第35話
長い夜が明け、翌朝。
俺は早々と塔の階段下に向かい、チナとセリシアが下りてくるのを待った。ところが、ふたりはなかなか下りてこない。
……いかん。そろそろ戻らんと、領主夫妻との朝食に間に合わんな。
その時、階段を下る足音が聞こえてきて、ホッと胸を撫で下ろす。いくらもせず、チナとセリシアが姿を見せた。
「お兄ちゃん! 昨日ね、アルテミアお姉ちゃんがふわふわーって飛んでたの!!」
階段を駆け下りてきたチナが、俺を見るや口にした第一声に、思わず頬が緩む。
「そうか。ずいぶんといい夢を見たな。ゆっくり休めたようでなによりだ」
「セイさん、違うんです!」
チナばかりでなく、セリシアまでもが朝の挨拶もなしに、勢い込んで告げる。
「違うとは?」
「私もこの目で見ました。アルテミアさんは、本当に宙に浮き上がっていたんです!」
「なんだって!?」
「アルテミアお姉ちゃん、ふわふわーって、ぷかぷかーって、とにかく、すっごいの!!」
チナは、興奮に目を丸くして語る。
セリシアもそれに、いまだ興奮冷めやらぬ様子でうんうんと頷いた。
風属性のウノならば、物体の浮遊をなせる者は多い。自身の跳躍に、風魔力で推進力を加えることも可能だ。とはいえ、自身が長時間宙に浮かんでいられるほどの力を持つ者はいない。
「アルテミアはどのように浮遊をなしていた?」
俺はできるだけ冷静に、アルテミアが飛んでいたという状況について尋ねる。
「どのようにもなにも、眠りに落ちてすぐに、ふわりと体が浮いたかと思えば、ゆらゆらと気持ち良さそうに室内を漂って。そのまま明け方近くまで飛んでから、何事もなかったかのように同じ場所に下りてきたんです。ほんとうに驚いてしまいました」
「アルテミアには尋ねたか? 彼女自身は、それについてなんと言っている」
「朝一番で尋ねたのですが、笑いとばされました。どうやらアルテミアさんは、夢の中の出来事だと思っているようで、自身が実際に飛んでいる自覚はないようなんです」
「お布団をひらひらはためかせてね、とっても気持ち良さそうだった!」
……布団を?
「アルテミアは布団を掛けたまま飛んでいたのか?」
「うん! 掛けてた毛布もなんだけど、敷いてた毛布まで一緒にぷかぷか~ってしてた!」
チナの答えは、大きな衝撃をもたらした。
……なんということだ。
アルテミアは自身が飛んでいただけではなかった。触れているものごと一緒に浮遊させていたならば、それは彼女が重力を操作しているということだ。
ゴクリとひとつ、喉を鳴らす。
彼女が行っているのは新魔創生――重力制御だ。
無意識下で新魔創生を成し遂げる者がいようとは、これまで露ほどにも考えたことがない。だが、アルテミアはそれを実際にやってしまったのだ。
「お兄ちゃん? どうかした?」
「いや、なんでもない」
内心の動揺をなんとか抑え、やっとのことで返した。
……重力制御。
俺たちは遠からず教会組織……デラ一味と相対することになるだろう。その時に、アルテミアに重力制御の能力で援護をしてもらえたら、どんなにか心強いことか。
率直に言えば、喉から手が出るほど欲しい能力だ。
「ところで、ふたりが泊まり込むに至った当初の目的の方はどうなった?」
「……それは、駄目だった。アルテミアお姉ちゃん、どんなに言ったって『お嫁に行く』の一点張りなの」
「婚姻に関し、アルテミアさんの決意は固く……。アルテミアさんは『理由はどうあれ、先方は私を望んでくださってる。そこで、幸せになれるように努力する』とおっしゃって、最後まで譲りませんでした」
アルテミアの結婚相手は、前妻が生んだ子供が幾人もいる高齢の貴族男性だという。既に後継者も決定しており、後妻には子供を産ませる必要がない。だから後妻には、属性数に関係なく、若く美しい女を望む。
俺に言わせれば、相手の男は傲慢以外の何ものでもなく、碌でもない政略結婚だ。しかし、それを決めるのは俺ではない。
アルテミアがこの結婚に、幸せな夫婦関係を望み、嫁ごうとしているのならそれを止める権利はない。事実、政略による結婚だろうが年の差や身分差があろうが、円満な夫婦は世に多くいる。
「そうか。ならばこの後、朝食の席でカエサルに会ったら『アルテミアの結婚の意思は固い』とそう伝えよう」
「え!? お兄ちゃん、アルテミアお姉ちゃんを説得しに行かないの!?」
「セイさん、たしか浮遊は風属性のウノでもなかなかなせない技ですよね!? セイさんから改めて浮遊の事実を伝えたら、アルテミアさん自身、自分の能力の可能性に気付き、結婚について考え直してくださるかもしれません!」
「まず、説得ならばチナとセリシアがもう十分にしただろう? それでもアルテミアの結婚への意思は固く、覆すには至らなかった。決意がそこまで固まっているのだから、これ以上俺が彼女に伝えるべき言葉はない。次に浮遊の一件は、アルテミア自身自覚していない能力だ。それについて他人が土足で踏み入り、強引に自覚を促す必要があるとは思えない。なにより彼女の能力と結婚は、切り離して考えるべきだ」
俺の言葉に、チナとセリシアは眉間にクッキリと皺を寄せ、互いに顔を見合った。
「それは……」
「ふたりがアルテミアを心配しているのはよく分かる。アルテミアにも、ふたりの思いはきっと伝わっている。だが、後はアルテミアが決めることだ。……さぁ、これ以上は領主夫妻を待たせてしまう。一旦、朝食に向かおう」
ふたりは不満そうではあったが、理に適った俺の主張に反論できず、唇を引き結んだ。
俺はチナとセリシアを伴い、足早に屋敷に向かう。ふたりは、とぼとぼと重たい足取りで俺に続いた。
「……今は行かんが、出発前にもう一度彼女の元を訪ねよう。煮詰まった物事などが、少し時間を置くと予想外の展望をみることは多いからな」
「「!!」」
途中で俺がポツリと零せば、チナとセリシアは揃って表情を明るくする。その足取りも、一気に軽くなっていた。




