1 終わりの少女
あの日から一週間が経った。
先日退院したばかりの月宮が久しぶりに学校へ行くと、愛栖に、教室ではなく応接室へ行くように言われた。月宮はすっかり忘れていたが、処理すべきことが山ほど残っているのだ。姫ノ宮学園のことは、まだ続いている。
そんな大事なことを忘れてしまうほど、入院生活は激動のものだった。秋雨に勉強をさせて、見舞いに来たクラスメイトたちからは根掘り葉掘り事情を訊かれ、適当に事実を捻じ曲げ、上手く誤魔化した。
一日たりとも、まともに休養などできなかった。秋雨はこちらから来るように言ってあるものの、なぜかクラスメイトが必ず二人か三人付き添っていた。しかも秋雨に勉強を教えている横で、夏休みをいかにして楽しむか議論するなど、たちの悪い嫌がらせをするだけして帰っていくのだ。
しかし、月宮の病室への訪問者はこれだけに留まらない。愛栖も何度か来たのだが、ゲームの進行が手詰まりになっただの、教頭の小言がうるさいだの、月宮をサンドバッグかなにかと勘違いしているのではないかと思わせるほど、話すだけ話して帰っていくなんてこともあった。
月宮の病室は、ただの溜まり場と化していたのだ。
看護師たちに何度謝ったことか。
個室で本当によかったと思う。
もちろん、月宮が費用を払っているわけだが。
月宮は黒い革製のソファの背もたれに体を預けた。初めて座ったこともあってか、少し感触に違和感があった。
応接室は、通常の教室とは違った空気を持っていた。外の音があまり聞こえてこないのもそうだが、どこか厳かな雰囲気がある。
月宮の座っているソファは、部屋の中央にある足の短い長テーブルを挟んだ二つのソファの内、廊下側の扉から見て右側である。テーブルには、ガラス製の灰皿が一つ置かれているだけだ。
クーラーが効いていて、居心地はよかった。
扉がノックされる。
「失礼しまーす!」
扉を開け、部屋に入ってきたのは、如月、長月、そして日神だった。彼女たちと会うのは一週間ぶりで、全員の顔色が良くて月宮は安心した。
如月は月宮を見つけると、テーブルを飛び越え、月宮の隣に軽やかに座った。
「つっきー、久しぶり! 体の方は大丈夫なの? 結構長い間入院してたんでしょ?」
「大丈夫じゃなかったら、退院してないと思う」
「それもそうだね!」
如月は楽しそうに笑った。
日神と長月は、もう一つのソファに腰掛けた。日神は如月を見て嬉しそうだが、長月は相変わらず無表情……ではなく、呆れ切った顔をしていた。
「如月も大丈夫か?」
「退院してるからね」
「嘘はいけません、トモ」
長月が言った。
「当分の間は、過度な行動を取ることを禁止されているはずですよ」
「なんでつっきーを心配させるようなことを言うかなぁ……。ここは嘘でも、元気になったって言うべきところだよ。ね、はーちゃん」
「私は正直に言うべきだと思うよ」日神は優しい声で言った。
「むう……」
如月は頬を膨らませる。
「まあ、なんでもいいさ」
月宮は言う。
「こうして学校に来られるんなら重畳だろ。よかったな」
「そのことで、私たちはあなたにお礼を言わなければなりません。あなたのおかげで、私たちはこの学校に通うことになりました。どんな方法を使ったのかはわかりませんが、感謝しています」
「ありがとね、つっきー」
「ありがとうございます」
と日神。
「クラスはもう決まったのか?」
「全員、あなたと同じクラスに配属です」
同じクラスということは、愛栖が手回しをしたのだろう。なんとしても月宮に世話をさせたいのか、あるいはそれを含め、一クラスにまとまっていた方が管理しやすいからという理由もあるに違いない。
「そうか。これからよろしくな」
三人は頷いた。
これから日神たちは、彼女たちが望んだ生活を送ることができるのだ。これまでの異常な日常ではなく、ありふれた日常を送れる。なにもかもが新鮮な体験になることだろう。姫ノ宮学園という特異な場所で行われたすべてのことが、彼女たちにとっての常識なのだから、最初は戸惑うこともあるかもしれない。
少しずつ、一歩ずつ適応していけばいい。
日神たちにはその時間がある。
生き残って勝ち取った、仲間との時間が。
始業を知らせる鐘が鳴った。
「あーあ、もう教室に行かないと」
如月が残念そうに言った。
「トモが呑気に歩いていたからですよ」
長月がすかさず言う。
「私とハルが、時間がなくなるとあれほど注意を促していたのに」
「残念。でも、話すことなんていつでもできるもんね。いつでもできるようになったんだもんね」
「そうです。だから今は教室に戻るべきです。転入初日から授業に遅刻するわけにはいきません」
「でも、もう授業始まってるんだよねー」
「それでも戻るべきです。月宮湊はどうするんですか?」
「俺はまだ少しやることが残ってるんだ。日神には手伝ってもらおうと思うけど、大丈夫か?」
「私は構いませんよ」
日神は微笑んだ。
「では、私とトモはこれで」
長月は立ち上がると、引き摺るように如月を連れて、応接室を出て行く。如月は終始抵抗していたが、本調子ではない彼女には、長月の手を振りほどくことはできないようだった。
「それで私はなにをお手伝いすればいいんですか?」
月宮は答えない。ただ日神を見ているだけだ。
「月宮さん? 大丈夫ですか?」
「本当に似てるな。いや、こっちが本物なんだけど」
「なにを言ってるんですか?」
「俺はお前を知らない――お前は俺の知っている日神ハルじゃない」
「なんの冗談ですか?」
日神は笑った。
「月宮さんの部屋でお話しをしたことも、その日の昼食をご一緒したことも忘れてしまったんですか?」
「憶えてる――全部憶えてる。だからこそ、お前はあのときの日神じゃない」
月宮は思い出す。月宮の部屋の前に倒れていた少女を、姫ノ宮学園から逃げ出したと告げた少女を、一緒に昼食を食べたあの少女のことを、明確に、鮮明に憶えていた。
間違えるはずがなかった。
月宮は彼女から依頼を受けたのだ。依頼人を忘れるようなことはない。
「では、私は誰ですか?」
日神は楽しそうに訊ねた。
「私が日神ハルでないとするなら、私はいったいどこの誰なのでしょう」
「俺は、あのときの日神がお前じゃないと言っただけだ」
月宮はハッキリと言う。そこに疑惑の念はない。自分の答えが正しいと揺るがない。
「お前が本当の日神ハルだ。そして、あのときの『日神ハル』は水無月ジュンだな」
「理由はなんです?」
「お前だけで姫ノ宮学園を脱出するのは不可能だからだ」
月宮は今回、日神を除き、三人の姫ノ宮学園の生徒に出会った。自分の身の丈以上のハンマーを振るう者、魔術師にも劣らない技術を持つ者、そしておそらく今の月宮では勝つことのできない領域にいる者。その全員が一筋縄でいかない実力者だった。
出会ってはいないが、他にも九人、日神を守るために集められた者たちがいる。なんの力も持たない、しかしあらゆる器になる素質を持っている日神を狙う魔術師と戦えるだけの実力者たち。そんな彼女たちから、日神が逃げ切れるわけがない。
誰かの手を借りない限りは、絶対にできない。
「これから話すことはただの推測にすぎない」
月宮は語る。
「お前たちは、姫ノ宮の計画を潰すために、作戦を立てた。鍵となる日神が計画当日にいなくなる――そんな作戦を立て、実行した」
日神は黙って聞いていた。
その顔はどこか楽しそうであり、嬉しそうでもあった。
「最初にやったことは、姫ノ宮の計画通りに生贄を殺害すること。これにより、水無月は姫ノ宮学園からは絶大な信頼を得られる。自分を《終焉の厄災》の復活を待ち望んでいる信仰者に見せた。そしてそれと同時に、日神を助ける上で邪魔になりそうな者たちを排除していった。十一人の中で、日神よりも《終焉の厄災》の優先度が大きい者たちを、計画を実行しているかのように殺した。
残ったのは、如月、長月、皐月の三人。この三人を残したのにも理由がある。この三人ならば、日神ハルが逃走したと聞けば、姫ノ宮学園に反旗を翻してくれるはずだと考えたからだ。日神を連れ戻すために姫ノ宮学園の外に出られることになれば、如月たちなら日神を見つけ次第、この街から離れてくれる。そんな作戦を立てると読んだ。最終的には、如月たちとも逃げるつもりだったんだろうな。
入れ替わりをしたのは、万が一、姫ノ宮学園が外部の人間を雇った場合でも対処できるようにだ。それに日神本人を一人で街を歩かせるわけにはいかない。お前はその日が終えるまで、姫ノ宮学園のどこかに隠れていたんだろう。そこが一番危険だが、同時に一番安全な場所だからな。姫ノ宮は日神が街に出て行ったと勘違いをしているんだから。
そうやって時間を稼いで、どんな場合でも対処できるようにして、お前たちの計画はほぼ完璧だった」
水無月ジュンを拾ったのではなく、拾わされたのだ。月宮は自分に似ている者を放っておくことができない。星咲夜空にしろ、水無月ジュンにしろ、自然と関わっていこうとする。
そして同時に、酷く彼らを嫌悪している。自分に似ている彼らが、気持ち悪くて仕方がないという感情もあった。だからこそ、記憶が曖昧なのだろう。疲労で頭が回らない月宮は水無月と接触したが、本能的な部分ではそれを拒絶していた。その兆候として、月宮は水無月を一旦は家に入れなかった。
どこまでが計算だったのか。
どこまで月宮の周辺環境を把握していたのか。
月宮を狙っていたのは、星咲だ。当然、初段階の計画は彼が組んだものだろう。不自然に、けれど強制的に、参加させるため。
日神は瞼を閉じていた。あくまで聞く立場でい続けようとしているのだろう。
月宮は構わず、続ける。
「だが、お前たちの中には不確定要素、危険因子が存在した。それが星咲。星咲は、お前と水無月に姫ノ宮学園の行おうとしている魔術の概要を教え、作戦の細かい部分を埋めて完全に近づけた。お前たちにとって魔術の情報はこれ以上ないほどの欲しいものだった。
だが、当然条件を突き付けられた。それが俺、月宮湊をこの姫ノ宮学園の一連の計画に巻き込ませること。水無月もお前も困惑しただろう。だけど、星咲の力添えでできあがった作戦は魅力的だった。
日神と水無月には足りない魔術の知識が星咲にはあった。
これ以上ないほどの完全な計画。だから、お前たちは了承した」
月宮は休息のために、間を開けた。
時計の針の動く音だけが、室内に響き渡る。
「ここまでが、お前の知っていることだな。お前がどこかに隠れる前に知っていたことすべてだ」
「そうですね。ほとんど正解です」
日神は瞼を開き、月宮を見た。
「間違っている個所を直したとしても、筋道は通っていますから問題はありません。よくわかりましたね。どこかで私たちはミスをしましたか?」
「ほんの些細なことだ。水無月が俺に依頼したとき、『日神ハルを助けてください』って言ったんだ。『私』と言えばいいのに、『日神ハル』と名乗ったのが少しひっかかった」
「別におかしくはないですよね」
「この時点では、俺も気のせいくらいにしか思ってない。だけど水無月の作り話を聞いたとき、その違和感が増した。これは水無月が、俺と長月が接触したことを知らなかったせいでもあるんだけどな。長月と会ったからこそ、日神が姫ノ宮学園から逃げ出すのは無理なんじゃないかと漠然と考え始めた」
「なるほど。トモたちを侮っていました。そんなつもりはなかったんですけど」
「それだけ、如月たちも本気だったんだろ。それで極めつけは――というかほとんど答えなんだけど、水無月に直接『ハルをよろしく頼む』って言われた」
そう囁き、微笑んだ水無月を忘れることはできない。
その笑顔は、月宮の知っている日神ハルだった。
あれが日神の――水無月の本当の笑顔。
「そうですか……。ジュンにしては珍しく感情的になれる、信頼をおける相手だったんですね。じゃあ、もしかしたら『彼女』もあなたと気が合うかもしれません」
日神は自分の胸に手を当てて言った。
「彼女?」
突然、今までとは違う雰囲気が日神から感じられた。そして月宮はそれを知っている。
「僕は日神ハルであり、日神ハルではない」
「水無月ジュン……」
その空気はまさに水無月ジュンそのものだった。
あのとき、あの場所で顔を合わせたあの少女が目の前にいた。もうそこに日神を感じられないほどに本人そのものである。もともと顔が似ていることもあるのだろう。
だがそれでもここまで「なれる」とは。
「それは正しいが、正しくない。僕は彼女が作りだした、水無月ジュンをベースとした人格。たしかに雰囲気などは似ているかもしれない。けれど同じじゃない」
「なんのために、作られたんだ」
「日神ハルを理解するために」
日神は続ける。
「簡単に言えば、自分を客観的に見たかったから作った。別の視点で自分を語れる自分が欲しかった。水無月ジュンが選ばれたのは、日神ハルに近い存在だったから。お前も少し似ているな、水無月に」
「今回の計画は、お前が作ったのか」
「僕は少し手伝ったくらいで、ほとんどは彼女が作った」
「水無月が死ななくて済む方法もあったんじゃないのか?」
「ない。元より、水無月ジュンを含めた十二人を生かす理由はない。彼女たちは姫ノ宮学園だ。日神ハルを縛る存在となる。彼女はそれをどうしようもなく理解していた。自分を愛してくれる人たちのその愛が、彼女から自由を奪ってしまうことを」
「だが、如月たちは生き残った」
「『水無月ジュン』がそうすべきだと判断したんだろう。たとえ日神ハルの考えに反していても、残すべきだと考えた」
そう言われて、月宮は自分の推測が「水無月ジュン」の存在ありきだということに気付いた。水無月ジュンは、月宮にこの会合をさせたかったのだろう。だからこそ、ヒントをわざと与えていたのだ。おそらく、月宮が気付いていないだけで、ヒントはもっとあったのかもしれない。
日神の掌の上の、水無月の作ったレールを、月宮は辿ったに過ぎなかった。
「どうしても生きたかったのか? 多くの犠牲を出すことがわかっていても、友人を殺すことになってまでも」
「変なことを訊くんだな」
日神は笑った。
「当たり前だ。それが人間――生物として本能なんだ。それに、他人に自分の死ぬ日を決められるのは、気分が悪い」
「そうだな……。そうかもしれない」
「お前としては、水無月ジュンを失ったのは残念なんじゃないか?」
月宮は答えなかった。答える必要がないからだ。
日神は微笑んだ。月宮が答えなくともその答えを知っているからだ。
「もうすぐ彼女が目を覚ます。僕は必要なくなるだろうな。たぶん心のどこかにしまいこまれてしまう。そうしないと彼女が『普通』を手にすることはできない」
「どういうことだ?」
「日神ハルは、準備をしているんだ。普通の人間として、普通の生活を送れるようにな。彼女は姫ノ宮学園以外の生活を知らない。それに適応するために、今は眠っている。目覚めたときには、自分が首謀者であることは忘れているはずだ」
人格の再構築を行っているからこそ、水無月ジュンが介入できたのだろう。「日神ハル」が残っていたのなら如月たちは生かしていなかったはずだ。水無月も彼女の意志に従うしかなかった。
それがよかったのかどうかは、月宮にはわからない。
あくまで彼女たちの問題だ。
「だから、お前に彼女を頼もうと思う」
「ああ、わかった」
月宮は頷いた。それが水無月ジュンとの約束だからだ。
「何人だ?」
日神はいきなりそう尋ねた。
月宮は一瞬わからなかったが、日神が自分の手を胸に添えていることで理解した。
「三人……いや、四人か」
日神は満足気に微笑んだ。月宮の答えに満足したようだった。
「可ですね。ああ……、もうすぐ僕が眠る時間のようですね」
日神の雰囲気が徐々に変わっていく。
「彼女はきっとあなたを気にいると思います」
「少なくとも、俺は自分を理解するために、別の人格を作ろうとは思わないけどな」
月宮はテストに対するささやかな反撃をした。
「思考パターンが似ているようですし、話も合いそうです。覚悟しておいてくださいね。この子、小悪魔的ですから」
日神は唇に人差し指を当て、片眼を瞑って見せた。
「小悪魔的、ね」
だったら、本当の日神は悪魔そのものだ、と月宮は思ったが、口には出さなかった。どの日神も「日神ハル」なのだ。違う人格なのかもしれないが、どんなに人格を作り出したとしても日神ハルに変わりない。
結局、この一連の騒動は、彼女一人の掌の上で、多くの人間が踊っていただけなのだ。特に姫ノ宮学園の人間は、踊り狂わされ、そしてその命を失っていった。たった一人の少女の前に魔術師も、権力者も、実力者も、どうすることもできなかった。
悪魔染みた思考をする日神。
その傍に居続けている如月と長月。
望んだ世界に出られた彼女たちは、これからなにを望むのだろう。荒んだ世界に生き、閉鎖された世界に生きてきた彼女たち。
もしここが望んだ世界でなければ、どうするのだろうか。
そしたらどこへ行くのか。
(どこへ?)
月宮は、水無月と交わした約束を思い出した。日神ハルを助け出したのなら、みんなで遊びに行こうと約束していた。水無月との約束だったのだが、彼女はもういない。そのことはいつまでも悔やんではいられないのだ。
それに水無月は、日神ハルの幸せを願っているに違いない。水無月がそう望んでいるのなら、月宮がそれを叶えない理由はどこにもない。
ふと、月宮の脳裏になにかが過ぎった。
まだ間に合うだろうか。
「お前は、誰なんだ」
月宮は日神にいうのでもなく呟いた。
「――優」
日神の嬉しそうな声が聞こえた。
期末試験が終われば、夏休みだ。
さて、どこへ行こうか。