カイル
最近よく話しかけてくる男爵令嬢と空になったグラスを持つ義姉。それを多くの生徒が遠巻きに見ている。
「汚ならしい貴女によくお似合いですわ」
パーティの中央で起こっている出来事。静まりかえった会場に義姉の声がよく響く。どんな経緯があったのかはわからないが、どうやら義姉が男爵令嬢にジュースをかけたらしい。彼女のドレスには赤紫色の染みができていた。
「……許せないな」
隣から底冷えするような声が聞こえてきて、思わず中央からそちらに目を向けた。義姉の婚約者、第二皇子のノア殿下が狂気の見え隠れする目で中央を眺めていた。
二つ歳上の殿下は義姉の婚約者ということもあり、よく我が家に顔を見せていた。本来であれば、義姉が王宮へ行くべきなのだろうけれど、義姉は殿下にあまり興味がないのか、呼ばれもしない限り家から出ない。……そもそも彼女はあまり自室から出てこない。
殿下が来ると流石に顔を見せるけれど、殿下の相手はほとんど僕と義母だ。殿下とそれなりの関係を築けたおかげで、僕は第一皇子との関わりを持つこともでき、まあそれなりな立場を保てていると思う。
そんなわけで、殿下とは他の人よりかは長い付き合いであると思う。そんな殿下が希に見せる狂気。たいてい義姉が関わっている。
あの義姉の何がいいのだろう、などと考えながら視線を中央に戻す。隣の殿下が動き出す前に義姉はもはや興味がないとばかりに男爵令嬢に背を向けた。男爵令嬢が何かを言っているが義姉は聞く耳を持たない。いつも通りの義姉の姿。
隣から出る冷気が和らいだ。……かと、思ったらすぐにとんでもない冷気が撒き散らされる。男爵令嬢が義姉のドレスを掴んだのだ。
僕が止める間もなく、殿下は中央に向かって歩き出す。道を開けていく人々はホッとした表情を浮かべているけれど、どうして気付かないのだろう。今、一番問題を起こしそうなのは殿下だ。
殿下が中央に辿り着く前に義姉が男爵令嬢の腕を振り払う。義姉を睨み付ける男爵令嬢に、男爵令嬢を見下ろす義姉。その間に殿下が割って入った。
「何をしているんだ」
義姉の目が男爵令嬢から殿下に向いた。義姉は微かに目を細めたあと、扇で口元を隠した。
「……気分が悪いので戻ります」
義姉は再び男爵令嬢に背を向け、今度こそ会場をあとにした。殿下は深く溜め息を吐いたあと、小さく詫びを入れ、引き続きパーティを楽しむように告げた。最初のうちはどよめきがあったものの、男爵令嬢が殿下や伯爵家嫡男によって連れ出されると騒ぎが起きる前の雰囲気に戻った。
殿下が去り際に僕に必ず来るようにとばかりに目を向けてきたので、仕方なく会場から出た。せっかくのパーティだというのに、楽しむこともできないのか。
途中、教師を呼びに行かされたらしい騎士団総長のところの次男と呼ばれた学年主任と合流し、殿下たちのいる部屋へと移動した。
例の男爵令嬢は自分を抱き締めるようにして涙を堪えているようだった。伯爵家嫡男やら男爵令嬢の取り巻きと噂されている男たちが慰めている。
殿下が一体何があったのかと尋ねれば、最初は頑なに話したがらなかった男爵令嬢は、涙を流しながら話し始めた。
曰く、前々から誰も見ていないところで義姉から嫌がらせを受けていたらしい。廊下で足を引っ掛けられたり、会う度に身分が下ということで嫌みを言われたり、ロッカーの中にゴミや死骸を詰め込まれたり、教科書を破られたり、物を盗まれたり、などなど、信じられないようなことばかり。
確かに、あの義姉がこの子をやけに気にしているという話は聞いていた。義姉がこの子に口うるさく絡んでいる、という話も。それでも、この嫌がらせの話は信じられるわけがない。
義姉には潔癖のきらいがある。他人に自分の物を触れられるのは凄く嫌がるし、一度着た服は決して着ない。最小限の露出しかせず、他人に肌を触られるのも嫌がるような人だ。その義姉がゴミや死骸を触る?あり得ない。生きている動物さえ触らない人なのに。
第一、義姉は頭が悪いとは言えない。自身の振る舞いがどうあるべきかは理解しているはず。そんな小賢しいことをしているとは思えない……多分。ちょっと今日の件で言い切れないけど。
義姉が潔癖であるのは周知の事実。だが、それを忘れているのか、取巻きの男たちは男爵令嬢を信じこんでいるようだ。それでいて、義姉の罪を暴き罰するとまで言う。それを聞いて男爵令嬢は迷惑をかけるわけにはいかないとかなんとか。それから、男たちが君を守るとかなんとか言い始めて茶番が始まった。
自分達の世界に入っている彼らは、殿下の振り撒く冷たい空気に気付きもしない。それに対して、顔色が真っ青な騎士団総長のところの次男はきっと出世できるだろう。
計算高い殿下が一応、義姉にも話を聞くということで話をまとめた。やっと解放された、などと思えるはずもなく、吐き出したい溜め息をぐっと堪えた。
義姉のことをよく知らない貴族……特に女性は「あのような方が姉だなんて、大変でしょう?」などと遠回しに言いながらすり寄ってくる。確かに、一風変わった義姉の存在に迷惑をかけられなかったか、と聞かれれば否とは言えない。誰に対しても距離を置く義姉は中流階級の貴族に敵は少なくはない。そのせいで嫌味を言われることもある。けれども、全体的に見て義姉に敵が多いかと聞かれれば、そうでもないのだ。どちらかと言えば、下流階級の貴族には人気が高い。噂に聞けば、下流階級の貴族がいじめられている現場に割って入っただとか、自身を貫いている姿勢がいいだとか、あのキツそうな笑みを浮かべて踏んで欲しいだとか………………まあ、義姉が意図してやっているとは思えないし、変な話もちらほら聞くが、嫌悪の感情を向けるものは少ない。上流階級の貴族は様子見を決め込んでいるようだ。
性格に難が有れど、優秀な義姉。事件を起こすことなんて滅多になく、義姉の存在のおかげで侯爵家の人間になれた僕は利点の方が多い。僕自身が義姉を嫌っているわけでもないので、義姉単体が大変だとは考えたことはない。
……大変なのは義姉が関わったときの殿下だ。僕だって最初から殿下の感情に気付いていた訳じゃない。八歳までは、多分違和感は感じていたのだろうけれど、殿下はただの優しい人だと信じていた。こんな方が道化ような義姉の婚約者なんて可哀想に、くらいに思っていた。
それが変わったのは、八歳の夏。いつも通りに殿下が屋敷に来ていたときのことだ。
その日、何故そのようなことになったのかは忘れたが殿下が勉強を教えてくださる、ということで僕は教材を取るために席を外した。教材を持って部屋に戻ると、義母の姿はなく、殿下がお一人で窓の外を眺めていた。声をかけても反応のない殿下を不思議に思い僕も窓に近づいた。
普段、人気のない裏庭。何か小さな生き物がそこにいた。もがくように動くそれに、義姉が優雅に近付く姿があった。
義姉はそれに触れられる距離まで来ると、それに向かって手を伸ばした。けれど、義姉は途中で手を止め、自分の手とそれを見比べる。それから、何かを言ってその場を離れた。
「……何故、あんなものを気にかけるんだ」
誰の声かと思うほど、聞いたこともないくらい低い声だった。視線を殿下に向ければ、殿下は今までに見たことのないくらいの無表情で義姉を見ていた。当時の僕は殿下の言葉の意味を理解することもできず、ただ恐ろしさだけを感じていた。
少しして侍女が現れ、その生き物を抱えて消えた。それを確認すると、殿下は無表情で窓に背を向けた。それから、早足で部屋を出ていく。
いつも柔らかく微笑んでいた殿下が、あのような表情を浮かべるのが信じられなくて、僕はただ教材を持ったままその場に立ちすくんでいた。
後に義母から聞いた話では、殿下が怪我をしていた生き物(子犬だったそうだ)に同情して、引き取ったそうだ。義母は「お優しい方ですわ」などと言っていたけれど、同情などでは決してないと僕は確信している。王宮に行ってもあの犬を見かけることはないし、第一皇子もそのような犬の存在は知らないという。殿下が里親を探した、という話も聞いていない。あの子犬がその後どうなったかなど、調べる気にもならなかった。
この婚約は政略によるものということに変わりはないが、この婚約を望んでいたのは大人たちだけではなかったと気付くのにそう時間はかからなかった。
本当なら見なかったことにしたかったのたけれど、そうはさせてくれないのがノア殿下だった。一度、僕の前で本性を見せたために吹っ切れたのだろうか、義姉に関してとことん僕を扱き使ってくる。
いい例がとある子爵家の次男だ。何度義姉に無視されようと、触れるなと叩かれようと、義姉にまとわりつく男が居た。何でも義姉に虐げられたかったそうだ。触れさえしなければ知覚さえしない義姉は気にもかけていないようだったけれど、それを許容できなかったのがノア殿下だ。
僕に義姉を監視させ、監視に余裕があると子爵家のことを調べさせ、子爵家次男の接近を徹底して違和感なく妨害するように命じてきた。引きこもりの義姉を監視することは別に何ともないのだけれど、子爵家を調べたり、違和感なく妨害するなど、子供の僕には難しいことばかり。ノア殿下だって子爵家のことを調べていたのだから、僕がやる必要はなかった今でもと思う。数週間もすれば、子爵家の次男は社交界から姿を消した。大病が発覚し、自然の豊かな場所で療養することになったそうだ。……どう考えても殿下が関わっている。
それを知っているのは僕くらいで、子爵家の次男は義姉によって辺境に飛ばされたなどという噂が立ち、以降、義姉には潔癖である他に非道であるという認識が加わった。