上
辺境の集落を取り仕切る地主が所有する大屋敷。その裏手にある山の麓近くに、人目から隠されるようにひっそりと建てられた離れ。小さな建物とそのわずかな周辺が、娘に与えられた世界だった。
娘のもとを訪れる人間は、幼い頃から世話をしてくれていた乳母ひとり。彼女が衰えて痩せた老体に鞭打って、一日に一度、食事と着替えを持ってくるくらいだった。父や母、他の使用人たちは、もう数年、この離れに訪れていない。娘はその時間のほとんどを、小さな世界で独り過ごしていた。
――そんな俗世から切り離された娘のもとを訪れるものが、もうひとり。
カラコロと、可愛らしい音が山奥から麓へと降りてくる。土を焼いて作られた鈴は、持ち主が歩くたびに腰元で揺れ、楽しそうに笑っていた。鈴の持ち主は、人間のように衣服を纏い二本の足で歩いていたが、その姿は人間とは程遠い風体をしていた。獣でも、人間でもない異形のものは、名を月白といった。
月白は山を降りると、迷いのない足取りで離れへと近づいた。屋敷の敷地内だというのに、離れの周囲には人気はない。月白が白昼堂々と歩いていても、その姿を認め悲鳴を上げる者は誰一人いなかった。
「怪物さん、またいらしたんですか?」
月白が離れの縁側の前に立つと、すぐに戸が開き、藤色の着物を着たうら若い娘が現れた。娘の目元は視界を遮るように黒い布で覆われていたが、彼女はしっかりと月白の立っている場所に顔を向け、微笑んだ。
どうしてわかった、と月白が唸るように問えば、娘は縁側に腰を下ろしながら鈴を転がすような声で笑った。
「わかるに決まっているじゃないですか。土の鈴の音と、草木の濃い香り。たとえ見えなくとも、それくらいわかりますよ。あなたの足音も、息遣いも、声も、まとう匂いも。全部、あたしは覚えてしまっているんですから」
「……」
「それに、ここに来るのは、ばあやの他にあなたしかいませんわ」
――まったく、つくづく可笑しな娘だ、と月白は溜息をついた。
ふたりの出会いは数年前、月白が山を降りる際に人里を避けようとして道を間違えたことから始まる。娘の瞳は当時から光を失っていたが、月白が人間ではないと気づくのにそう時間はかからなかった。そして異形の存在であると知ってもなお、娘は月白に対して恐怖や畏怖の感情を少しも向けてこようとはしなかった。明らかに人間のそれとは違う感触の手で触れても、硬すぎる爪が頬を掠めても、その微笑みが絶えたことは今まで一度もない。
異形の存在と盲目の娘。その奇妙な交友は細々と続いていたが、月白は娘に自分の名を名乗りはしなかった。月白に合わせてか、娘も月白の名を尋ねずに『怪物さん』と呼び、また同時に自分の名を明かすこともなかった。
しかし、月白はたった一度だけ、世話をしているらしい老婆が、みつえさま、と娘の事を呼んでいるのを聞いたことがある。『みつえ』というのが、娘の名前なのだろうと月白は推測したが、だからと言って彼女の事を名前で呼ぼうとも思わなかった。月白にとって娘は、『ただの人間の女』という認識であった。――その、筈だった。
黒い布で覆われた目元の下で、紅色の唇が緩く弧を描く。
「山は今、秋の色に色づいているんでしょうね。葉が落ちる音や虫の声が聞こえます。それに、肥えた土の匂いも」
「……」
「怪物さん?」
娘の言葉に反応せず、月白は長く硬い爪が生えた手を伸ばす。柔い肌を傷つけぬように注意を払いながら、彼女の目を隠す布を取り払い、その顔を今一度よく見た。
白く滑らかな肌に、真っ直ぐ通った鼻筋。睫毛は長く、頬は薄紅色に色づいている。いつも笑みを浮かべている柔らかそうな赤い唇は、月白の突然の行動に驚き少し開いていた。彼女の顔は、人間ではない月白にも『美しいもの』であると解るものだった。
彼女が他の人間と唯一違うのは、長い睫毛に縁どられた瞳だけだった。両の眼は白く濁り、顔は月白に向いていても、視線はどこかあらぬ方向を眺めていた。
月白は、黙したまま娘に顔を近づける。息がかかるほどに顔を近づけても、ふたりの視線が交わることは、ない。
「……どうしたんです怪物さん。何も映さないあたしの濁った目なんて、何度見たって面白くないでしょう?」
月白の行動にほんの少しの間驚いていた娘は、けれどすぐに目を伏せて苦笑した。どこか遠くを見る瞳は瞼の下に隠れてしまった。
「……光は戻らんのか」
「戻らないでしょうねえ。数年前に流行り病を患ってから、体は良くなっても目だけは戻りませんでしたから」
唸るような声で月白がぽつりと問えば、娘は穏やかに笑って伏せた目に手を添える。白魚のように細い指先が、ゆっくりと瞼を撫でた。
「あたしの世界はきっと、命の灯が消える最後まで、闇色のままなんでしょう」
「……お前はそれでいいのか」
「良いんです。耳と、鼻と、舌と、手。目が見えずとも、他の感覚があれば生きてゆけますから」
そう、明るくとも嘆くようにとも表現できない感情の見えぬ声色で、しかし娘はしっかりとした口調で言い切った。次いで、今度はふと口元をやわらげる。
「……それに、あなたがこうして時々話し相手になってくださるから、あたしはちっとも寂しくなんかないんですよ、怪物さん」
自身の境遇を嘆くわけでもなく歌うように話す娘の姿は、山に咲く気高い笹百合のようだと、月白は思った。
「怪物さん?」
月白が再び黙したためか、いつもと雰囲気が違うことを察してか、娘は目を伏せたまま首を傾げた。
月白はこの日、以前から考えていたことを実行しようと決めていた。そしてそのことを告げる為に、娘のもとを訪れたのだった。
「……しばし、山を出る」
「旅に出られるのですか?」
「ああ。用が済まぬ限り戻らない」
「……そう、なのですね」
突然の告白に、娘はひどく驚いた様子だった。月白の短い言葉から長い間会うことができないのだと察すると、少し間を置いて、娘はしばしお待ちを、と懐に手を入れる。首にかけていたらしい麻紐を手繰り寄せ、引き出したのは紫色の小さな袋だった。娘は小袋を紐ごと首から外すと、月白に差し出した。
「どうぞこれを。人が作るものなので、怪物さんにご利益があるかどうかわかりませんが」
「なんだ?」
「お守り、というものです。魔除けの札を布の袋に入れたものですわ。あたしたち人は、よく身に付けております。小さいので、邪魔にはならないと思います」
月白は、差しだされた小さな手のひらに乗った小袋を無言で見つめた。小袋には何か文字が縫い付けられているようだったが、月白にはその文字が何を意味するのかはわからない。それに、娘の言う『ご利益』とやらも、月白には理解しにくいものだった。
それでも、月白は爪の先で摘み上げるように小袋を受け取った。
「……お帰りを、お待ちしております。旅のお話、たくさん聞かせてくださいね」
娘は安堵するように息を吐くと、笑った。その姿を瞼の裏に焼き付けるように月白は目を閉じる。
もし、娘の目を治したいと言ったら、彼女はどんな顔をするのだろうか。その為に、旅に出るのだと伝えたなら、彼女はどう思うのだろうか。
喉元まで出かかった言葉を呑み込み、月白は娘に背を向けた。いってらっしゃいませ、と娘の声が遠ざかる月白の背にかけられた。