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9話

 



 マウンドに立つ。

 その行為がいつ以来だろうと振り返ろうとして、それ以上自身の記憶を遡る気に大和はなれなかった。


 小さく、円状に盛られた土の山。

 バッターボックスを微かに見下ろすことができるその領域が、大和にとっての聖域だった。


 何も考えなくてよい。

 言語も、思想も、肌の色や国境、家庭環境さえそこには介入することはできない。


 ただ十八メートル強先で待つ、左右どちらかに立つ打者を屠ればよい。


 三船大和が、唯一自分を表現できる場所。

 三船大和が、唯一他者から評価される場所。

 それがマウンドだった。


 しかし彼にはもう甞て感じていたマウンドに対する高揚感はない。感慨というものさえだ。大和にとってマウンドは既にただ球を投げるだけの小高い土山にしか見えなかった。


 大和は、野球を捨てた。

 未練はないし、それ以上の感情を野球に対して持ち合わせていない。


 だから彼自身、不思議だった。

 今自分がこうしてマウンドに立ち、グラブを着けて一丁前にボールを握っていることが。



「……」



 三船大和をグラウンドに引きずり出したのは、静かな怒りだった。静かで、穏やかで、それでいてどこまでも鋭利な怒り。太田の野球を侮る発言に対し、大和は自らの心がこんなにもささくれ立つとは思いもしなかった。


 正直北見坂高校の野球部がグラウンドを使えなくなろうが廃部になろうが、彼にとっては些細な問題でしかない。だが大和の心の内に生まれた苛立ちを消化するのに、太田と古賀の鼻っ柱をへし折ることが必要であると思い至った彼の行動は何よりも早かった。


 三船大和という人間は何事に対しても熱をもてない性質をしている。

 そんな彼が唯一、その魂が焦げ上がるほどに情熱を燃やしたのが野球だった。初恋を知らない大和を初めて振り向かせたのが、野球だった。今はその心から離れていても、野球との蜜月の日々は確かに彼の細胞の隅々にまで記憶されている。


 だから野球を侮ることを大和は許せない。心身を削ってまで高みを目指したあの熾烈な競技をレクリエーションと小馬鹿にされたのを見過ごすことはできない。



 ――野球を、何も知らない癖に。



 大和は太田の言葉を看過できるほど、大人ではなかった。



「大和ちゃんよろしく」



 意識のベクトルを全て内側に向けていた大和を現実に引きずり返したのは、調子のいい古賀の声だった。


 十八.四四メートル先のバッターボックスに立つ古賀が、薄らと笑みながら大和の名を呼んでいる。三船という苗字だけしか伝えていないはずなのに、古賀はさも当然かのように下の名前で呼んだことに大和は嫌悪感を抱いた。


 あのヘラヘラとした態度をぶち抜こう……と、美しい少女の皮を被った獣がそう決定つける。大和は古賀に一切応じることなく、粛々とマウンドの土を足で均した。



「つれねーの」



 口を尖らせる古賀は、しかし楽しそうだ。

 ゆるりとバットを構える彼にとってはやはりこの勝負、お遊びでしかない。


 女子の放る球など打ち返せて当然としか思っておらず、既に意識は勝負後に注がれていた。



(それにしても……)



 可憐だ。と、古賀は思った。


 マウンドに立つには、大和は綺麗過ぎた。


 今こうして見ていても、あの細指が土にまみれたボールを握り込んでいることが酷く不自然に思えてしまう。あの少女の指はピアノの鍵盤を跳ねまわるのが余程自然的だと直感的に思えたし、それほど今の大和とマウンドという場所は歪な掛け合わせにしか見えないのだ。



「……」



 大和の氷の視線が、古賀のそれとかち合った。


 光を吸い込んだようなあの真っ黒な瞳に呑まれそうだと、瞬間的に思った。蠱惑的というか、好戦的というか、名状しがたい……されど凡そ一般的な女子が持ちえない魔力をその瞳に感じた。



(睫毛、なげー)



 きょろ、と大和の視線が空に逸れた。

 それはとても自然な仕草で、古賀はそれにつられて空を見上げて――視線を返した瞬間、白球は既にそこに迫っていた。



「あ……?」



 呆気に取られる、とはまさにこの事を指すのだろう。


 呆けている古賀の後ろ……キャッチャーの澤野のミットには、いつの間にか白球が収められていた。僅かな油断を許さない、急所を刺したような第一投目だった。


 古賀がきょとんとマウンドに視線を返すと、大和はリリース後の姿勢をゆったりと崩しているところだった。その表情に、感情の“ブレ”の様なものは一切感じられない。



「すっげぇクイック……」



 球をミットに受けた澤野が、目を丸くしてそう零す。


『クイック』……『クイックモーション』とも『クイック投法』とも呼ばれるその投法は、本来盗塁を防ぐ為に投球動作を小さく素早くコンパクトに纏めたものを指す。オーバースローで投げる際、投手は大きく振りかぶることでフォームを安定させるが、クイックは何よりも早投げに重きを置いた投法だ。


 これは先で述べた通り基本的に出塁を許した際に走塁を防ぐ為の技術であり、一対一のこの場面で使用する様なものではない。しかし……。



「こりゃ……まるで早撃ちだな」



 古賀は流石に舌を巻いた。

 僅かに意識を外に逃がした隙を完全に突かれた。先の視線誘導は決して偶然ではなく、大和が意図したものに違いない。



(しかし……)



 マウンドに君臨する少女の狡猾さ、そして勝利への貪欲さに、古賀の背中が粟立った。争いを知らない様な無垢な見た目をしている癖に、盤外戦術を知っていて、それを行使するだけの度胸がある。


 相対する投手は、老獪さも兼ね備えている。


 しかしマウンド上の大和は、作戦が成功したというのに僅かな感情の変化もその表情からは見られない。まるでそのストライクが予定されたものであり、カウントされることが当然といった風な態度だった。


 こんな子供騙しに引っ掛かる様では、お話にならない。そう聞こえてくる様だ。


 古賀の対抗意識に、火が付いた瞬間だった。



(女子中学生だからってなめてたわ。流石にそこは認めるしかない……けど、不意打ちで一本ストライク取ったからって調子乗られるのも面白くねぇよな)



 虚は突かれても、所詮は女子中学生が放る球。

 球速はそれ以上のものではなく、しっかりと見定めれば古賀にだって捕らえられるボールなのだ。古賀は小さく息を吐くと、動揺からすっかりと立ち直っていた。



「おいおい古賀ぁ大丈夫か?」


「お遊びは程々にしとけよー。あの子と小夏が内に入るかどうかの勝負なんだから」



 サッカー部員達は呑気に野次を飛ばしている。

 古賀は彼らの賑やかしに「黙ってろ」と、これもまたちゃらけて返すが、その心の内は引き締まっていた。



 もう、油断はしない。




 ――第二球。


 大和は、今度はゆっくりと予備動作に入った。

 右足をしっかりと高く上げ、半身になった姿勢フォームから一気に加速する。王道を征くオーバースロー投法に無駄と思える様な所作はただの一つもなく、大和は美しい姿勢制御から白球を放った。



(きた)



 対する古賀は、今度はしっかりと見定めて身構える。

 教材DVDに記録しても良い程に滑らかなフォームから投げられた白球は、しかし遅い。


 幾ら技術を蓄えていようと、結局スポーツは肉体フィジカルが資本。古賀には大和の球よりも、男であり学年も上だった江口の投球の方が驚異的に感じていた。


 目で簡単に追える球なら、彼にとって脅威とはなり得ない。



(もらった)



 古賀は確信をもってスイングの態勢に移った。

 外角、真ん中。実直なストレートは、まさに打ち頃なコースへと飛んできている。古賀はその球に対して的確なタイミングで狙い打とうとして――球は、手元で急に意思を持ったかのようにガクンと落下した。



「お、わっ……!」



 タイミングもコースも、古賀の計算外のものへと瞬発的に豹変した。

 当然バットは白球を捉えること敵わず、古賀のスイングを嘲笑うかの様にキャッチャーミットへと収まった。



「ツ、ツーストライク……」



 球を受けた澤野はまるで信じられないものでも見るかのような目でマウンド上の少女を見ていた。


 大和が投げた二球目は、恐ろしく切れ味のある変化球フォークボールだった。

 古賀のバットのテイクバックの瞬間を見計らったかのように白球は軌道を変え、ストライクゾーンギリギリ……宣言通りの外角低めいっぱいを貫いた。球が落ちるその落差たるや、並大抵のものではない。


 ……ここにきて澤野は、三船大和が“異常”であることに気づき始める。

 澤野が大和のことを内心異常であると称したのは、才能があるとか、技量がずば抜けているというよりもその言葉が最も適切であると判断したからだ。


 剃刀の様な切れ味の変化球を投げた件の美少女は例の氷の様な雰囲気を纏ったままだった。その感情の読めなさと、底の知れなさ、そしてその力に似合わぬ美しさが、澤野にはまるで人ではない別の何かにすら感じてしまう。



(これだけの球を投げれる女子中学生がこの北見坂に……いや、世界にいたのか……?)



 いつの間にか和やかだったサッカー部員達に、ひんやりとした雰囲気が纏わりついた。さしもの太田の表情も濁り始めている。



「古賀さん」



 マウンドに立ってから沈黙を貫いていた大和が、ここにきて口を開いた。



「次はど真ん中に投げますから、頑張ってみてください」


「は……?」



 目を丸くする古賀を、大和は待たない。



「じゃ、いきますよ」



 彼はそう言って、既に投球姿勢に入っていた。








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