備するなって伝えたら、また絵里の口数が少なくなってしまい、ちょっと緊張した顔になってた。大丈夫か?ってほほ笑んだら、思いつめた顔をして
「松野さん、私、前の彼氏は一生懸命相手の事を考えて付き合ったつもりだったんですけど…。それでも気持ちがずれていって、お互いが見えなくなって…大丈夫かな?」
「それなら俺もバツ1だし、何もないよ?俺で良いの?」
「松野さんが良いです、これからもお付き合いよろしくお願いします」
正座して頭を下げてるのを見て、俺みたいな人間にそんなにかしこまらなくてもって、なんかおかしくてプッて吹きだしてしまったんだ。
そんな様子に絵里は「真剣なのになんで笑うの?もう」って、また頬っぺたを膨らましてふて腐れてみたりして。俺はその様子に間髪をいれず、膨らんだ頬っぺに人差し指を突き刺してみる。プッて音がしてお互い顔を見つめあった。なんかそれがひどくおかしくって2人でゲラゲラ笑いあったんだ。
それから後片づけをして別々にシャワーを浴び、絵里が布団に入ったのを見て部屋のあかりを暗くした。システムコンポのFMラジオを付けっぱなしにし音量を小さくする。俺も布団に入り手をつないだ。
少しだけ照れながらも、天井を見ながらとりとめのないことをしゃべっていて、やがてふいに絵里が無言になって数秒。寝たのかな?って絵里の方に顔を向けると、俺を見つめながら穏やかな顔でほほ笑み、ゆっくり目を閉じた。
唇を重ね、そのきゃしゃな身体を抱きしめる。か細い、このまま身体を折ってしまいそうだ。気持ちを確かめるように何度もなんども口づけた。そして唇を首筋から肩に移し絵里の髪をなでながら、あらためて抱きしめ直してみる。顔を見たくなって身体を少しだけ起こして覗き込むと、絵里は片手で俺の頬をなでながら、その時に初めて「ゆうじさん」と言ってくれた。
白い肌はきめ細かく綺麗で。そして今はしっとりとしていて絵里の吐息が小さく聞こえる。俺が彼女の胸に顔をうずめると、両手で俺の頭を抱きしめてくれ、暗く深く沈んでいた心が安らぐのを感じた。そしてほんのり明るくなったような気もする。温かい…な。
そして、ふっと「ほら見ろ、俺だってまだやり直せるんだよ」そんな事を思う。
誰に言ってるのか分からないけれど…。
どれくらい時間がたったろうか?もっと感じていたい。絵里の手を探して指を絡め握りしめる。安らぎを感じる、愛おしさを感じる。遠くにすこし切なさも感じて俺は彼女にまみれた。
…翌朝、小さなテーブルに朝食を並べ、絵里が入れてくれたコーヒーのカップを取った時、絵里って声が大きいんだなってボソッと言ったら、サラダを取り分けるフォークの手が止まり、みるみる真っ赤な顔になって「もう!バカ!」って目をくりくりしながら怒られた。そんなに声大きかったかな?今度から気をつけないといけないや、もうやだなぁってアワアワしている様子を見て、
あぁ余計なことを言ったなごめんと思いつつ、これからも一緒に居てくれるんだなぁ、絵里って俺の大切な人、彼女なんだってやっと実感した。
その後2人の付き合いは順調だったと思う。同じバイク乗りだから、いろいろな所にツーリングで出かけたり、絵里がバイクを購入したショップのツーリングクラブにも誘われて加入し、そこで仲の良い友人も結構出来た。クラブメンバーで日帰りの食べ歩きや一泊旅行、夏はキャンプや海に、秋は河原や高原でバーベキュー。冬はスキーやクリスマスパーティ。四季折々で思い出もたくさんできて本当に楽しかったんだ。
・・・・・・・・・・・
元嫁の浮気そして離婚。地元の友人たちとは全て縁を切り、この街にきた頃は余りにショックで気持ちは荒んでいたし、物事に投げやりになっていた。何もかもがどうでもよかった。けれど、絵里と出会ってから生活環境は本当にがらりと変わり、仕事も充実していろいろな事がうまく回りだしていた。
あんな事が有ったけれど、俺の人生まだまだ捨てたもんじゃないなって希望も持てたんだ。絵里との巡り合わせに心から感謝した。そして何時までもこの幸せと気持ちが、変わるも事なく続いてほしい。本心からそう願った…。
・・・・・・・・・・・
それから……。
いつも俺の傍に居てくれる絵里。交際が1年ほどが過ぎた。
その期間のあいだ、ときにはけんかもしたし、楽しかった事も彼女を悲しませた事もあったと思う。けれど2人でお互いの気持ちを積み重ね、歩いてもこれた。もう絵里がいない事なんて考えられないよ。やがて付き合いも2年目に入り、俺は彼女との結婚を徐々に意識しだしていた。
思えばこれがきっかけだったんだと思う。そんなある夜の俺の部屋。相変わらずFMラジオを流しながら、布団の中でお互い天井を見つめてたら、絵里がポツリと言った。
「ゆうじはあたしの事好き?」
「はぁ?今更…どうしたの?なんかあった?」
「ちゃんと答えてほしいの」
好きだと言えば良かったんだが、照れくさいのと何を今更って思ったから、そんなの言わなくても分かるだろうって答えた。
「…そう」
「どうしたの?なんかあったんだろう?ちゃんと言えよ」
「ううん、なんでもないよ、ありがとうね。もう眠くなっちゃった。おやすみなさい」
そう言うと絵里は目を閉じ、俺も深く考えずいつの間にか眠ってしまっていた。
だがその日以降から、休みに遊びに行こうとかツーリングは?とか誘っても全てじゃないが、わずかに断られる回数が多くなっていた。彼女とのほんのささいなやり取りの中で、時々何か考えている様に見える事や、物思いにふけっているって言うか。仕事中に視線を感じて絵里を見ると、視線が合わないように別のことをやりだしたり。
ほんとに些細な様子でしかなかったんだが、元嫁との件もあってから、その当たりの感覚は妙に敏感になっていたんだと思う。そんなのが積み重なっていつ頃からか、あれ?あいつまさか…男?って気持ちがもたげだした。いや、彼女に限って…。信じないと…でも。もしも…。
絵里を信じきれないで、疑心暗鬼になる自分に自己嫌悪もしたりもして、そんな事がしばらく続いたもんだから、絵里のおかげでいったんは減った元嫁との修羅場のフラッシュバックも、またくすぶりだす事が多くなり、気持ちのコントロールが難しくなりだした。イライラし怒りっぽくなり、心が落ち着かず不安定になっているのが自分でも分かったし、でもそんな時に限って絵里が傍に居たもんだから、何かを隠しているような絵里の様子にイラついて、つい彼女にそっけない態度を取ったり、当たってしまったり。
本当はどうしたんだって、ちゃんと問い正せば良い。だけど、それはそれで知る必要のないことを知ってしまって、後戻りできなくなることが嫌で聞けなかった。そう、聞けるわけがない。だってもう大切な人を無くすの、2度と味わいたくないもの。そんな時はこうすればいい、あぁすればいい。解決法はいくらでもあるんだろう。でも正論では分かってても理屈じゃないんだよ。
そして、そんな俺の態度だったのに、絵里は戸惑ったり困った顔をする事は有っても、怒ったり不満を俺に言う事はなかった。むしろ俺の顔色の悪さや暴言に、身体の調子が悪い?悩み事でも有るの?どうしたの?って気を使い心配してくれてさえいた。又話し合おうとも言ってくれた。
それなのに俺はこいつ不満も言えないほど何か隠し事があるんじゃないのか?って。もうこうなると悪循環だった。
そして気が付くと…。
あんなに仲がよかったのに、ギクシャクし笑顔も言葉も少なくなった絵里と俺。気持ちがすれ違いだし、求めもしない嫌な方向に少しずつ進んでいることに気が付いて。前のように笑ったりふざけたりしたい。
でも手を尽くすことはせず、問題を先延ばしする事ばかりしていたんだ。だって。だって怖かったんだよ…。