国境を越えるとそこはモンスターの出る世界で、ひとりでハッタリかますのもなんかヤバくなってきました。
夜中にケイファドキャの軍勢が放棄していった陣地まで、たいして時間はかからなかった。
昼前にはもう、僕は受けた命令を庶民の小隊に命令に告げて、地面に倒された天幕や柵の後始末にかかっていた。
「まず、その辺を片づけようか、みんな」
火を放たれた天幕の燃えかすや、打ち砕かれて散乱した材木の破片が、あちこちに散らばっている。
張りつめた顔をしていた庶民の新兵たちは、安堵のため息をつきながら地面を這いずり回った。
確かに、ぼやく者もいるにはいる。
「結局、これかよ」
もっと厳しい任務が待っていると思っていたんだろう。
拍子抜けしたのかもしれない。
その隣に屈んだ僕は、焼け焦げた材木を共に担ぎ上げながらなだめた。
「いいじゃないか、戦わなくて済むんだから」
「でも、何もしないで帰るのもなあ……」
そのときだった。
僕の肩の上で、材木が跳ね上がった。
新兵の悲鳴が上げる。
「ひいっ! 何だこれ!」
放り出されて地面に転がった真っ黒の杭が、4本の脚を踏ん張った。
身体をもたげると、その先にある真っ赤な口が、ばっくりと裂ける。
何が起こったのか、僕にも分からなかった。
でも、とにかく新兵を背中にかばう。
そうしないと、僕の腰が抜けそうだった。
自分の身体の周りだけの輪を、思い描く。
小剣を抜いて、低い声で囁いた。
「……動かないで」
新兵が身体をすくめるのが分かった。
焼け棒杭から姿を変えた生き物は、喉の奥から鋭く吐き出す鳴き声で、僕を脅しつける。
シャーッ!
そこで、他の新兵も集まってきた。
「どうした!」
でも、僕と睨み合う化け物をみて後ずさる。
誰ひとり、手にした棒を振るい、腰の短剣を抜いて加勢しようとする者はいなかった。
仕方のないことだったけど。
背中の新兵と僕と化け物を中心に、大きな円ができる。
怪しげな生き物から目を逸らすわけにはいかなかった。
もちろん、ハマさんに習ったハッタリは、動物には利かない。
でも、ここで僕が尻込みしたら、みんな、この場から逃げてしまうだろう。
だから、心の輪を広げて語りかけた。
「落ち着いて……みんなでかかれば、勝てるから」
でも、長い丸太のような黒い生き物は、甲高い声を上げる。
キシャーッ!
僕の部下たちは縮み上がった。
しかし。
そこで、化け物が襲いかかることはなかった。
「助かった……」
円陣の中心でつぶやいたのは、僕ではない。
背中にかばった新兵だった。
小剣を構えた僕の前で、黒い化け物は白い腹を見せている。
ひと足ひと足、ゆっくりと近づいてみる。
小剣の先でつついても、動かなかった。
新兵たちが叫ぶ。
「さすがナレイ!」
「サイレアの勇者!」
部下たちの歓声を浴びながら、僕は荒い息と共に、その場に片膝をついた。
助かった……。
初めてそう思いはしたけど、口には出さない。
それからしばらくの後。
僕は小隊の部下たちを連れて、流れの速い河のほとりに佇んでいた。
その傍らには、鎧をまとったヨファがいる。
最前線の隊長からの命令を伝えに来たのだ。
「驚きました……君にあんな力があるとは」
あの怪物を倒したことを言っているのだった。
僕は白く瀬を噛む河の水面を見つめながら、不愛想に答えてやった。
「ああいうのが、この中にたくさんいるんですね?」
あの生き物は、カワヒトカゲ(川の火トカゲ)というらしい。
ヨファが作戦参謀とかいう人に聞いてきた話によると、ケイファドキャの河では珍しくないということだった。
真っ黒な身体で川底に潜み、魚などを捕食する獰猛な生き物らしい。
「水がなければ、あっという間にああなるらしいんですが」
陸に上がると死んだようになるけど、人が触ったりすると噛みついてくる。
この習性を利用して、河向こうに逃げるとき、残した陣地に放っておくこともあるらしい。
ただし、水のないところでは長く生きられないので、逃げ場がないとすぐに死んでしまうということだった。
「渡れっていうんですか? そんなのがいるところを」
その命令を伝えに来たヨファは、励ますように力強く答えた。
「浅いところには棲めないらしいですよ。歩いて渡れるくらいの」
それだけ言い残して、さっさとその場を離れていってしまう。
残された小隊の部下たちが、身を寄せ合って囁き合うのが聞こえた。
「つまり……俺たちに浅瀬を探せっていうのか?」
「自分で歩いて?」
「食われるってことじゃないか! 深いところハマったら!」
ひとり残らず、すっかり腰を抜かして縮み上がってしまった。
だが、その背後からやってきた者たちがあった。
貴族出身の新兵たちだ。
「何だ、怖気づいたのか?」
「だったら、あまりいい気にならないでほしいね」
「ゆうべの度胸はどこへ行ったんだい?」
「頼むよ、河さえ渡れば、我々にも出番が来るんだから」
完全に、バカにしている。
僕でも腹が立ったくらいだ。
でも、ありがたいことに、それで庶民の新兵たちは奮い立った。
喧嘩っ早いのが跳ね起きると、貴族の子弟に食ってかかる。
「悔しかったら命張ってみろよ、てめえらも!」
でも、全然相手にされない。
鼻で軽くあしらわれてしまった。
「話を聞いてなかったのかい?」
「こんなのはね、貴族の死に場所じゃないんだよ」
さすがにカチンと来たのか、庶民の若者たちが次々に立ち上がった。
凄まじい形相で、貴族の子弟たちに詰め寄る。
甲高い笑い声が上がった。
「おや? 殴るかい? 殴る? 貴族を?」
「庶民から手を出せば、死刑だよ?」
それは聞いたことがあった。
貴族が先に殴った場合は別らしいけど。
庶民の新兵たちの拳は、震えながらも腰の辺りで止まっている。
そこで、貴族のひとりが余計なことを言った。
「まあ、カワヒトカゲに食われて死ぬのも同じことだろうけど」
そこで、庶民の新兵の誰かが叫んだ。
「構わねえ、だったら、ひとり殺してやらあ!」
まずい。
この勢いじゃ、本当にやりかねない。
殺さなくても、一発殴ったら、そこでひとり死ぬことになる。
やるしかなかった。
「やめろ!」
僕が叫んでも、さっきの新兵が落ち着く様子はない。
「だって! 俺たちに死ねって!」
そこで、思わず僕はこう言っていた。
「僕が行く。僕ひとりで行く。君たちは、死なない」
しまったと思ったけど、もう後には引けない。
貴族も庶民も構わず、その場にいる全員を見渡す。
庶民の若者たちが、目を見開いて僕を見た。
貴族の子弟たちは、苦々しげに顔をしかめて、その場を立ち去っていく。
僕は、無言で背を向けた。
ゆっくりと急流に向かって歩き出す。
そうしないと、心の中がバレてしまいそうな気がしてならなかったのだ。
ああ、えらいことになった。
何でこんなこと言っちゃったんだろう。
どうやら、ジュダイヤの国から出ると、そこはモンスターの出る世界のようです。
サイレアの勇者が魔獣を倒して回ったのも、まんざらデタラメではないのでしょう。
その場の勢いで、モンスターの出る河をひとりで渡る羽目になったナレイ君。
暴虎馮河のたとえもあります。
本当に大丈夫でしょうか。
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