Ⅵ
次の日。
いつものわたしなら、待ち合わせ時間ぴったりに来るけど、今日のわたしは待ち合わせ時間の10分前に来て、この前了と話した席と同じ席で了が来るのを待っていた。
カランコロン。
待ち合わせの5分前に来客を知らせるベルが鳴った。
もしかして、と思って首を少し伸ばして入口を見ると、そこには予想通り困惑したような、不安そうな顔をした了がいた。
店内をきょろきょろしているので、
「了」
と声をかけると、了はわたしを認識して若干歩を速く進めて、席に来た。
「よう」
わたしの向かい側に静かに座る了。
「カフェオレで良い?」
「…あぁ」
暇そうな大学生風のバイト君にカフェオレを頼む。
了が何か言いたそうにモジモジしている。この男はこういう女々しい所もあるのだ。
「…昨日、川崎さんと会ったよ」
このままでは話が始まらないと感じたので、わたしから話を切り出した。了が俯かせていた顔を上げる。
「…何を話したんだ?」
「秘密かな」
間髪いれずに言うと、了がガックリと肩を落とす。
フフッ、と意地悪くわたしが笑うと、了は意味が分からないと言うようにわたしを見た。
でも、その意味が分からないわたしに逆に決心がついたのか、わたしをすごい眼圧で見つめ、重々しい口調でわたしに言った。
「…俺と、婚約を解消してくれ」
「いいわよ」
「嫌だって言っても、俺は言い続けるぞ…って、え?」
「だから、婚約解消してあげる」
婚約解消を受け入れてくれると思ってなかったのか、了が間抜けな顔で素っ頓狂な声をあげた。こんな間抜けな顔の了を見たのは小学校以来かもしれない。
面白くなって、吹き出しそうになるのを堪える。
「なんで?」
もっともな疑問をぶつけてくる了。
わたしは用意してきた理由を噛まないように、でも不自然じゃないスピードで話した。
「だって、お互い愛し合ってないのに結婚なんて、お互いの親が可哀想じゃない。それに家庭がすごく冷え切りそうだし。わたし、結婚するなら温かい家庭を築きたいの。もしかしたら生まれてくる子供に、わたしは義務的な愛情は掛けられる。でも、それは絶対に本物の愛には勝てないのよ。それを、この前了と別れてから気付いたの。今の今まで了に言わなかったのは、まぁ、わたしの意地が悪いってことで許して」
わたしがこの時ついた小さな嘘。わたしが今は了が好きではないという嘘。好きな人を幸せにしてあげたいための嘘だから許してくれるだろう。
了の目から涙が一粒こぼれた。それは、川崎さんと結婚できるという安心感からきた涙だと想像するのは簡単だった。
「…ありがとう、沙良」
「…なんでよ。元はわたしのせいなのに」
溢れそうになる涙を必死に堪え、震えそうになる声を必死に抑えた。
でも、限界が来るのは早い。
「…ごめん、帰るわ。この後約束があるの。カフェオレ、まだ来てないけど、2杯頑張って飲んでね」
財布からなるべく素早く1000円を引っ張りだし、テーブルに置くと、「ちょっ、沙良」という了の声を無視して半ば走るようにして店を出た。
店を出ると、空は綺麗な夜空で。
今この瞬間に土砂降りの雨が降ればいいのにと綺麗な夜空を恨んだ。そしたら、思い切り泣けるのに。
わたしは駅までできるだけ無心で向かった。
駅には帰宅ラッシュの最中で、人があふれかえっていた。
その人ごみにいつも通りに紛れようとすると、肩を掴まれ、
「沙良ちゃん」
と、昨日会ったばかりの隆太が声をかけてきた。
「…隆太」
今、誰かといつも通りに話せる自信がない。手を振りほどいて駅に向かおうとするけど、男性の力の前ではわたしの力は無いに等しい。
それでも何とか手を振りほどこうとするわたしの動きは隆太の次の言葉で止まった。
「今日、了と会ってきたんだろ?」
「なんで…」
思わず隆太を睨む。
「了、なんでも俺に言ってくるから。だから、悪いけど待ち伏せさせてもらった」
そうネタばらしをした隆太。その姿は本当にいつも通り、軽くて、ひょうひょうとしていて。
ああ。やばい。溢れそうだ。いつも通りの隆太が、今は染みる。
そして
「お疲れ、沙良ちゃん。すごいかっこいいよ」
わたしを労った隆太の優しい表情が、声が、何よりいつも通りの隆太が。
わたしの涙腺を壊した。
「…ありがと。…ついでに、泣かせて」
「はいよ」
隆太の胸に寄りかかる。
わたしは声も出さずに泣いた。隆太は何も言わずに背中をさすってくれる。
5分ぐらいしただろうか。
隆太がわたしの耳元で囁いた。
「俺のところに来なよ」
いつもなら、ふざけるなと言っているとこだけど、今のわたしにとってそれはチョコレートのようなものでしかない。
「…忘れさせてくれる?」
隆太の胸から顔を離さずに聞くと、隆太は少し体を強張らせて、
「勿論」
と自信満々に答えた。
「本当?」
「俺、1年後には沙良ちゃんと家族になってる予定なんだけど」
「ふふ、何それ」
「本気だよ」
思わず隆太の顔を見る。
隆太はわたしの顔を見つめて、
「俺、本気だから。絶対了のこと忘れさせるから」
「…分かった。信じる」
「マジで?」
「うん。1年後までにわたしが隆太のこと好きになったら、わたしから告白するから、そしたら結婚しよ」
普段の私なら、こんなバカ女みたいなセリフは言わない。だけど今は傷ついた心をいやしてくれる隆太を失いたくないという気持ちでいっぱいだった。
「やった!俺、頑張るから!」と今にも踊りだしそうな隆太。
そして、そのままの勢いで、
「じゃぁまずは今からご飯でも行きますか?」
と聞いてきた。
「こんな泣きはらした顔でよければね」
意地悪な笑みを浮かべると、隆太は
「どんな顔でも沙良ちゃんは可愛いよ」
とサラリと言った。
赤くなるわたしの顔。
隆太はそんなわたしを見て、軽く笑うと、わたしを優しくエスコートした。
さっきまで恨めしかった夜空が、今ではすごく嬉しかった。