1 終わらない因縁
そこは学校や商店街のあるような賑わった場所ではなく、すべてが停滞しまっている場所だった。
六番街。
終わっている場所。
きちんと開拓などが進めば、街としての機能を持てていたのかもしれない。人々が集まり、活気に溢れている場所になりえた可能性もある。
しかし人が住んでいなかったわけではない。数年前までは、たしかにそこには人が住み、開拓作業が行われていた。区画整備もまともに進んでいた。ただ問題があったとすれば、その周りが栄えてしまったため、そちらに人々が流れていってしまったことだろう。住人がいなくなれば、そこで進める作業に意味などなくなる。やるだけ無駄だ。
今となっては、そこにいる住人は、野良猫やカラスばかりである。探してみれば、人もいるかもしれない。ただその人物はまともな神経を持っていないことだけは断言できる。終わっている場所にいようとする神経は異常だ。すべての関係を断ち切ってまで、住む場所ではない。
建物は崩壊しているか、あるいは造りかけであるかのどちらかだ。窓ガラスがない、天井がない、鉄筋が剥き出しになっている……、そんなことは当たり前だ。ここではそれが通常なのだ。
背の高い建物が多いのは、そこをマンションなどの集合住宅にしようとしていたからだろう。
お世辞でも、いい場所とは言えない。
利点といえば、人気がないことだけだろう。
愛栖愛子は六番街にある、とある鉄筋が剥き出しになっているビルに入っていく。このビルがはたして造りかけなのか、崩壊中なのかはわからない。ただ、一般人はここに入るのに抵抗があるだろう。今にも崩れてしまいそうなのだから、そもそも入ろうとは思わない。そもそも、というのなら、そもそも一般人が訪れることがありえないことだった。
階段を上り、二階へと。
この街には、六番街と同じような場所がもう一つだけ存在する。
同じようになってしまった場所。
七番街。
六番街が「終わっている場所」ならば、七番街は「終わらされてしまった場所」だ。六番街と違って、そこは近い将来に賑わう場所になるはずだった。これからだったのだ。未来を潰された場所――それが七番街。
春に起きた大火災により、すべてが焼き尽くされた。
奇跡的に、火災による被害者はおらず、なんらかの不備による火災だと世間には公表されている。真実は直接関わった者にしかわからない。関わったとしてもわからないことだらけだ、と愛栖は思っていた。
ほんの少し手助けをした程度では、あの三人の苦しみなどわかるわけがないのだ。その大火災の引き金となった事件の中心にいた者たちにしかわからない。
その大火災は、三人が苦しんだからこそ生まれたのだから。
一人はこの世にはおらず、一人はその記憶を消され、一人はその苦しみを背負い続けている。その一人以外は、生き残っていないと言っても過言ではない。記憶がなければ、関わっていないのと同じ。
二階に着くと、すぐ左に扉があった。「事務所」と書かれたプレートがぶら下げられている。愛栖はノックをすることなく、扉を開いた。
部屋の中は広く、そして外装からは見当の付かないほど綺麗な内装をしていた。脚の短いテーブルが部屋の中心にあり、黒い革製のソファがその両隣に置かれている。奥の窓にはきちんとガラスが張られている。その手前には、大きなデスクがあり、椅子の背もたれがこちら側を向いていた。
愛栖はヒールで床を鳴らしながら部屋に入っていき、ソファに深々と腰掛けた。
「私を呼んだのはどんな要件があってのことだ?」
背もたれを向けていた椅子がくるりと回転し、そこに座っていた人物が姿を現した。そのときの動きで肩口まで伸ばされた金色の髪がなびいた。
アリス。それが椅子に座っている少女の名前である。
「もちろん、愛子を呼ぶ要件といえば、湊絡みのことだって決まってるじゃない。愛子は湊の観察者なんだから」
アリスの金色の瞳が、愛栖を捉える。
「どう? 最近の湊は元気にやってる?」
「そんなに知りたかったら、お前も学校に来い。一応、籍は置いてあるだろう」
「私に学業は必要ないわ。時間の無駄。まあ、学園生活というものには興味はあるけど、それでも私には『こちら』での仕事の方が重要ね」
「アイリスはなにも言わないのか?」
アイリスとは、この事務所の所長であり、アリスの姉である。「最高」の称号を持つ魔術師一族のトップであり、魔法に一番近い魔術師と言われている。魔法に近いとはすなわち、神に近いことを意味している。アイリスとは割と縁のある愛栖だったが、それ以上のことはなにも知らない。知ることができない。魔法に近い存在であるためか、その情報のほとんどが極秘事項となっている。
本来ならば、今、ここにいるべきなのはアイリスなのだが、なにかしらの事情によりこの場にいないようだ。
「姉さんはなにも言わないわ。いえ、言ってるわね。『私の言うことには絶対に従うこと。それ以外は自由』だったかな」
「従わない奴とかいないだろ。あいつに逆らうのは、自殺行為だ」
「湊は従わないわね。それに、厄介事ばかり持ってくる」
「……私は、こっちでの月宮が心配なんだが」
教え子が自分の友人に殺されるなんてことは想像したくなかった。少しはおとなしくしていてもらいたいものだが、それはきっと叶わないだろう。ここで、この事務所で働いている時点で、おとなしく過ごすなんてことはできないのだから。
「――厄介事を持ってくる?」
愛栖はアリスの言葉を繰り返した。
「あいつがそんなことをするとは思えない。厄介事を増やしはするが、持ってくることなんてしないだろ」
「姫ノ宮学園の件は持ってきたというべきだと思うけど?」
アリスは頬杖をついて微笑んだ。
「あー……。あったな、そんなことも」
「ついこの間のことなんだけど」
数週間前に、この街で最大の組織が解体した。死者は千人を優に超え、生き残ったのは三人だけである。この事実を聞かされれば、街の人間は混乱に陥ってしまうだろう。そのため情報は規制され、姫ノ宮学園という組織は、表向きにはいまだに経営中である。
幸いだったのが、この学園は自ら周りから隔離されることを望んだ組織であり、その実態を詳しく知る者は少ないことだ。だから、千人を超える被害者が出ようと、学園関係者以外の人間は疑念を抱かない。
しかしそれも時間の問題だった。情報というものはいくら管理しようと、どこかから必ず漏れてしまうのだ。だから、その前に手を打たなければならなかった。
表向きは経営中だが、実はある噂も流していた。それは姫ノ宮学園が閉鎖になるということ。中にいた住人は、それぞれの場所に移っているということ。こうすることで、自然に姫ノ宮学園を閉鎖するができる。完全に閉鎖が完了したときに、そういえばそんな噂もあったな、と街の人間に思わせることができれば十全の結果と言えよう。
噂を信じさせるための種はすでに蒔かれている。生き残りの三人の存在を開示することによって、信憑性を高めているのだ。
その三人は現在、愛栖の勤めている天野川高校に通っている。彼女たちの口から姫ノ宮学園のことが話されていけば、誰でもそれを信じるだろう。どんな虚言であろうと、それを確かめる術は姫ノ宮の人間にしかないのだから。
この姫ノ宮学園を解体させてしまった騒動にいたのが、月宮湊だった。たった一人の女の子を守るためだけに、大事になることを承知で、姫ノ宮学園という「異常」に手を出したのだ。
一途であると誰かは思うかもしれない。だが、愛栖はそう思わなかった。それはやはり春の大火災のことがあるからだ。月宮は責任を感じているのだろう。――償おうとしている。
その姿は、愛栖から見ればただの滑稽でしかないのだが、月宮自身が望んでその道を選ぶのならば、口を出すつもりはなかった。それもやはり愛栖が春の大火災のことを知っているからに他ならない。
アリスは立ち上がり、棚からファイルを取り出した。そのまま愛栖と向かい合うようにソファに腰を下ろす。
「だいたいのことはもう説明済みだと思うけど、姫ノ宮学園についてのことよ」
「わかってるが、改めて説明されることなんてあるのか?」
「あるわ」
アリスはファイルを開く。
「愛子や湊は、あの日以来あの学園に近づいていないから知らないでしょうけれど――いえ、気付いていないと思うけど、姫ノ宮学園にはもう人はいないわ」
「閉鎖が完了してたのか」
「ええ。期間的にも問題はないでしょう。誰かが調査に来ても、あそこにはなにもないわ。残された資料や機材などは、ここと都市警察の方で回収したの」
アリスの言葉を受けて、愛栖は吹き出した。
「都市警察と仲良く分けあったって言うのか? おいおい冗談はよせよ。相容れぬ仲だったのに、どうしてまた……。あ、奪い合いでもしたのか?」
「してないわよ。たしかに所員たちはそうすることを望んだけれどね」
「まあそうだろうな。というか正攻法じゃあ、現場に立ち入らせてもらえないだろ。ここはいつもあいつらの先にいて、それを疎ましく思ってるんだから」
事務所が依頼解決のために問題を起こし、その問題に対して動かざるをえないのが都市警察だ。追う者、追われる者の関係とは少し違う。お互いに、隙があれば街から消してやりたいと思っているのだ。お互いに存在を許していない。
それでもお互いが存続できているのは、どちらもこの街に不可欠な組織だとわかっているからだ。
事務所は非合法とはいえ、依頼を解決している。それがどんな依頼でも、必ず解決してみせていた。都市警察でできないことを、取り扱ってくれないことをやってくれる。だからこそ依頼者が途切れることがなかった。
都市警察は言わずもがな、街の治安を守っている。その存在が街にどれほどの影響を与えているのかなんて説明するまでもない。街での犯罪が少ないのは、都市警察が抑止力として働いているからだ。
この二つの組織は、やっていることは同じなのだ。誰かのために動く――ただそれだけ。表の顔が都市警察であり、裏の顔が事務所と言われても納得がいくくらいだ。合法的か非合法的かの違い。
テーブルに差し出された資料の束を、愛栖は手に取る。目分量で測っても、十枚にも満たない厚さだ。
「これだけしかないのか?」
姫ノ宮学園の大きさを考えれば、これだけしか資料が残されていないのは不自然だ。火災があったわけでも、学園が消えたわけでもない。ほとんど無傷で建物は残っているはずなのだ。姫ノ宮が行おうとしていた計画が計画だ。直前に関連資料をすべて破棄したことも充分にありえる。
だが、それも不自然だ。計画は失敗に終わっている。予期せぬ事態で終幕を迎えたというのに、これではまるで成功しても、失敗しても、学園を潰すつもりだったみたいに感じられる。
「ええ。あの巨大な組織は、まともに資料なんて残していなかったの。図書館や住宅施設などにあった書物はもちろん残っていた。どれも興味が持てなかったから、都市警察に渡したけど」
「これはどうしたんだ?」
「長月イチジク、如月トモの情報から探り当てたものよ。都市警察の目は他の子たちが欺いて、その間に、ね」
「だけど、これだけってのは」
愛栖はぱらぱらと資料の束をめくっていく。そこには文字などなく、奇妙な絵だけが描かれていた。植物や動物、迷路のような絵。なにを意味しているのか、まったく不明である。
「『終焉の厄災』を再誕させる『神格の儀』について書かれているものは、何一つ残されていなかった。姫ノ宮の生き残りが言っていた資料もない。すべて消滅」
「なあ、これはどういうことだ?」愛栖は資料の一部を指し示す。そこには『6』と番号のようなものが振られている。他の二枚の紙にも同様に『9』、『12』とある。
「初めはページ番号だと思って他の数字がないか探してみたけれど、なにもなかったわ。愛子はどう思う?」
「うーん。ぱっと見て思ったのは、三の倍数だな。そう考えると、これが残っていたのは偶然には思えないな」
「そうなのよ。私も同意見」
アリスは深い溜息をついた。解明できない問題に、嫌気がさしているようだ。
「アイリスはなんて?」
「私の意見を話したら、『だとしたら「3」がないね』って。あれは考えることを放棄したんだわ」
「まあ、仕方ないだろ。姫ノ宮学園は終わっちまったんだ。今さら、資料を見て、謎が解明できても、犯人を捕まえることなんてできない。なにやってるか知らんが、あいつも忙しそうだからな。構っていられないんだろ」
不可解な絵の書かれた資料の束をテーブルに投げおく。愛栖のその杜撰な扱いにアリスは一瞬だけ眉を動かしたが、なにも口に出さなかった。ただ目線を送るだけだ。
「それでここからが本題なのだけれど」アリスが言う。「湊の能力について、やらなければならないことがあるわ」
月宮湊の能力は、神の力である。すべての頂点に立つ力。
すべての人間が無意識に目指す「神界」。そこへ至るための扉を開くための鍵が、魔法、魔術、超能力、異能力の四つである。魔法から始まり、魔術、超能力が生まれ、そして異能力が突如として現れた。魔法は神の力とされ、人間に使えるようにしたのが魔術。魔術により発生した血統の力が超能力。異能力だけが、魔法には繋がっていない。それどころか、不明な点だらけだ。わかっていることはただ一つ、最初に確認されたのが「終焉の厄災」の直後だということ。一応はそう言われているが、実際には、異能力は魔法なのでないかと噂されている。それを立証すべくこの街は存在していた。
月宮の能力はそのどれとも異なり、一番に近い存在は魔法である。ただそれは近いだけで、同等というわけではない。神から借り受けているというのが真実であれば、正しくそれは魔法なのだが、いかんせん信じることができない。信じることを拒絶している。
愛栖たち、魔術師の目指すものを、奇跡という偶然によって手に入れられてしまったとなれば、生きてきた魔術師すべての努力を無に帰すことになる。
だから、月宮の能力は異能力として扱われる。魔術師たちの尊厳を守るために、月宮を守るために、そうするしかない。
「やらなければならないこと?」
「先日のことで、世界のバランスが少し崩れているようなの。湊が自身の存在を神の力に近づけたことによってね」
「てことは、やっぱり『本物』なのか? あの力」
「どうでしょうね。悪魔との契約かもしれないわ。魂のやり取り。考えられるのは、それか精霊かのどちらでしょう? まあ、悪魔との契約は冗談だけれど、精霊か神か、どちらかでないとありえないわ、あんなの」
魂のやり取り。アストラル投射。
悪魔との契約がありえないのは、魂が返却されているからだろう。魂は対価でしかなく、返還されるものではない。契約に見合った量の魂を、あるいはそのすべてを捧げなければならない。
なんにせよ、確定していることはただ一つ。月宮の能力は人間の持てる力ではないということだ。
「機関に湊の能力が伝わっていないのが幸いね。こんなことが知られたら、ホルマリン漬けにでもされるんじゃないかしら」
愛栖たち魔術師が所属する組織――それが魔術機関である。《裏の世界》を統括する機関は、魔術師たちが必ず登録をし、その管理を行っている。
「だが、世界のバランスが狂った」
愛栖が話題を戻す。
「そのせいで、なにかが、どこかが動き始めたんだろ?」
「ええ」
アリスは頷く。
「バランスが崩れたと言っても、本当に些細な程度なの。だから機関は様子見、平和ボケは気にもしてない」
アリスは時折、《表の世界》のことを平和ボケと呼ぶ。身の回りで起きていることに気付かず、のうのうと生きているためだろう。しかし、そうでなくては困るのだ。基盤となっている世界が、混乱すればすべての世界に影響が及んでしまう。それこそ、「終焉の厄災」のときのようになってしまう。
「そもそも姫ノ宮学園は《狭間》側の組織であって、その事後処理をするのは、私たちであるのが当然。機関が様子見をしているのは、下手に異能力者と争いたくないから――と言ってもいいんだけど、本音は姉さんと争いたくないから」
「あいつ一人で充分過ぎる戦力だもんな」
「だけど、不穏な影があると噂されているわ。近日中にこちらに侵入し、この崩れたバランスを利用して、《表》と《裏》の逆転を狙おうとしている魔術師がいる」
「姫ノ宮学園はどちらかと言えば、《裏》寄りの組織だったからな。しかし世界のバランスを利用する魔術師となると、厄介な部類だな。相当な手練れ、もしくは追及者か」
「機関は、もしもそのような者が現れた場合こちらで処理をして構わないと言ってる。だから、それを湊に任せようと思う」
「魔術師と戦わせるのか?」
「ええ。それが湊へのペナルティ」
アリスの視線が冷たく、そして鋭くなる。
「断るとなれば、姫ノ宮の生き残りを始末する。彼女たちは重要な情報源だけど、その重要性は高くない。世界に比べれば、あまりにも小さい」
「選択肢はないんだな」
「勘違いしないで。これは依頼じゃなくて、命令なの。そうね……、なんなら生き残りを連れて行ってもいいわ。魔術師との戦いに慣れているんでしょ? あとはそう、所員も彼らが了解するのなら同行を許しましょう」
それは月宮に単身で向かわせるようにしているだけだ。姫ノ宮の彼女たちを、戦いの場に戻すことを彼は許さないだろうし、ここの所員が月宮の頼みを聞き入れるはずがない。
ペナルティ。その言葉は正しい。
「わかった。つまり、魔術師が来たときの処理を月宮に任せるってことを伝えればいいんだな」
「そういうことよ。ちゃんと命令だってことを言っておいてね。湊はさらに普通の高校生として過ごすことができなくなったわね」
「まあ、魔術師が来ればな」
「来るわよ」
アリスが即答する。
「姉さんが断言したのだから、間違いない」
「……そうか」
さてと、とアリスはテーブルに無造作に置かれた資料を片付け始める。丁寧にファイルに戻し、棚へとしまう。彼女の綺麗好きは今に始まったことではなく、そのおかげなのか事務所内は整理が行き届いている。片づけをしている姿はよく見たのだが、不思議なことに掃除をしている姿は見たことがない。
愛栖がポケットから煙草を取り出しているときに、アリスが思い出したように言う。
「愛子が動くのはその件を伝えることと、あとは湊が死んだときだから。念のために準備はしておいてね。準備を怠って死なれたら、姉さんが悲しむわ」
愛栖はその言葉に返事を返さなかった。