四角い馬丁が夜遅くまで僕の悩みを聞いてくれます
僕はまた、小屋の中でひとりになった。
「……寝よう」
今までのことは夢だったのだ。
そう諦めて寝ようとしたときだった。
小屋の戸を激しく叩く音がして、僕は再び跳ね起きた。
壁の毛布を押しのけて、大穴から首を出してみる。
男装のシャハロは既に、駆け去ってしまっていた。
これでいいい。
誰が小屋に訪ねてきていようと、何の心配もなかった。
小屋の戸は、さっきからずっと打ち叩かれている。
開けてみると、月明かりを背にした四角い影が立っていた。
「人が来ておったろう」
「いや、ハマさん、こんな夜中に誰が」
馬丁のハマ……ナハマンさんだった。
僕がここの使用人として働き始めた頃から、何かと世話になっている人だ。
もっとも、ここはもちろんシラを切る。
だが、ハマさんはそんなことに構う人じゃない。
「男のなりをした娘が来ておったろう」
そう言うなり、僕を押しのけてずかずかと小屋に入り込んだ。
すごい勘だが、夜目が効くらしい。
暗がりの中からあっさりと火口箱を拾い上げると、さっさとランプに火を灯してしまった。
ぼんやりした光の中に、大柄な身体のオッサンが、どっかりとあぐらをかく。
昔の火傷か何かで醜くただれた四角い顔は、昼間に見るよりもおそろしい。
白髪の混じった銀色の頭を掻き掻き、ハマさんは肩を怒らせ、エラの張った顔であごをしゃくる。
促されるままに背中で戸を閉めた。
自分でもわざとらしいと思うくらいの笑顔で、返事をする。
「いいえ……誰も」
だが、ハマさんにそんなもの、効きはしない。
しかめっ面で睨み返される。
「やめねえか、その顔。見ただけで分かるぜ、嘘だって」
「そんなことは……」
それでもなお言い訳しようとすると、ハマさんは壁にかかった毛布を見やった。
「おおかた、そこから逃げたんだろうよ。俺が戸を叩いてる間にな」
確かにその通りだ。
でも、それなら反対側の壁から逃げ去ったシャハロの姿が見えるはずもない。
僕は、なおもごまかしにかかった。
「ここに若い娘がいたとして、どうして男のなりをしていたって分かるんですか?」
まぐれ当たりかもしれない。
それなら、根も葉もないいいがかりだったと認めるまで、しつこく質問すればいい。
少なくとも、ここに若い娘がいたかどうかについては話をうやむやにできるはずだった。
ところが、ハマさんはとうとうとまくしたてる。
「男と女の逢引なんていうのはな、人目についたらおしまいよ。絶対に見つからねえところならいいが、こんな城の中の小屋、声でも漏れたらすぐ踏み込まれちまわあ。抜け穴はあっても逃げるとこを見られちゃ、夜明けとともにいい噂の種だ。最初から逃げおおせようと思ってたら、走りやすいように男のなりで来るだろうよ」
つまり、シャハロは逃げるときのことまで考えて、男装で来たのだ。
そういえば、子どもの頃から身が軽く、足も速かった。
返す言葉もない。
そこでハマさんは、余計なひと言を付け加える。
「……もっとも、いざってときは諦めなくちゃなんねえがな」
言いたいことは、だいたい分かる。
暗闇の中での、あの柔らかい感触や、かぐわしい匂いのことを思い出す。
あのとき、シャハロは諦めていたのだろうか。
つい、僕はうつむく。
最後に見たのは、ハマさんの浮かべた卑猥な笑いだった。
これさえなければ、使用人の中でも特に面倒見のいい男で通るのだが。
僕がなおも黙っていると、ハマさんはひとりで考え込んだ。
「待てよ。ここの使用人で、こんな夜中まで起きていられるような根性の座った女がいたか? 昼間のアレで、正体失くして寝ちまわねえのは俺とナレイくらいのもんだろうに」
確かに、僕は皆と同じように夢も見ないで寝ていた。
そこを、シャハロの侵入で叩き起こされたのだった。
岩場災難なのだから、針一本落ちても目を覚まし、どんな遠くからでも自分の悪口は聞き逃さないハマさんと一緒にされては困る。
「地獄耳の処刑人ナハマン」と。
だが、ハマさんはただの馬丁で、死刑執行人でも何でもない。
それがなぜ、こんな仰々しい名前で呼ばれているのか。
その事情は、いろいろあった壁の大穴に関係していた。
あのときと似たようなことがあるといけない。
僕は、なるべく丁重な言葉でハマさんを追い出しにかかった。
「まあ、その話は明日、ゆっくり……」
「いや、納得いかねえ、今夜中にケリをつける」
いったんこだわりだすと、とことんまでやるのがハマさんだ。
こうなると、何を言っても無駄だった。
「……どうぞ」
僕は諦めた。
扉を背に座り込む。
ぶつくさいうハマさんの声は止まらなかった。
「そうすると、使用人じゃねえ。ってことは、もっと身分の高いお女中のどなたかってことになるが……」
ハマさんの読みは、少し外れた。
愛想笑いと共に、僕ははごまかしてみせる。
「まさか、僕にそんな甲斐性が」
隠せば隠すほど、それを認めたように見えることだろう。
だが、ハマさんはそこで、ふと何か思い当たったようだった。
「そう言えばお前、小さい頃……」
この流れで行けば、シャハロの名前が出てくるのは時間の問題だった。
事故とはいえ、シャハロの胸を触ってしまったり、その身体を抱きしめてしまったのが災いした。
そんなやましいことがあるので、つい若い女がいたことをごまかしてしまったのがいけなかったのだ。
僕は慌てた。
「男のなりをした娘って言いましたけど、なんで男じゃないって分かるんですか?」
最後の悪あがきだったが、最初から、そう聞けばよかったのだ。
だが、ハマさんはあっさりと切り返した。
「この小屋に男は来ねえ。そうだろう?」
僕は頷かざるを得なかった
「おかげさまで、まるごと一部屋、手に入りました」
感謝してはいるが、素直に喜べない。
話は、壁に大穴が開いたときにさかのぼった。
……ハマさんの言い分はこうだ。
「もともと窓の穴もねえところで、使用人が何人も雑魚寝していたじゃねえか。お前も含めて」
「まあ、昼は働いて夜は寝るだけですから」
だが、窓が開いていないことがゴタゴタの発端になった。
ハマさんに言わせれば、こうだ。
「夜中に寝てるかどうか、外からじゃわからねえ」
だから僕は、恐ろしい目に遭ったのだ。
「……お世話になりました」
ある朝、使用人部屋から僕が出てこられなかったことがあった。
原因は、シャハロだ。
前の日、城の窓から僕を見かけて、投げキッスを贈ってきたのだ。
もちろん冗談のつもりだったのだろうが、こっちはタダでは済まなかった。
それをやっかんだ他の使用人たちに、夜中に袋叩きにされたのだった。
ようやく起き出してこられたのは、昼近くになってからだ。
言うまでもなく、使用人頭には殴り飛ばされた。
「お前、言わなかったな。本当のこと」
その辺りは、ハマさんにも察しがついていたらしい。
あのときは、こう言い訳したのだ。
小屋に窓がないために、朝が来たのが分からなかった……と。
そこで、とんでもないことが起こった。
「ハマさんも、まさかあんなことをするとは」
それを聞くなり、大槌をかついで走りだしたのがハマさんだった。
「いいじゃねえか。あれで使用人小屋、どこでも窓が開いたんだから」
小屋の壁への一撃で大穴を開けると、他の使用人小屋にも窓を開けようとしたのだ。
城を挙げての大騒ぎとなり、壁の上で外敵の侵入を見張っているはずの衛兵まで下りてきた。
結局、これがきっかけで国王が使用人小屋に窓を開けよと命令するまでに至ったのだった。
「僕はすっかり嫌われましたけどね」
同じ小屋にいた使用人たちは残らず、別の小屋に移りたいと言い出した。
「なに、この部屋だけは窓がねえってだけのことだ。気にすることはない」
結局、大穴の開いたこの小屋に窓は作られず、代わりに主がひとり迎えられることとなったのだった。
でも、その後しばらく、ハマさんの姿を見ることはなかった。
「あの、聞きそびれてたんですけど……あれから、どちらへ?」
衛兵たちに取り押さえられたところまでは見ている。
ハマさんは、何でもないという顔で答えた。
「きついお叱りを受けてな、檻に閉じ込められてた」
「よく城を追い出されませんでしたね」
半分は妙に安心して、半分は呆れて尋ねる。
ハマさん自身も、怪訝そうに首を傾げていた。
「衛兵が言うには、国王のお声がかりでうやむやになったんだと」
それは初耳だったが、無事で帰れた理由について、噂は聞いていた。
何でも、ハマが面倒を見た馬はどれも駿馬となるので、将軍たちが惜しがったのだという。
……そういうわけで、耳ざとくはあるが、いったん頭に血が上ると手が付けられなくなるので、「地獄耳の処刑人ナハマン」の二つ名がついたのだった。
そのひと言が、僕の心を鋭くえぐる。
「残る女は……姫様だな。幼馴染の」
話をそらしにそらしたつもりが、結局、もとの所に落ち着いたわけだ。
僕は観念して、頷いた。
「相談が……あるって」
そこまで口にしてしまうと、あとは言葉が勝手に出てくる。
僕を養ってくれた使用人夫婦がまだ生きていた頃から、ハマさんにはこんなふうに、何かと話を聞いてもらったものだ。
今度もそれだけでよかったのだが、困ったことに、放っておけない話だったらしい。
ハマさんはひととおり事情に耳を傾けた後で、逞しい胸を叩いた。
「任せろ……九分九厘まではお膳立てしてやる」
暑苦しいオッサンの登場ですが、どうぞこらえて読んでやってください。




