3 脅威
少女の様子に釘付けになっていると、すぐ近くまで寄っていた月宮が話しかけてきた。どうして目を離すことのできない今なのかと思ったが、少女が動かない今だからこそ話すべきことを話そうという考えなのだと気付いた。
「ここからはフェリチタと他の全員の戦いだ」
ようやく少女の名前を知ることができた。フェリチタという名前。ルーチェという名前と合わせても、ルーチェたちの両親が今の彼女たちを望んでいたわけじゃないことがわかる。
「ルーチェは無事なのね」
「ああ。フェリチタを止めることで意見が一致した。どうやらあの状態を解除する一番の方法は、ルーチェがフェリチタの血を吸い出すことらしい」
「吸血鬼らしいわね」
「お前に一つ、頼みがある」
音無は思わず、フェリチタから目を離し、月宮に向いてしまう。「頼み?」と聞き返してしまうほど驚いた。まさか彼からそんな言葉が出るとは思ってはいなかったからだ。
いったいなにを頼もうというのか。
「なに」
「ここで見たことは口外しないで欲しい」
「できると思ってるの?」
誰かに話したとしても、信じてくれるものはほとんどいないだろう。しかし一部の人間はそれを信じ、彼女たちの力を見たとき、実験動物のように扱うかもしれない。ここまで稀有な存在となると、《欠片持ち》のように、すぐに自由を与えられるとは考えられない。
音無はルーチェたちに、普通の生活を送ってほしいと思っている。こんな血の流れるような世界ではなく、イヴのいるような当たり前の日常に身を置いて欲しい。
だから誰になにを言われたとしても、今回の件について話すつもりはなかった。適当にでっち上げて、曖昧なままにしておくつもりだ。
「あの姉妹のこともそうだが、こっちのこともだ」月宮は言う。「今のフェリチタと戦うとなれば、手の内を隠してはいられないときもある。それを見られることが俺たちにとって不利益なことはわかるだろ?」
お前にも不利益になる、と月宮は言う。
隠している事実を知られたとき、どう対処すべきがいいかなど、至極簡単なことだ。知った相手を消してしまえばいい。そうすればそこから情報が漏れることはなくなる。死人に口なし。事務所くらいになれば、殺害した事実すら隠蔽しかねない。
音無は、月宮からの忠告と注意を聞き入れる。
「なるほどね。いいわ、約束する。あなたには事務所の意向に逆らってもらってるんだから、それくらいは受けるわ」
「助かる」
そう言って、月宮はフェリチタに向かっていった。その両手には二本の銀色の剣が握られている。
音無もそれに続いた。作戦を考えている暇はない。コンビネーションなどついさっき初共闘をした月宮とでは、できないことはないが、しかしお粗末なものになる。それならば個々に動いた方がまだいい。下手に行動を縛るよりはフェリチタの相手ができる。
それに音無たちがやることは決まっている。ルーチェがフェリチタに近づけるように隙を作る――ただそれだけだ。考える必要もなく、それが作戦だった。
刀は鞘に納め、《欠片の力》を多用していく。
フェリチタの攻撃は、自身の身体を別のなにかに変異させるものから、自らの血液を操るものに変わった。どうしてそうなったのかはわからないが、音無にとってそれは好都合だった。変異後が読めない攻撃よりはわかりやすい。
さらに彼女が放つ「風」もあり、どこから攻撃がくるのかも予測できた。無数の血の棘が迫ってこようとも、それがわかれば避けることは容易い。
しかしその反面、フェリチタの手数の多さに、近づくことが困難だ。血液は身体から溢れ出たあと、地面に零れ落ちていく。そうなると今度は彼女からの攻撃と、地面からの攻撃が同時に行われる。
フェリチタはその場から動いていないのに遠い。
月宮も何本もの武器を消費しながら戦っている。回避しながらも、隙を見つければ、手に持っている武器を彼女に向かって投擲した。だが、血液の壁によってそれは阻まれていた。
しかし目的は果たしている。フェリチタの意識は確実に音無たちに向けられている。彼女は動かない。だが、その瞳は常に音無か月宮のどちらかを見据えている。
地面から伸びた血液の棘を、後退して避ける。直撃できなかったとわかると、その棘はかたちを失い、液状となって地面に落ちていく。けれど、そのまま地面に染みわたるわけじゃない。落ちていく過程の中で、再び棘となり音無に向かって勢いよく伸びるのだ。
変幻自在の攻撃。一瞬も気を緩めることはできない。一度でも触れてしまえば、一滴でも付着してしまえば、フェリチタの攻撃を避けることができなくなる。月宮の武器が無残にも破壊されていくのはそのためだ。液状攻撃から身を守るために盾となり、付着した血液に容赦なく破壊される。
途端、フェリチタの頭上から光の塊が落ちた。しかもよく見れば、それは上から下への流れがあることがわかる。
音無は月宮を見る。驚いている様子はない。
すぐにルーチェたちの方へと視線を移した。眼鏡の女が突き出した右手に左手を添えていた。瞳に欠片はなく、輝いてもいない。彼女もまた《欠片の力》を持たずに、なにかの能力を行使できるのだろう。
それが確認できたあとすぐに、音無は姿の見えないフェリチタを見やる。
(まったく……。狭い世界に生きてたのね、私は)
ルーチェたちが現れるまでもなく、この街には《欠片持ち》とは違う存在がいたのだ。それに気付かなかったのは、彼らが力を隠すことが上手かったのもあるが、やはり信じようとしなかったのが一番の要因だろう。
もっと知っていかなければならない。
この世界のことを。
やがて光の塊が消えると、残ったのは赤黒い球体だった。
「そう簡単には倒れてくれないわよね」
水の跳ねるような音を立てながら、球体は崩れ、翼を閉じたフェリチタが何事もなかったかのように現れる。
そして、それとは別の姿が音無の目には映っていた。
フェリチタの背後に、ルーチェと黒コートの姿があった。血液の地面に触れないように飛び掛かっている。
そういえば、と音無はつい先ほどのことを思い返す。眼鏡の女は見たが、二人の姿は見ていなかった。あれは見ていなかったのではなく、もうすでにそこにはいなかったのだ。
意識から外れていた。
フェリチタも光の塊を防ぐために視界をすべて血で覆ってしまっていた。だから気付けないだろうし、気付いていても次の行動に移すのに若干だがラグができる。それさえあれば充分だ。
充分なはず。
そう思っているのに、不安が消えない。
どこかに見落としがある。そう思えてしまう。
その答えを示すかのように、ピチャンと音がした。フェリチタの作った血液の球体が崩れ、彼女の足もとに血溜まりができている。
また血の雫が落下し、音を立てた。
その瞬間、時間が動き始めた。走馬灯にも似た速さの思考が終わり、次になにをすべきかを導き出している。
音無よりも少し早くそれに気付いた月宮が血溜まりに向かって剣を投げる。それはフェリチタの背後――つまり、ルーチェと黒コートの足もとに斜めに突き刺さった。
剣が勢いよく突き刺さったことで、血が跳ね上がる。
その雫を呑み込みながら、さらに大きな塊が血溜まりから盛り上がってくる。まるで膨らみ過ぎた風船のように。
黒コートがルーチェの腕を掴み、引き寄せた。
月宮の剣が足場となる。
その鍔に足を乗せたとき、
血液が爆発した。
四方八方にではなく、背後にいる二人に向けて。
黒コートが踏みこんで跳び上がるも、破裂し、勢いをつけた血液の方が彼女たちに辿り着くのが早い。
音無は二人の移動を助けるように追い風を作る。風に押されたことで、ルーチェたちの回避が速まり、血飛沫は宙を舞うだけとなった。
だが、まだフェリチタの攻撃範囲にいることは変わらない。まだ宙にいる二人の行く手を阻むように血液が壁となる。進行方向に現れてしまうと、切り返しはできない。横風を作ることもできるが、さっきとは違い血液ごと吹き飛ばしてしまう恐れがある。
実の姉とわかっていながらの攻撃なのか。
もうその判断もできない領域にいるのか。
それは音無にはわからない。
誰にもわからない。
知っているのはフェリチタ自身だけだ。
そのフェリチタを助けられるのがルーチェだけなのだとしたら、音無のやることは一つだった。たとえ自分の身を犠牲にしてでも、血液の壁を取り払う。ルーチェたちを包むように風の障壁を作れば突破できると信じて。
音無の瞳に宿る欠片が光を帯びた。
自分の周囲以外に作るのは初めてだが、今ならできる予感がしていた。この緊張感、失敗の許されぬ空気。それが音無に自信を与えていた。
しかし音無は、風の障壁を作ることができなかった。あとほんの一瞬でも時間があれば、《欠片の力》を行使できていたのに。
その理由は単純だ。
作る必要がなくなったからだ。
血の壁に無数の亀裂が生じ、まるでガラスが割れたときのように崩れ落ちていく。球状のときとは壊れ方が違う。血が液体ではなくなっていた。さらに崩れ落ちながら、次第に粒子となり消滅していく。
驚いてばかりの一日だ、と音無はその血の壁を破壊した張本人を見ていた。黒い瞳に赤みが帯びているのではなく、完全に赤く染まっていた。
(これが、月宮湊……)
おそらくは今の彼が、全力を出した状態なのだろう。彼から感じられる風の色がまるで違う。
ただただ冷たく、
そして綺麗だった。
壁がなくなったことでルーチェたちは無事に地面に降り立つことができた。音無の横に着地した黒コートは無言のままルーチェから離れ、月宮の横に立つ。
「大丈夫?」音無はルーチェに手を差し伸べた。
「ありがと、お姉ちゃん」
彼女の小さな手は震えていた。実の妹に殺されかけた恐怖からなのか、それともどうしても助けたいという武者震いなのか。どちらも正しいに決まっている。音無はしっかりとその手を掴んだ。
フェリチタが悲鳴を上げた。今度はわかる。その声はたしかに悲鳴で、彼女は今なにかに怯えるように少しずつ後退していた。今までその場から微動だにしなかった彼女が動いている。
後退に合わせ、血溜まりが彼女に寄っていく。よく見れば、ある地点から血溜まりが分かれていた。その二つの違いは、動くか動かないか。地面に溜まった血液が生物のように動く方が不自然で、静止している方が自然なのだが、音無は逆に思っていた。
どうして動かないのか。
どうして彼女に戻っていかないのか。
誰かが叫んだような気がした。しかしその声はフェリチタの悲鳴の中では響かず、気のせいだったかもしれないと判断してしまうほど微かなものだった。
音無はただただ見ていることしかできなかった。
いや、正確には見ていなかった。
瞬きを終えたときには、すでに結果が映り込んだ。
黒コートの横にいたその後ろ姿は小さく、
吸血鬼のすぐ傍にあった。
次の瞬間。
月宮湊がフェリチタの身体からナイフを抜いた。