河の渡し守はやたらと腕の立つ爺さんでしたが、そこは泣き落としで説得しました
「待て」
いきなり呼び止められるまでもなく、僕の足はすくんでいた。
轟轟と音を立てる河の流れが、目の前にあった。
怖くて返事もできないでいると、声は更に険しくなった。
「ここを渡すわけにはいかん」
そうは言っても、舟なんか見当たらない。
だいたい、向こう岸までの幅は、それほど広くはなかった。
歩いて渡れたら、たいして手間はかからないだろう。
誰が止めたのか知らないけど、行くしかなかった。
「構いません、それなら……」
それだけ答えて、僕は言葉に詰まった。
ヨファは、そんな浅瀬があるとは言っていない。
人が歩いて渡れるところに、獰猛なカワヒトカゲは棲まない。
そう言っただけだ。
僕は、河の中を覗き込んだ。
波が凄くて、見えやしない。
渡ろうか、やめようか。
自分の顔がくしゃくしゃになるのが分かる。
考え込んでいると、いきなり、鼻先に長い杖が突き出された。
「踏み込めば死ぬぞ」
そう言うなり、何やら肉の塊みたいなものが河に放り込まれた。
波の間に、水柱が上がる。
いくつもの黒い丸太のようなものが現れては重なり合い、水の中に消えた。
「ひっ……」
悲鳴も出ない。
下手したら、僕もさっき、ああなっていたのだ。
思わず、河から目を背ける。
すると、そこにはひとりの爺さんがいた。
顔は深い皺で、たぶん、さっきの僕の顔よりもくしゃくしゃに萎んでいる。
髪は真っ白だった。
でも、袖と裾の短い服から見える腕と脚は太い。
「あの、誰……ですか?」
恐る恐るだけど、尋ねてはみる。
爺さんは杖を引っ込めながら答えた。
「この河の渡し守よ。たったひとりで先のケイファドキャの王から仰せつかって、何十年になろうか」
そう言いながら、胸に提げたメダルを掲げてみせる。
それが渡し守の印らしい。
することは、ひとつしかなかった。
僕は、老人の足下にひざまずく。
「お願いです! 一艘でいいから、舟を出してください!」
みっともないけど、ここは格好つけてる場合じゃなかった。
爺さんは、にやりと笑う。
「ものの頼み方を知っておるようだの。雑兵ごときが勝ち戦に乗って居丈高にものを言うようなら、こうしてくれるところじゃった」
そう言うなり、何かが横一直線に光った。
でも、杖は動いていない。
ぱちん、と音がして、その中に刀が収まっただけだ。
杖の中に仕込んであったのだ。
細かい髪の毛が、ぱらぱらと小雨みたいに降り注ぐ。
でも、怯えてはいけなかった。
自分の周りだけの輪を思い描くと、気持ちが落ち着く。
強張りそうな身体の力を抜いて、息をつく。
「じゃあ……」
余裕があるように見えたからだろう。
爺さんは、ぽかんと口を開いた。
めちゃくちゃに並んだ歯を剥き出しになる。
拍子抜けしたような声で答えた。
「生憎と、出払っておる。ケイファドキャの軍勢が、全部使うてしもうたからの」
もちろん、そんなことで諦めるわけにはいかない。
切羽詰まって腹を括ると、思いつきがぽんぽん口から出てくる。
「じゃあ、どうするつもりだったんですか? もうすぐジュダイヤの軍勢がやってきますよ」
それでも、爺さんは平然としたものだった。
「捕虜になろうが拷問にかけられようが、ないものはない。舟が欲しければ自分たちで作るがいい」
つまり、そういう目に遭うかもしれないと思っているということだ。
それなら、説き伏せようはなくても、話の引き出しようはある。
「逃げればいいじゃありませんか。まだ、間に合います」
そうしないわけがあるはずだ。
思った通り、爺さんは答えた。
「そうもいかん。逃げたと知れれば、河の向こうで息子夫婦も孫も命がない」
爺さんも爺さんで、つらい思いを抱えているのだった。
ここは、こっちの都合抜きで、話を聞かないではいられなかった。
「どうして、人質なんかに?」
爺さんは目を閉じると、真面目な口調で語り出した。
「もともと、ここはジュダイヤでもケイファドキャでもなかった。河沿いに住んでおった民の土地よ」
話を聞けば、この河一帯に住み着いた人たち……河の民は、二つの国の間で、取った魚介類を売ったり交易の仲立ちをしたりして、暮らしを立ててきたのだという。
ところが、先の王様同士の間で戦が起こり、河の民はケイファドキャに征服された。
そこで定まったのが、今の国境だった。
河を挟んだ国と国との仲立ちで暮らしていけなくなった河の民の多くは、ケイファドキャへと去っていった。
やがて、ジュダイヤで今の王様が即位したけど、他の国は征服しても、河の手前の土地は取り返そうとしなかった。
年を取って戦をする気力のなくなったケイファドキャの王様から、より儲かるような交易の申し出があったからだという。
だが、最近になって後を継いだ若い王様は、それが面白くなかったらしい。
戦が起こったのは、今まで割りを食ってきた分を取り返そうとしてのことのようだった。
もともと馬の口取りにすぎない僕には、かなり難しい話だ。
「そうでしたか……」
つい、顔をしかめて考え込んでしまった。
でも、爺さんは何か誤解したらしい。
険しい顔が、少し緩んだ。
「おぬしにも、親兄弟はあろう。舟を出すわけにも、逃げるわけにもいかん気持ちは分かろう」
今だ!
そこで僕は、再び老人の足下にひれ伏した。
「お願いです! 父さんに……父さんに会わせてください!」
育ててくれた父さんは、もう死んでいる。本当の父さんは、サイレアでどうなったか分からない。
でも、どちらにも会いたかった。
どうしても。
そんな気持ちになったら、誰でもこうするはずだ。
爺さんにも、それは伝わったようだった。
膝をまっすぐに落とすと、僕の顔を両手で挟んで持ち上げる。
「では、おぬしの父はケイファドキャに……」
「はい、行商に、行ったきり、こんなことに、なってしまって……」
もちろん、口から出まかせだ。
その場で思いついたことを言うしかない。
言葉を考え考え、息を止めて、溜めに溜めてから吐き出す。
それはいかにも、悲しみで声を詰まらせているかのように聞こえたようだった。
爺さんも、涙を流して同情してくれた。
「そうか、気の毒になあ……」
しゃがみ込んだまま、鼻水をすすり上げて泣きだす。
でも、しばらくすると、爺さんは心の中で何か決めたようだった。
河沿いに歩きだす。
「来い、若いの」
言われるままについていくと、爺さんは河の中に杖を差し込んで深さを測った。
よし、とつぶやいて足を踏み入れる。
「舟を残らず渡してしまうこともある。そういうときは、こうするのよ」
爺さんは、決して背は高くない。
でも、その膝から上が濡れることはなかった。
僕が後についていくと、爺さんは杖で浅瀬を探りながら歩いていく。
少し進んでは右に、あるいは左に、何度となく曲がっていった。
仕込み杖を操る爺さんのおかげでナレイ君、ようやく河を渡れそうです。
でも、そう簡単に事は運ぶでしょうか……?
先が気になる方は、どうぞ応援してください。




