3 霧散
対《欠片持ち》としての訓練を積み重ねてきた音無にとって、白髪紫眼の少女の奇怪な能力は驚くに値しなかった。たとえ肉体の一部を変容させることができたとしても、それは《欠片持ち》の能力の範囲内に過ぎず、何度もシミュレーションを行ってきた相手の一人だ。
しかし、能力自体に驚かなくとも、相手が《欠片持ち》でないことは少なからず音無に疑問を抱かせた。
いったい何者なのか、と。
「凄い! 凄いよ、お姉ちゃん!」
ルーチェは歓喜に染まり上げた声を発しながら、その変容した腕を大きく振るった。大鎌になっているからといって狭いところで不利になるわけではない。実物を振るのとは違い、壁に当たる直前に、また壁に直撃しない時点から腕をそれぞれ適切な長さにすれば、勢いを殺すことなく振るうことができる。
ただだからこそ読まれやすいという欠点となる。
まして音無には白枝畔の存在があり、この手の戦術は昔から見ていたし、対策も教わっていた。それに白枝の方が能力としては上だ。彼女は無生物かつ可視物ならば変換ができ、ルーチェのような弱点はない。
「どうして? どうして死なないの?」
「殺したいならもっとまともな動きをしなさい」
大鎌を振るうだけの攻撃など軌道さえ見切れば避けることは容易い。それにどうやらルーチェの能力には長さ制限があるようだ。それは二メートルにも満たない距離であり、その間合いもわかればさらに避けることは簡単だった。
どうして死なないのか。その一言が、彼女がこれまでに人を殺めているという事実を明らかにしていた。それに相手を傷つけることにまったく抵抗のないことも真実性を高めている。
「まともな動き? それってこんな感じ?」
にたりと笑うルーチェに、音無の警戒心は一気に高まる。
振り上げていた彼女の右腕がこれまでどおり壁にぶつからないように「人の腕」に戻り、通過を終えて「ショーテル」の形に変容すると、それは身体から分離した。まるで投擲されたかのように回転しながら、音無に向かってくる。
二メートル程度の間合いしか取っていなかった音無は、瞬時に《欠片の力》で「風」を操ることで、自身の周囲に障壁を作り、ショーテルを弾き飛ばした。
「ほーら、やっぱりお姉ちゃんも化物じゃん。私と同じ」
ルーチェが自分の瞳を指さした。音無の目に宿っている欠片のことを示しているのだろう。
彼女が切り離した右腕はもとに戻っている。弾き飛ばしたショーテルを見ると、それは今まさに跡形もなく消滅した。
腕を別のものに変化することができ、切り離しも可能。切り離したものは時間経過、あるいはルーチェの意思で消滅するようだ。もしかしたら腕がもとに戻ると、変化させたものが消滅するのかもしれない。
「あなたとは違うわ」
ルーチェは《欠片持ち》じゃない。ましてや信じがたいことに「人間」でもない可能性がある。常人とは異なるから「人間」でないと断言することはできないし、するべきじゃない。それは自らを否定することとなる。同胞を侮辱することになる。
だからこそ、ルーチェが何者なのかが気がかりだった。容姿は人間であるが、内包している能力が人間を超え、それでいて瞳に欠片を宿していない。
「同じだよ。普通の人とは違う、それを化物って言うんだよ。知らないの?」
「私たちは化物なんて言われない」
「だからここに来たの」
ここにいれば化物なんて言われない。
ルーチェの顔から一瞬だが笑みが消える。音無はそれを見逃さなかった。笑みを浮かべ続ける彼女が見せた、悲哀に満ちた表情は見たままの少女のものだ。その表情は本当に彼女が人を殺してきたのかを疑ってしまうほどに、音無の心を揺さぶった。
だが、音無の心はすぐに平静を取り戻した。彼女が危険であることは、この場で対峙している音無自身が最も実感していることだ。ただ行く先を遮ったからといって、命を奪おうなど常人の思考ではない。
「他人に危害を加えるのならお断りだわ」
「お姉ちゃんが決めることなの?」
「誰だって傷つけられたくないわ。あなたもそうでしょ?」
「私? 私は平気だよ」
「強がらなくてもいいのに」
「本当だよ。それなら試してみる? みんな、そうしてきたんだから」
ルーチェは駆け出し、音無との間合いを詰めてくる。しかし音無の周囲には風でできた障壁があり、無闇に近づけばショーテルと同じように弾かれる。それはルーチェもわかっているだろう。だからこそ疑念が生まれる。
(なにをしようっていうの)
音無が身構えている間に、ルーチェの手がすぐそこまで迫っていた。その手は風の障壁によって当然弾かれる。
「無駄な行為よ」
「そんなことないよ」
が、弾かれた手は再び障壁と衝突した。今度は弾かれず、いつまでもその手は音無に迫ろうとしていた。
ルーチェは音無の理解の範疇を超えていた。彼女は自分の腕から刃を作り出し、壁に突き立てることで腕を固定したのだ。弾かれることのできなくなった腕は手をいつまでも風と接触させる。
障壁は音無の周囲に風を巻き起こすことで作り出されており、その勢いは投擲されたショーテルを弾くほどだ。一瞬の接触ならば、人の手でも少しの切り傷ができるだけだが、継続して接触した場合、それは回転する扇風機のファンに手を突っ込むのと変わらない。
目の前で手が擦りきれ、皮を剥ぎ、肉を抉る様を音無は目の当たりにしていた。千切れた肉片も、飛び散る血液も、風によって弾かれる。
「バカなことはやめなさい!」
「大丈夫だよ。全然平気だよ」
ルーチェの顔は歪むことなく、ただ笑みが浮かぶばかりだった。本当に痛みがないかのようである。
「そんなはずないでしょ!」
「じゃあ退いてよ」
退くわけにはいかなかった。彼女がどれだけ危険かは、どれだけ自分を顧みないかを知ってしまった以上、この街に放つわけにはいかない。彼女を縛ることができないのだ。誰もが持っているはずの「法」をルーチェは有していない。
無秩序な存在を放てば、人体消失事件のようなことがまた引き起こってしまう。
そしてなによりイヴの感じ取ったものが、ルーチェの存在だというのなら尚更退くことはできなかった。
だからこそ障壁を解くことはできない。音無にとってルーチェの身よりも、ルーチェがいることで引き起こる問題の方が重大だ。
「あなたが大人しく捕まってくれたとしても、ここを退くわけにはいかない」
「なぁんだ。こうしてもダメなんだ。喜んでくれないんだ」
彼女を固定していた刃が消え、彼女はふわりと風に乗ったように後退した。
その瞬間、音無は風を彼女に向けて放った。高い建物に挟まれた路地のために、風は分散されることなく、一直線にルーチェに向かう。
その突風により、ルーチェの身体は微量だが浮き上がり、大きく背後に吹き飛ばされた。
二転、三転とした彼女は強く地面に打ち付けられたためか、なかなか起き上がらない。空を仰いでいる態勢のままだ。
「あまり使いたくはなかったけど、仕方ないわよね」
吹き飛ばした相手の打ちどころによっては、死は免れない。たとえ近づかずに相手を気絶させられても、使用は控えるべきなのは当然だ。最近では調整もできるようになったのだが、相手の身体の事情を知っていないとやはり死なせてしまう可能性があった。
しかしルーチェは見たところ生命力が高そうだったため、この荒技を使用した。なにせ肉片となった手はもとどおりになっている。常人ではないことはたしかだ。
腕を大鎌に変化させ、またその変化物を切り離すことができる。切り離したとしても腕がなくなるわけではなく、時間の経過によって、あるいは彼女の意思によってもとに戻せる。
身体の一部を自由自在に操れる能力を持っているとするならば、全身を強打させたことは間違いだったことになる。
「大丈夫かしら」
いくら狂乱の殺人鬼の可能性があるとはいえ、まだ少女だ。本来なら使用すら躊躇われる。
彼女の様子を確認するために近づく。その最中に音無は携帯電話を取り出し、導に電話をかけた。
「捕まえた?」
なにかを口を含んでいるときの籠った声が聞こえてきた。
「その前にとんでもないものに出会ったわ」
「へえ、なに?」
「《欠片持ち》じゃない能力者」
「そんなのいるわけないじゃん」
導が鼻で笑う。
音無はそれに無言で返答した。
「……え、マジで?」
「嘘を言ってどうするのよ」
ルーチェの足もとまで辿り着く。服は土埃に塗れ、髪も乱れている。眠っているような彼女の顔は一つの芸術品のように美しかった。見た目ままから判断するのなら、おそらくはイヴと年齢が近いだろう。十四、五といったところか。
みんな、そうしてきた。
彼女は傷つけられることに抵抗がなかった。それは傷つけられてきたためだ。家庭内暴力なのか、虐めによるものなのかはわからない。けれど、抵抗という危機回避能力を奪ってしまうほどに、彼女は傷を負った。
その理由は考えるだけ徒労に終わるだけだろうが、特殊能力が関わっている可能性は否めない。
「いやぁ、さすがに信じられないでしょ。眠気が迷子になるくらいには衝撃的すぎて、今もまだ舞桜が夏の暑さにやられたんだと思ってる」
「まあ実際に見てもらえばわかるわ。応援を呼んでもらえる?」
「ういー」
通話を切り、これからのことを考える。手足を縛っての拘束は無意味だ。《欠片の力》で彼女の周囲に障壁を作れば逃げ出すことはできないだろうが、しかし彼女は自分が傷つくことに抵抗がないため、下手をすれば死を選ぶ可能性も否定できない。
ここまで行動の読めない相手は初めてのため、どうしていいかわからない。応援が来るまで気絶していてほしいものだ。
「そんなことにはならないか――」
不穏な風を感じ、音無は跳び上がった。足もとを大鎌が通っていく。
ルーチェは倒れている状態から身軽に起き上がる。大鎌になっていた足がもとの形状に戻っていった。
「へえ、避けられるんだ」
「最後まで敵意を出さないことね。バレバレよ」
「お姉ちゃんに会ってから学ぶことばかりだよ。次からは気をつけるね」
「次なんてない」
「あるよ」
遠ざかろうとするルーチェに《欠片の力》を使おうとしたとき、背後から敵意を感じ、反射的に振り向いてしまう。
しかしそこには誰もいなかった。さっきまで自分がいた場所であり、ルーチェによって傷つけられた建物の壁くらいしか注目すべきものはない。
すぐさまルーチェに視線を戻したが、彼女の姿は音もなく消えていた。まるで白昼夢を見たような気分だけが音無の中に残った。ただでさえ《欠片持ち》でない能力者に出会ったことが現実離れしているというのに、こうも姿形が見えなくなるとその印象はさらに強まる。
「なんなの、もう……」
呟いたあと、音無は携帯電話を取りだした。




