婚約者が美形で優秀なのに姫は僕と駆け落ちしようとします
「大人……って」
僕は言葉に詰まった。
それがどういう意味なのかは、分かっていた。
シャハロも、ランプの暗い光の中でも分かるくらい真っ赤になって、顔を伏せた。
「聞かないでよ」
もちろん、女の子には聞き返せない。
代わりに、別の話をした。
「いや、知らなかったんだよ、そんな話になってるなんて」
国王にはの子供のうち、いちばん上の王子はそろそろ30歳になるらしい。
まだ独身だから、こちらのお妃探しが進んでいるのだろうというくらいの噂話しか聞いていなかった。
シャハロも、ぼそりと言った。
「ナレイが知ってるわけないじゃない」
僕はすかさず、話を更にそらしていく。
「いや、知ってたのは、今日、昼に宴会があるっていうのだけで……」
「それが婚約披露宴だったの」
いけない。
何としてもシャハロの気持ちを落ち着けて、帰ってもらわないと。
とにかく、これ以上、婚約の話はしないことだ。
「僕、行ったことないんだ、宴会……あ、出るんじゃなくて、仕事で」
「知ってる。ナレイが働いてるの、見たことないもん」
まだご機嫌斜めだったが、話をそらすことはできたようだった。
この調子だ。
「働いてるよ、外で。宴会の給仕に料理を渡すのが仲介役で、厨房には仲介役に皿を渡す仕事があるんだ。その厨房には食材を運び込む仕事があって……」
その前には倉庫から食材を運び出す役目があり、その食材を出入りの商人から受け取る仕事がある。
「知らなかった、そうなんだ」
全く感情のない声で、シャハロは相槌を打つ。
僕は宴会場に料理が届くまでの話を端折ることにした。
「僕の仕事はそのずっと前。商人の車を引く馬とか驢馬とか騾馬の轡を取って、城内に連れてくることなんだ。ほら、昼から夕方まで続いたろ? この宴会。日が暮れる頃に最後の1台を招き入れたら、もう、目が回りそうでさ……」
僕の話を聞くだけ聞いたシャハロは、そこで冷やかに口を挟んだ。
「で、いつ聞いたの? 私の婚約」
「……使用人小屋に帰ろうとしたら、馬丁のお爺さんが教えてくれたんだよ。昔っから世話になっててさ、僕」
シャハロの婚約を聞いてしまったら、もう、いたたまれなくなった。
食事も喉を通らない。毛布をかぶって横になるしかなかった。
幸い、昼間の疲れのおかげで、そのまま眠り込んでしまったけど……。
僕の目を覚ました当のシャハロがつぶやく。
「私……どうなっちゃうんだろ。大人になったら」
僕はちらっと思った。
大人になる前に、シャハロを抱きしめられたら。
命なんか、いらない。
でも、僕はそこで、首を横に振っていた。
「いや……そうじゃなくて!」
シャハロの立場を考えれば、それはできないことだった。
たぶん、この婚約は、国王の愛情を一身に集めた結果だ。
これが台無しになれば、シャハロはたくさんの兄弟の中で蔑まれ続けることだろう。
僕はそこまで考えたけど、たぶん、誤解された。
「ちゃんと聞いてよ」
「子供みたいなこと言うなよ」
気持ちを落ち着かせようと、深く息を突きながら言ったことがシャハロの癇に障ったらしい。
「子供でいい! いつまでも!」
本当に子どものように愚図り出す。
いつものシャハロに安心したけど、他の使用人たちに聞きつけられてはいけない。
とりあえず、逆らわないようにする。
「よかったら……教えてよ。何がイヤなのか」
「全部」
ただのワガママなのだが、何故か、その返事が嬉しかった。
だが、それではシャハロが癇癪を起こしたまま、話が終わってしまう。
「いっぱいあると思うんだけど、いちばん嫌なのは……何?」
シャハロは、そこで口を閉ざした。
華奢な肩が震えだす。
思わず、手を伸ばしかけた
抑えるつもりが、抱きしめてしまいそうだった。
ぐっと身体をすくめて、耐える。
そのときだった。
ランプの灯がぼんやりと照らす床に、点々と黒いしみが見える。
それは今まで見たことのない、シャハロの涙だった。
「今日、初めて会ったの……ヨフアハンに」
聞き慣れない名前だったが、それが婚約者なのだと察しがついた。
どうやら、顔も知らない相手だったらしい。
遠くから嫁を迎える農民などには、よくあると聞いたことがある。
だが、気の強いシャハロが怒るのも無理はなかった。
気持ちが鎮まらないまま、帰すわけにはいかない。
「でも、どんな相手かは聞いてたんだろ?」
シャハロは声を震わせながら言った。
「そこで初めて聞かされたの……私、婚約したんだって」
シャハロは自分で自分の身体を抱えて、背中を丸めた。
まるで、全身にあふれ返る怒りを抑えようとしているようだった。
とりあえず、話をそらすしかない。
「で……どんな人なの? その、ヨフアハンって」
もう少しで、「人」を「ヤツ」と言うところだった。
シャハロは、口にするのも腹立たしいというように、ぽつりぽつりと語りはじめた。
「お父様の……国王の親衛隊の、若い人。家は代々、隊長を出してきた貴族なんだって」
それだけでも何やら腹立たしくて、つい言ってしまった。
「親の七光り……」
まずい。
余計に怒らせてしまう。
だが、シャハロは首を横に振った。
「今、すごく出世してるみたい。最近の戦争でも、お父様の目の前で、最前線を突破してみせたんだって」
この城にやってきてからというもの、他国との間で戦争がなかった年はない気がする。
国王もよく兵を率いて、城の門を出ていく。
戦も小競り合いで済めばいいが、国王が凱旋してくると祝宴が開かれるので、その度に城の中が戦場のような騒ぎになるのだった。
僕も、それで振り回されている身だ。
そう思ったせいか、つい、言ってしまった。
「それはまた、いかつい……」
火に油を注ぎかねなかったが、シャハロはさらりと答えた。
「いい男よ。頭も切れるし……ずっと、お父様も目をかけてたみたい。貴婦人たちにも羨ましがられたわ、私……もちろん、姉君たちにも」
婚約者ヨフアハンのことよりも、むしろ姉たちのことを皮肉たっぷりに口にする。
シャハロに兄と姉がそれぞれ何人いるかは、僕も聞いたことがない。いちばん触れたがらない話題だからだ。
だが、兄弟の争いは熾烈らしい。
国王は才覚のある者を重んじるという。地位や身分にあぐらをかいていて、肩書だけ残して冷や飯を食わされた人の噂もよく聞く。
そう考えると、どうも婚約者には、けなす余地がない。
それでも、最後のひと言は素直に出てこなかった。
「じゃあ……どうしたいの? シャハロは」
答えは決まっている。
言いたいことを言うだけ言ったら、シャハロは父王の決めた相手と結婚するしかない。
何だか胸が苦しくなったが、シャハロの口から出たのは思いがけない言葉だった。
「連れ出してほしいの……私を。この城から!」
あまりのことにぽかんとして、すぐには聞き返せなかった。
「どこへ?」
「ナレイが考えて」
当然のように無理を言う。
すっかりもとのシャハロに戻っていた。
それはそれでいいのだが、僕はこの城に来てこのかた、城壁の外へ使いっ走りに出たこともない。
ましてやシャハロは、城の外のことは何も知らないのだ。
「……できない」
「ナレイしかいないの、私には」
胸の奥がずきりと痛んだ。
でも、それはあくまでも、僕にしか頼めないという意味だ。
聞いてしまったら、命がない。
僕は、はっきりと言った。
「逃げても、必ず捕まる。国王が追手を放つから」
「もし、逃げきれたら?」
返事は、ひと言で充分だった。
「その先は、ジュダイヤ王国の外だよ」
城の中しか知らない僕たちが、国の外で生き抜けるわけがない。
「……分かった」
シャハロはランプの灯を吹き消す。
壁にかけた毛布の向こうへと滑り込んだのが、月の光で青い影になって見えた。
ちょっと長くなりました。
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