2
本来言いたかったことから盛大にそれたが、何を伝えたかったのかと言うと、できれば義姉に関わる殿下の動きに巻き込まれたくはなかった。そんなわけで、殿下に関しては先生たちに丸投げし、中流階級の貴族に義姉のことで絡まれるのを避けたい僕は休日は部屋に引きこもることにした。
午前中は素敵な時間を過ごせた。ベッドの上でまったり過ごし、窓の近くで気持ちよく日光を浴びて、穏やかな時間を噛み締めていた。
昼食を終え、またのんびりしようとした矢先、ノックもなく扉が荒々しく開き、眉間にくっきりと皺を寄せた殿下がズンズンと僕の部屋に入ってきた。とりあえず、いつも通りに執事たちを退室させる。
まったく、どこに行ったの、僕の平穏。今すぐ帰ってきて!
「忘れた、だって!?信じられるわけないだろ!」
「僕からしてみれば、殿下がノックもなしに入ってきたことが信じられないのですが」
「前から可笑しいとは思っていたんだ。あのセシリオが!見かければ、必ず絡みに行くなんて!!」
駄目だ。もはや僕の話を聞いていない。こうなった殿下は落ち着くまで放置しておくのが一番。椅子に腰を下ろし、腕を組む殿下に執事の置いていった飲み物を出すために仕方なく立ち上がる。
殿下の怒りはなかなか治まらない。何でも、義姉の部屋に昨日使っていたグラスが大事そうに置いてあったのを見かけたそうだ。あんなグラス、どこにでもあるようなものだから昨日のものとは言い切れないし、大事そうに置いてあったように見えただけで義姉が大事にしているとは限らない。そんなこと言ったら面倒なことになるから口にはしないが。
しばらくして落ち着いたらしい殿下は口を閉ざして、考え込むように顎に手を添えた。
「カイル。あの女のこと、どう思う?」
「ナーシサス嬢ですか?」
「他に誰が居るんだ」
まあ、殿下がそんな風に形容なさるのは男爵令嬢くらいか。
どう思う?なんて聞かれても、ずいぶん親しげに話しかけてくるなぁくらいにしか思ってなかったけど……けれど、ここまで義姉が関わってくるとそうも言ってられない。
殿下への接触も多いことを踏まえ、男爵家のことから調べてあったが、ナーシサス嬢が家出した男爵の姉の娘で保護者が居なくなってしまったから仕方なく養子として引き取られた存在だという程度のことしか出てこなかった。男爵が殿下と親身になるよう唆している様子もなければ、ナーシサス嬢がどのような学園生活を送っているかを把握している様子もない。
男爵令嬢の振る舞いは彼女の独断である。平民はこういうものなのだろう、と思うこともあったが、よくよく考えれば我が家の領民はこうも親しげに話しかけては来なかった。他の領地を回ったこともあったが、そこも同じく。そこから考えるに……こういう表現はあまりよくないかもしれないが、彼女の頭の中は花畑なのだろう。要するに、馬鹿である。自身が貴族になったことを理解せず、貴族の在り方も理解していない。
それから、彼女と話していて感じたことがある。彼女はどこか自分が正しいと思い込んでいるような節があるのだ。僕らの発する言葉がこうであるべきだと決めつけているようなところが。だからかはわからないが、希に彼女の思い込みにそぐわなかったのか、僕との会話で彼女は表情を歪める。特に、僕が義姉について述べたときが多かったと思う。
世界はこうあるべきだ。そういう姿勢はまるで……
「義姉に似ています」
義姉とは違う。彼女の欲の見え隠れする目は、義姉に似ても似つかない。けれど、あの何かを盲信しているかのような行動は義姉にそっくりだ。
口に出してしまったと思った。彼女と義姉とを重ねるなど、少なくとも殿下の前でするべきではなかった。
恐る恐る殿下の様子を窺うと、殿下は嫌そうに眉間に皺を寄せて一度頷いた。
「不本意だけど、そのようだね」
すっごい嫌そう。
「あの女が私の知らないセシリオを知っているなど信じたくもないけれど、仕方ないな。彼女に口を割らせよう」
「口を……?」
「方法はいくらでもあるよ。少し手荒いものもね」
それは手荒くないものもあるが、手荒い方法でやるということだろうか。そもそも、口を割らせるも何も義姉と男爵令嬢が盲信しているものが同じとは限らないじゃないか。何を吐かせると言うのか。無意味だったらどうするのだろう。
……まあ、殿下からしてみれば男爵令嬢を排除することは決定事項のようだし、やることが少しばかり増えたくらいか。
殿下がどんな意図があるのかはわからないけれど、男爵令嬢と仲良くなった振りをしろ、とのこと。もちろん、話を掻い摘んで僕の婚約者に伝えておけとのこと。
本当に、彼女には迷惑をかけて申し訳ない。……まあ、義姉が関わっているから、彼女が迷惑に思うとは思えないが。殿下は一体どこから、あんな子見つけて来たんだろう。
そもそも、どうして僕の婚約者が殿下の息のかかった人間なんだ?殿下って僕の二つ上だよね?何やってるの?……今さら考えたところで答えなど出はしないし、知ったら知ったでろくな目に遭わないから、これ以上考えるのはやめておこう。
僕が思考を切り替えたところで、この日は解散になった。戻ってきた執事の淹れてくれた紅茶がやけに美味しく感じた。
あの日以降、義姉の男爵令嬢への接触がパタリと止んだ。同様に殿下への接触も。義姉が意図しているわけでもないようで、たまたまなのだろうけれど、おかげで表には出さないものの殿下は大荒れだ。殿下ご自身で彼女と仲良くなると決めたのだから、こうも荒れないで欲しい。僕もベルトランド様のようにのらりくらりと逃げる術を身に付けたいよ!
男爵令嬢と仲良くするのは、彼女に何かあったときに殿下が疑われないためと夢見がちな彼女を幸せから絶望に叩き落とすためだって。殿下が教えてくださった。
男爵令嬢の相手が面倒になってきた頃、中庭にあるガゼボでぼんやりと座っている義姉を見かけた。義姉がいるのを気遣ってか、中庭には他に人影がない。
「義姉上」
声をかければ、義姉の目がこちらに向く。僕は通り道を塞ぐように立った。
「ご一緒しても?」
「……勝手にしなさい」
初めて下りた許可に胸を撫で下ろす。それから机を挟んで義姉の向かい側に腰を下ろした。義姉は僕に興味がなくなったのか、中庭に咲く薔薇の花に目を向けてしまった。
僕がいくら話しかけたところで義姉の目は僕に向かない。返事もない。今までこんなに長く一緒に居たことがなかったからわからなかったけれど、無視され続けるのって結構堪える。
何とか義姉の目をこちらに向けたくて、義姉の興味がありそうな話題をいろいろ思案してみるけれど、義姉のことを大して知らない僕にわかるはずもなかった。そんななかで唯一、義姉が興味がありそうな話題を思い出した。
「最近、殿下は男爵令嬢と距離を縮めていらっしゃるようです」
義姉の目がやっと僕に向いた。
赤く彩られた唇が緩やかに上がり、つり上がり気味の目の端が微かに下がる。義姉は今にも泣きそうな顔で笑った。今までに見たことのない、人間じみた顔で笑った。
「……そう」
義姉はそれだけ言うと立ち上がり、中庭から姿を消した。
失敗した、とは思わなかった。ただあの人もちゃんとした人間だったのだな、と。
殿下にこの事を話すか迷って、止めることにした。僕だけが義姉の人間じみた表情を見たなどと言ったら、殿下の逆鱗に触れかねない。内緒にしておこう。
義姉と話をした翌日。僕は殿下に呼び出しを受けて、殿下の持つ離れへと来ていた。何で殿下が離れなどを持っているのかはわからないが、例の子爵家次男の件で使われた離れ。おそらく陛下はノア殿下の本性を理解した上でお与えになったのだろう。……当たり前か、親だし。
公爵家が特殊なのだ。娘を恐れる父親と何もわかっていない母親。殿下がいらっしゃらなければ、僕はひねくれていたに違いない。
殿下から教えられていた裏口を通って中に入る。女のすすり泣く声が聞こえて、溜め息混じりにそちらへ向かう。
「殿下」
薄暗い部屋の中、僕が声をかければ殿下と例の男爵令嬢が顔をこちらへ向けた。男爵令嬢が声にならない言葉を発するが見てみぬ振りをした。
「遅かったね、カイル」
「唐突だったものですから」
「それじゃあ、始めようか」
殿下の言葉と共に男爵令嬢の断末魔が響く。
殿下が何をしたのかは説明しないが、男爵令嬢から聞き出した話をまとめるとこうだ。
彼女は転生者というもので、この世界は乙女ゲームというものによく似ているらしい。彼女はそのヒロインで、男たちと疑似恋愛をするそうだ。
一番知りたかった義姉についてだが、義姉は悪役令嬢なのだという。ヒロインである彼女を虐めぬき、殿下に婚約破棄された義姉は自分の立場を危うく思い義父を殺そうとして断罪されるのだという。
聞けたのはそれくらい。それ以降は男爵令嬢が正気を失ってしまったので、まともな話は聞けなかった。まあ、聞いた話さえ信じられるようなものではなかったけれど。
それから数日。食えない笑みを浮かべたベルトランド様に出会した。
「カイル君、ちょうどいいところに」
「はい?」
「やっぱり巻き込まれるのは勘弁して欲しいよね」
「え、あの、どういう」
ろくに説明されないまま連れられていった先には、道を塞ぐ男たち。例の男爵令嬢の取り巻きだった男たちだ。
嫌な予感しかしないんですけど!
「……誰の許可を得て、道を塞いでいらっしゃるの?邪魔よ。退きなさい」
聞こえたのは義姉の声。ああ、やっぱり、とベルトランド様に言われるままに義姉も見える位置に移動する。
男たちの内、伯爵家嫡男が義姉に男爵令嬢の行方を尋ねた。義姉が知っているはずもないとは思っていたが、義姉は男爵令嬢の名前にさえ覚えがないようだった。義姉は男爵令嬢を気にしてたようだったから少し意外だ。
答えられない義姉に痺れを切らした子爵家嫡男が義姉に掴みかかる。その瞬間、とんでもない寒気を感じた。
冷気のもとに目を向ければ、案の定、殿下がいらっしゃった。僕は急いで殿下から視線を外す。義姉が子爵家嫡男の男の頬を叩いて引き離していた。
そこから伯爵家嫡男や男爵家嫡男が義姉を責めるけれど、義姉に言いくるめられてしまっていた。あくまでも冷静なように見える義姉だが、僕にはかなり焦っているというか苛立っているように見える。特に義姉は子爵家嫡男が触れた場所が気になっているようで、汚れを落とすかのように何度も擦っている。
ある程度したところで、殿下が割って入った。義姉はもはや思考が回っていないような気がする。逃げようとする義姉を殿下は笑顔で押さえつけていた。
……まあ、滅多にない機会だから。
殿下は例の男爵令嬢は悪魔払いの影響で療養することになったとだけ伝え、後日、詳しく説明するとだけ言って義姉を連れていってしまった。
殿下は僕たちに後処理をするように目配せも忘れない。
ベルトランド様は肩を竦めると、手を叩いた。周囲の注目が僕たちに向く。
「今日は一旦、解散しようか」
翌日、全校集会が行われた。義姉の姿はない。
前に立った殿下はいつも通りで、まるで何事もなかったかのように笑っている。
「皆もわかっているとは思うが、今日の話は悪魔憑きだった男爵令嬢についてだ」
およそ十二年前。殿下に目をつけた悪魔がいた。その悪魔が殿下を自分のものにしようと、呪いをかけようとした。しかしながら、それにいち早く気付いた義姉が代わりに受けたのだ。
以降、義姉は呪いが周りに影響を及ぼさないよう、意思を強く持ち周囲に壁を作るようにし始めた。呪いへの抵抗のため、意識があまりないまま行動することも多くなった。皆を無視する形になったのはこのためだ。
そして、十二年もたった今、悪魔が痺れを切らして殿下の前に姿を表した。悪魔の器として選ばれていたが彼の男爵令嬢である。義姉が男爵令嬢をやけに気にしていたのはこのためだ。呪いによって引き寄せられ、義姉の意志が殿下を守ろうと必死に動いた。
今回は殿下も悪魔の存在に気付き、教会の協力のもと無事に悪魔を退治することができた。しかし、その身に長く悪魔を憑けていた男爵令嬢を始め、悪魔の影響を受けた三人、そして呪いを受けていた義姉は自然の豊かな場所でしばらく療養が必要になってしまった。
それ以上の悪魔に関する影響はないから何も心配しなくて良い。
殿下の話を簡単にまとめるとこんなところだ。こんな嘘、通用するのだろうか?
僕の疑問とは裏腹に、それから数日は動揺があったものの、男爵令嬢に異質さを感じている者も多く、関連するものに関わりを持たなくなっていたためか、すぐに落ち着きを取り戻した。
そして、この年、どこから出たのか「呪われた花嫁」という恋愛小説が大流行した。僕も読んでみたけれど、義姉を知っている僕からしてみれば、ヒーロー役が腹黒く見え、何故か寒気がしたので途中で読むのはやめた。僕の婚約者はボロ泣きしていた。
モデルになった義姉といえば、呪いに負けない強さが素晴らしいと様々なところから支持を受け、また「呪われた花嫁」の影響もあって、無事に殿下のもとへ嫁いだ。殿下は公爵の爵位を授かり、療養のため義姉と共に田舎でのんびりと暮らしている。
僕もまた無事に婚約者と結婚し、侯爵家を継ぐこととなった。養父には悪いが、養母がいつまでも居てもらっては困るので、さっさと隠居してもらうことにした。
自分も行きたいと騒ぐ妻を置いて、義姉の住む屋敷に来た僕。義姉は相変わらず、侍女たちに世話をさせないし、殿下以外の人間に触れることはないそうだ。久々にあった義姉はやはり手袋をしていた。
「お久しぶりです、義姉上」
「ええ、久しぶりね。カイル」
けれど、義姉は変わった。以前のように他人を無視することはなくなったし、道化のように笑うこともなくなった。人らしくなったと思う。
化粧の仕方も変わった。気が強そうに見せていた目元や眉を以前より薄くしたことで、印象が柔らかくなった。口紅は相変わらず真っ赤だけれど。
殿下が少し仕事で遅れてくるということで、しばらく義姉と二人で話をしていることになった。やっぱり話すのは僕だけだけれど、義姉は僕と目を合わせてくれるし相づちもうってくれる。
本当にあのときとは変わった。あのときは、やっと目を合わせてくれたのに……
「殿下は殿下のためだけに感情を見せる義姉上に惚れたそうですよ」
義姉の目が丸くなった。
赤く彩られた唇が緩やかに上がり、細められた目の端が微かに下がる。義姉は可笑しそうな、楽しそうな顔で笑った。最近は見慣れた、人間じみた顔で笑った。
「……そう」
殿下には内緒にしてくださいね、と僕も笑う。