6 知ることのない事情
「いつも悪いな」と雪柳彷徨は、目の前の男に言った。グレーのスーツに、濃紺のカッターシャツ、緑のネクタイと、研究者にしてはきっちりとした格好だ。しかし、その上からは白衣を着ていた。髪は整髪料で後ろに流されている。彼の名前は御津永。雪柳博士の弟子の一人である。
「いえ、これが仕事ですから」
彼の両手には大きな紙袋が二つ。
「しかし、なんのために必要なのですか? そもそも電話をしてきた彼女はいったい何者なんですか?」
「その話をしたいから、上がっていってくれ。時間はあるだろ?」
「ええ、当然です」
御津永は頷いた。
御津永が革靴を脱ぐのを確認することなく、彷徨はリビングに向かった。
「そういや、このテーブルを持ってきたのも御津永さんか?」
彷徨は、新調された椅子に腰かけながら訊いた。新品の輝きを放っている椅子とテーブルは、リビングの家具の中では一際浮いていた。
彷徨が座ってから、御津永が対面の椅子に腰かけた。
紙袋は丁寧に床に置かれた。
「いえ、これは別の者です」
御津永が答える。
「そのとき私は手の離せない仕事をしていたので、手の空いていた何人か、まあ二人くらいが、運んできたんだと思います」
「最近は、どんな研究をしているんだ?」
「もちろん『欠片の起源』です――というのは、私の個人的な見解で、多くの者は、欠片持ちと、そうでない者の違いについて調べています。ほとんど脳科学の分野です。人間の最も未知の領域といえば脳ですから」
「あんたの見解とやらは?」
「すべての進展は最終的にその起源に辿り着く、というのが、私の考えです。つまり、前に進んでいるようで、実は後ろに進んでいるということ。あるいは、始発点と終着点が同じである」
「進んだ科学は魔法と呼ばれる」
彷徨は呟いた。それが最も的を射ていると判断したからだ。他にもいくつか思いつき、それに『欠片の起源』と聞いて思い浮かんだのは、なにが砕けて欠片となったのか、あるいは欠片ではなく、それが成長の過程でその形を成しているだけなのではないか、などだった。
「そういうことです。さすが博士のご子息ですね。実に素晴らしい頭脳をお持ちのようだ」
「ちょっと思いついたことを呟いただけじゃないか」
「本当にそうですか?」
御津永は、真っ直ぐに彷徨を見据えている。
「私の話を聞いて、自分なりに解釈し、必要なことだけを口に出したのではありませんか? たとえば他にもいくつかの例が思い浮かび、その中から最適なものを抽出したとか」
「どいつもこいつも、俺になにを期待しているんだ」
「欠片の起源について考えませんでしたか? なにかから派生して欠片になったのか、あるいはこれから別の形になっていくのではないか、とか」
彷徨は御津永の指摘に驚いたが、しかしそれを表情に出すことはしなかった。ただほんの一瞬だけ、口を閉ざした。
「考えたようですね」
「お前、心が読めるのか?」
「鎌をかけただけですよ」
御津永は肘を立て、両手を組んだ。
「不快な思いをさせてしまったのなら申し訳ありません」
「いや、大丈夫だ」
「心について考えているのですか?」
「だから、なんでわかるんだ」
「心が読める、と言われたからです。普段の彷徨くんならそんなことを言わない。実にあなたらしくない言葉だな、と思っただけですよ」
本当に面倒な奴だ、と彷徨は嘆息した。父親の弟子になる人間はどうしてこうも面倒な能力ばかり持っているのか。そういう相手の心理を読みとる能力を持った者だけが選ばれるのだろうか。彼らが同じ部屋で作業をしている風景を想像する。ただの研究作業が、腹黒い探り合いのように見えた。しかし、そのような手段を持つ者は、防御手段も心得ているというもの。きっと一周回って、普通の研究風景なのだ。ぼ¥その防御手段を習得したいと彷徨は切実に思った。
彼女はさらに現代の人知を超越したような能力を持っているのだろう、と彷徨は横目でソファに腰掛けている心歌の様子を窺った。静かにテレビを見ている。
「彼女、何者なんですか?」
「俺にもわからない。ただ、親父とは少なからず繋がりがあるような素振りだった。心歌って名前なんだが、聞き覚え、見覚えはないか?」
「……いえ、ありません。シンカですか? どういう字なんですか?」
「心に歌」
彷徨は端的に答える。
「調べておきます。できる範囲で、ですが」
「頼む」
おそらくだが、手に入る情報はろくなものではないだろう、と彷徨は思っていた。そう簡単に彼女の情報が得られるとは思えないし、なにより、手に入れられる領域にあるとも思えなかった。この街の上層部の人間でも把握できていない可能性がある。彼女の能力、知識は異常だ。そのすべてが開示されたとき、もしかしたら御津永たちが研究しているものが解決してしまうことだってあるかもしれない。それだけ異質なのだ。逸脱している。
思い浮かぶ言葉は、どれも馬鹿馬鹿しいもの。
仮にそうだとして、彼女はなんのために「ここ」にいるのか。
導くため。
先のない一年。
どれも、ただの戯言にしか思えなかった。
「しかし、よくそんな人物を家におくことにしましたね」
御津永は煙草を取り出した。箱はほどよく潰れている。
「お前、煙草吸うのか?」
「ああ、そういえば、彷徨くんの前で吸ったことはありませんでしたね。失礼しました」
御津永は煙草を箱に戻した。
「いや、別に構わないんだが、どうして今まで吸わなかったんだ? 灰皿を用意してなかったからか?」
「そういうわけじゃありませんよ」
改めて煙草を取り出し、ライターで火を点ける。
「ただ、なんといいますか、子供の前では吸いたくないからですかね」
「今、考えたな」
「正解です」
御津永はゆっくりと息を吐き出した。
「意味なんてありませんよ。ただ今まで彷徨くんの前で吸うことがなかっただけで、まあ、運の問題――いや、この場合は気分の問題ですかね」
「似たようなもんだろ」
「ですが、とても重要なことです。重要なことほど面倒だ。なにもかもが単純明快であれば、私がこうして煙草を吸うこともないのでしょう」
「……一本いいか?」
「構いませんけれど、吸われたのですか?」
御津永は箱を振ってから、彷徨に向けた。
「ときどきな。まあ、一ヶ月に一本吸うか吸わないかくらいだ」
顔を出した一本を受け取った。そして御津永が煙草の先に火を点ける。
「私のような重喫煙者になると大変ですよ。ですが、お勧めはします」
「大変なことは、自分のためになるからな」
天井を仰ぎ見て、煙を吐いた。煙はどんよりと上っていき、霧散していく。たいていの物事は、最後にはこうなるのだ。
「そういえば、この噂をご存知ですか?」
数本目かの煙草を吸い終わり、彷徨の用意した空き缶に潰し入れた。
「いや、知らないな」
「この街でも有数の巨大さを誇った組織、姫ノ宮学園が閉鎖された、という噂です」御津永は淡々と続けた。その際に、彼の視線が心歌に向けられたのを彷徨は見逃さなかった。
「知らないな」
「いつ閉鎖されたのかは不明ですし、ましてや噂ですから事実かどうかも定かではありません」
「それがどうしたんだ?」
「特になにかあるというわけではありません。ただ研究所の方で学園からただならぬ《力》を観測しました。《欠片持ち》が発する波動とも異なるものです。面白くはないですか?」
「確かめにいけばいい」
「それができたのならいいんですけれどね」
御津永は目を細めた。
「もし閉鎖されていなければ、侵入などを試みなければなりませんし、いろいろと面倒なんですよ。それに噂を広めた原因となったのは、辺りを徘徊している都市警察の存在です。もっと面倒なことになりそうなので、どうしても確かめられないんです」
「親父の名前を使うとか」
「博士に迷惑をかけるわけにはいきません。まあ、あくまで噂ですし、それに噂なんて私にはどうでもいいのですよ」
「なにを観測したのかが気になるだけだしな」
「ええ。ですが、それもまたなにかの誤りなのかもしれません。機械とはいえ、完璧ではありません。人間のような柔軟な思考ができませんから」
「それができたら、人間はいらないからな」
彷徨は腕を組んだ。
「しかし、まあ科学者である以上、観測した事象がなんであったのかをこの目で確かめたいというのが本音です。どうです、気になりませんか?」
「いや、あまり」
「そうですか」
雪柳博士の近況を軽く説明して、御津永は席を立った。今までで一番長い滞在時間だった。人間味がないのが、雪柳博士の助手や弟子の特徴だった。人間の心には興味があったりするものの、人間そのものに興味はないのだ。
帰り際、玄関の扉を少し開けたところで御津永は振り返って、彷徨に言った。
「《欠片の力》の方はどうですか?」
「どういう意味だ」
「いえ、変わりないか、という挨拶みたいなものです」
「別に。変化なんてない」
「そうですか」
では、と小さく会釈をして、御津永は去った。




