土壇場で勝手に足が止まったところで、婚約者がお姫様を連れ戻しに来ました
長い長い人の壁の間を通り抜けると、そこはもう国境だった。
高い高い標識が、ジュダイヤの国の果てを示している。
とうとう、ここまで来てしまった。
さすがに、僕は立ち止まって尋ねた。
「本当に……いいの? シャハロ。この先へ行って」
子どもの頃から、こういう気まぐれにつきあわされてひどい目にあったのは、いっぺんでは利かない。
高い木には僕だけ登らされ、深い池を小さな舟で渡ろうとして僕だけ落ち、度胸試しに近づいたハマさんの馬には噛みつかれそうになり……。
そんなときと同じように、シャハロは高らかに笑った。
道を譲った他国の兵士たちには、きっと、正気を失った娘が叫び声を上げたようにも聞こえただろう。
でも、それはシャハロの高ぶった気持ちそのものだった。
ジュダイヤのお姫様は今、本気で国を捨てようとしている。
それどころか、生まれ育った国のことを、他人事のように言い捨てた。
「戦が始まれば、この街道は関所で塞がれる。長い長い土塁が伸びて、そのうち、高い壁が築かれるでしょうね」
なんだか恐ろしくなって、聞いてみた。
「その先は……どうなるの?」
シャハロは、きっぱりと答えた。
「行ってみなくちゃ分からないじゃない、そんなこと」
僕が聞きたいのは、そんなことじゃなかった。
馬を牽くのをやめて、もういっぺん聞いてみる。
「そうじゃなくて、何が起こるの? これから」
苛立たしげな声が答えた。
僕から問い詰められるのが気に食わないらしい。
「分かるわけないじゃない、私なんかに。でも……誰も追いかけてこられなくなるわ。少なくとも」
そう言いながらシャハロは顎をしゃくった。
先へ行けというんだろう。
それでも、僕は動かなかった。
「やっぱり……いけません」
先へ行くことはできなかった。
いや、国境を越えてはいけないと思った。
「何言ってるの!」
シャハロは文字通り、頭から怒鳴りつけてきた。
でも、僕にはどうしても無理だった。
「今なら、まだ引き返せるよ。そしたら、僕はともかく……シャハロは許してもらえる」
「意気地なし!」
喚き散らすシャハロは、ものすごい目つきをしていた。
それこそ、鬼神か悪魔かという恐ろしさだった。
でも、ここから先に行くわけにはいかなかった。
腹が決まると、少しずつ、言葉が出てくる。
「意気地なしでいいよ。でも、何もしないほうがいいんだ、こういうときは……たぶん」
「もういい」
シャハロは、ひらりと馬から下りた。
僕が片手を馬の轡に取られている隙に、国境を越えようとする。
しまった。
気位の高いシャハロが、まさか、自分で歩いていくとは。
でも、僕の話は終わっていない。
「待ってよ! シャハロは今……」
その先は、言葉にならなかった。
いつの間にか、角笛の音がすぐ背後まで近づいていたからだ。
「見つかったぞ!」
兵士の誰かが叫ぶ声がした。
そんなことは分かっている。
親衛隊が、来るのだ。
せっかく逃げてきたのに、このまま捕まるしかない。
そう思ったときだった。
角笛の聞こえる方から、別の声がした。
張りのある、若い男の声だった。
「数は少ない! 蹴散らせ!」
そこまでしなくていい。
僕たちは、たったふたりだ。
いや、シャハロは悪くない。
僕だけが、捕まればいい。
……って、え?
剣の撃ち合う音が響き渡り、断末魔の悲鳴が当たりに響き渡った。
振り向いたけど、そこで起こっていることは、とても見てはいられなかった。
馬も怯えて、暴れだす。
抑えていると、シャハロが振り向いた。
「あの声は……」
「見るな!」
止めはしたけど、自分の顎がガクガク音を立てているのが分かる。
それでもなんとかシャハロを抱きすくめて、その目を覆った。
あっと言う間に積み重なった死体の山を、見せるわけにはいかなかった。
僕でも、気が遠くなりそうなのに。
でも、それを器用に飛び越えてきたものがあった。
夜明けの光に、ぼんやりと輝いている、何か。
それが白い馬だと気づいたとき、人が乗っているのも分かった。
白馬を、自分と身体がひとつになったみたいな鮮やかさで乗りこなす。
やがて、僕たちの目の前に舞い降りた馬の上で、話に聞く不死鳥を飾りにした兜を脱いだ。
銀色の長髪を夜明けの風になびかせて、ぴかぴか光る鎧を着た若者は、眩しいくらいの笑顔で尋ねた。
「馬上から失礼……姫様でいらっしゃいますね?」
まるで絵に描いたみたいな、きれいな人だった。
たくましいのに、すっきりしている。
シャハロは僕に目隠しされたまま、間延びした声で答えた。
「うんにゃ……あたいはこの兄ちゃんの行商についてきた百姓娘だあ、姫様だなんて、とんでもねえ」
さっき、僕が隊長さんにやってみせたのとそっくりのしゃべり方だった。
そのトロさときたら、とてもお姫様とは思えないくらいだった。
それでも、この若者をごまかすことはできなかった。
「王様に言いつけますよ? シャハローミ様が婚約者ヨフアハンの助けを拒んだと」
これが、王様に断りもなく決められた結婚相手だった。
シャハロは、ヨファと呼んでいたけど。
そこで、目隠しをした僕の手は振りほどかれた。
「見逃してはくれないのね?」
シャハロは観念したらしく、僕を押しのけるようにして立ち上がった。
この若者はというと、ムッとした顔で答えた。
「当然です、王様から部下をお預かりして、こうしてお迎えに伺った以上は」
振り向いた先では、侵入した他国の兵士たちが、やっぱりぴかぴかした鎧を着た男たちに、殺されたり捕まえられたりしている。
国王の親衛隊を率いてきた、第6王女シャハミーロの婚約者であるヨフアハンは、他国の兵士たちの正体を滔々と述べ立てた。
「この人数からして、街道を塞ぐことが任務だったんでしょう。行き来自由だったジュダイヤの領内に踏み込んで、兵馬の輸送に足止めを食わせるのが目的です。その隙に、自分たちは街道を使って、兵士たちを次々送り込む手筈だったと思われます」
そう言うなり、シャハロの腕を掴んで馬上に引き上げた。
「何をするか!」
シャハロは怒ったが、逆らいはしない。
この親衛隊の若者も、落ち着いたものだった。
「無論、一緒に帰っていただきます……ああ、君、頼みたいことが」
そう言って見下ろしたのは、僕だった。
いろんなことがいっぺんに起こって、何が何だか分からなくなっていた。
そこでいきなり名前を呼ばれて、慌ててひざまずく。
「は、はい……何でしょうか」
つい、そんな言葉が口を突いて出る。
シャハロが悲しそうに、僕を見つめていた。
まともに顔を見られなくて、うつむく。
そんなことは気にも留めない様子で、シャハロの婚約者は告げた。
「すまないが、その馬を城まで牽いてきてはくれないだろうか」
使用人への言葉としては、バカ丁寧なほうだ。
シャハロを後ろに載せた婚約者のヨファは、白馬にひと鞭当てて駆け去っていった。
それを見送ってから、ハマさんの準備した馬の側に寄る。
馬はもう、首を下ろそうともしなかった。
地平線の向こうから、朝の太陽が昇る。
今日も暑くなるなと思いながら、お城に向かって街道をとぼとぼと歩くしかなかった。
ナレイ君に、挫折のときが訪れました。
さあ、どうやって立ち上がる?
お姫様を連れ出したんだから王様は大激怒、下手すれば命がないぞ!
ピンチに訪れる起死回生のチャンスをご覧になりたい方は、どうぞ応援してください。




