5 報復邁往
世界のどこかに建つ屋敷。最上階から覗いても見渡すかぎり自然しかない。外界を拒絶するためにこの場所が選ばれたのだろうか。誰がどんな理由で建てたのかは不明だが利便性を考えたものではないのはたしかだ。
しかしその利便性も“彼”の存在で解消されている。
どこに建築された屋敷だろうが、彼にとってはどこでも変わらない。
だからこそ世界のどこかにあってもこうして辿り着けている。
静寂に満たされた屋敷内を歩いていく。絨毯のせいか足音も響かない。かなり年季が入っているように見えるが、良い代物だったことがわかる。日が出ているため、壁の燭台は眠っていた。
階下に辿り着くと賑やかな声が微かに聞こえ始める。
静かに過ごせていたあの頃が懐かしい、と木製の両開き扉の前で肩を竦めた。この屋敷では玄関扉の次に大きな扉だ。くすんだ金色のドアノブに手をかけて捻り押すと蝶番の擦れる音が響いた。
「おはよう、ヴォルクくん」
この屋敷の主である星咲夜空だけがヴォルク・ルドファインに声をかけた。挨拶をする間柄でもないことは彼が一番理解しているのになぜだか挨拶を欠かさない。ヴォルクは一瞥だけして、誰からも一番離れている席に着いた。
食堂にいるのは星咲、リノ、リース、花火の四人だ。全員食事を済ませた直後のようで、空いた皿がテーブルに並べられたままだ。
「コーヒーでいいよね?」と星咲。
ヴォルクの返答を待たず、銀色の人形がカップにコーヒーを注ぎ、彼の前に物音を立てずに置いた。役目を終えた人形は砂城のように崩れて消えた。
ヴォルクがカップに手を伸ばそうとしたとき、リースが呼び止めた。
「ヴォルクさんよぉ。いつまでこうしてるわけ? こちとら隠居生活がしたいわけじゃないんですけどぉ?」
「リースちゃんの顔が綺麗になるまでヴォルクくんは待ってくれてたんだよ。もしかしてあんな顔で外に出たかったの? ごめんね、待たせちゃって」
リノの発言に花火が大きな声を出して笑った。椅子の脚が浮くほど傾いている。どうやらリースが回収された直後の顔を思い出しているようだ。星咲によって回収されたとき、彼女の頬は酷く腫れ上がっていた。必要な駒であるため魔術によって簡易的に治癒を施されたが、自然治癒の方が良いとしばらくは顔にその痕が残ったままだった。
リースは舌打ちをして、痕のあった頬に手を添えた。
「ったく、普通美人の顔を殴るか? おかしいんだよ、あいつら」
「性格美人じゃないから殴りやすいんだよ」
「あぁん?」
花火とリースが開戦間近だが、ヴォルクは構わずコーヒーを飲んだ。花火という少女は場を掻き乱すことに悦びを感じている節がある。そこにたしかな実力が備わっているから質の悪さは折り紙付きだ。先の作戦でもあの愛栖愛子の足止めを担うほどだ。
開戦したところでどちらが勝つかは明白である。
が、それも《欠片の力》が使えるならばの話だが。
この屋敷では“ほとんど”《欠片の力》が使えない。常に使えないわけじゃない。敵意や悪意、殺意はもちろんだが、相手に害を加える可能性があればその瞬間に行使不可となる。この屋敷が原型を留められているのはこの制約のために他ならない。
ヴォルクの視線に気づいた星咲が優しく微笑む。
底が見えない。
得体が知れない。
だからこそ付き従っているが、
だからこそ切り時がわからない。
彼の指示に従うことに躊躇いはない。その力だけは信頼が置ける。現にヴォルクの目的に近付きつつある。
この世界のリセットに――。
「とにかくよぉ、そろそろ本格的にリセットしてくれねえかな」リースは髪を払った。「私がモテない世界なんて滅んでいいだろ。早くモテる世界にしてくれ」
「あーあ、ついにモテないの世界のせいにしちゃったよ」
「自分を変えるってならないのはリースちゃんのいいところだよ」
「うるせーよ! で、どうなんだ」
この場にはいないがレオル・ハイランドを含め彼らは様々な理由で集い、そしてどんな理由であれ「世界を変えたい」という意思がある。気が逸るのも当然だろう。そのときが待ち遠しくて仕方ないのだ。
しかしヴォルク自身その問いに対する明確な答えを持ち合わせていない。おそらく答えを持ち合わせている星咲はなにも言わない。好きに言っていいということなのだろう、とヴォルクは判断した。
「計画は順調に進んでいる」
「順調とかじゃなくてよぉ、あと何日待てばいいんだって話だよ」
「現状で言えば、あと何日待とうが世界が変わることはない」
「はぁ⁉ 意味わかんねえんだけど!」
「リースちゃん、記憶も消されちゃったんだね」
リノが憐みの目をリースに向けた。
彼女の言うとおり、忘れていることがある。
「あー?」リースは腕を組んで首を傾げる。「なんだっけ」
世界を変えるのに必要なのは『力』だ。抑止力に負けない力があればあるほど終着までの道のりは楽になる。月宮の『神の力』は最たるものだ。その名に恥じぬ暴力をいま世界中で振るっている。
誰にも止めることはできない。
そう言いたいところだが、世界にはまだ抗う力が残されている。
かつて《蒼月》と対峙し、平穏を取り戻すことができた魔術師がいる。いったいどんな方法を以てして成し遂げたのかは星咲に聞いても答えが返ってこなかった。問いに対する答えはなかったが、彼はその魔術師についてこう告げた。
「それができるから『最高』が与えられているんだよ」
同じ称号を与えられている魔術師はいない。
それは他の追随を許してはいない絶対的な力の証拠だ。
ある意味でヴォルクの理想であり、そして最も忌み嫌う彼女がいるかぎり、計画は次のステージに進むことはない。
「我らは月を堕とした。ならば次は『太陽』を堕とし、世界に完全な闇をもたらす」
この世界に君臨する『最高』の魔術師を、
世界にまだ希望を与えている『烈日』を、
地に堕とし、闇を迎えてようやく、ヴォルクたちは『人間』になれるのだ。
※
その羽ばたく姿が目に映るたびに、かつての彼らの元気な姿が思い出される。笑いあったことも、時にぶつかり合ったことも、悔しいがまるで本当に彼らと対峙しているかのように浮かび上がってしまう。
エルデリットは奥歯を強く噛み締める。
仲間が希望を語ってくれるが、そう現実は甘くない。おそらく彼らは生きながらにして死んでいる。他の生物を魔術で操ることは容易でも、他の生物に魔術を使わせ、さながら人間のように思考させるなど、いまの魔術では不可能に近い。
もし仮にそれが可能だとすれば、やはり魔力の供給源である魔術師が鳥を操っている場合だろう。その鳥を複数同時に、環境の全体把握を行いながら操作し続けなければ、エルデリットたちが見ている光景にはならないが。
とはいえ、個を特定できるほどの濃い魔力が魔術の『結果』に表れるなどありはしない。
そのためこの鳥たちは『本人』だとした方が自然なのだ。方法はわからないが、魔術師の思考力と魔力を鳥たちに流し込まれている。操るだけでは動きにブレが生じる。鳥たちが魔術師そのものであるからこそ、その動きに一切の膠着が生じない。
(ああ、同胞たちよ)
撃墜した鳥は決して声をあげないが、翼をもげば鮮血を流した。
しかし翼を失うだけでは止まらない。足が残されていれば地を踏みしめ、頭があるかぎり魔術を展開する。その命が尽きるまで、使命を果たさんと動き続けた。
エルデリットは祈りを捧げる。
願わくば、彼らの魂が少しでも解放されることを。
ほんの少しでも。
「キリがありません」
同じような報告が調査隊の仲間から入ってくる。調査隊が実力不足なわけじゃない。彼らは“外での調査ができる”と認められた、危険への対抗力を持つ者たち。言ってしまえば今後の魔術機関の中心になっていける人材だ。
そんな彼らが梃子摺っているのは、鳥たちが同等の人材の力を継承しているからに他ならない。実力に差がないのならば、勝負を決めるのは運か、多くの場合は数的優位を持っている側だ。魔術で傷を癒せても、消費された魔力が戻ることはない。
そのまま撤退さえ許されず、囲われ、圧し潰されるだけだ。
たとえどんなに敵に恨み感情を力に変えようとも、それが覆る奇跡は生じえない。
ただし、奇跡ではなく『悪夢』であれば話は別だ。
魔術による激しい攻防の中、これまでとは違う振動が響き渡った。まるで分厚い鉄壁を打ち鳴らすかのような鈍く腹の底に圧し掛かる音。その異常には、鳥たちでさえ羽ばたき留まる。お互いに願った隙であるが、誰も動けない。
二度、三度とその音は続き、
やがてなにかが壊れた。
エルデリットは幸か不幸か、なにが壊れたのかを目の当たりにできた。
空間だ。
打ち鳴らされていたのは空間であり、壊れたのもまさにそれだった。なにもないはずの宙に亀裂が生じ、振動が続くたびに少しずつ流れていく。加えて傷口から血が溢れるように黒い液状の雫がそこから滴り落ち始めた。
高まった鼓動のリズムに雫の速度が追い付いたその直後、黒い液体が土石流のごとく怒涛の勢いで世界に溢れ出した。
音もなく拡がったそれはすべてを飲み込んだ。
エルデリットは“こうなる想定”をして訓練したため防御が間に合った。仲間もきっと間に合っただろう。だが、知識を継承しただけの鳥たち冒涜者は成す術もなかったようだ。それはまるで自らに取り込むかのように彼らに纏わりつき、身動きも魔術もできないままその姿は見えなくなった。
視界は黒一色。ノイズがひどく仲間とも連絡が取れない。
防御ができるといっても一時しのぎにしかならない。ただでさえ異常な濃度の魔力だというのに、止めどない奔流が一切の油断を許さない。一瞬でも気を許せば飲み込まれてしまうだろう。緊張し、擦り減らし、限界の域に達してようやく均衡を取れる。
あのときの惨劇を繰り返してはいけない。
たとえ自分が灰塵になろうとも。
その決断に応えるかのように視界が一気に晴れた。
エルデリットは目を疑った。
犠牲を覚悟したために成就した現実ではない。
どんなに過大評価をしてもエルデリットにはここまではできない。
こんなにも強大な魔力を持ち合わせてはいない。
転じて、強大な魔力を持った者ならば可能だということだ。
「仲間たちを頼むよ」
かつての教え子――キルスヴェンの姿を視認するよりも速くエルデリットは動き出していた。地面でのたうち回ることもできていない『回帰遺物』を魔術の『鎖』で貫く。続けて、砕かれた空間から押し出ようとする《蒼月》のその巨椀を鎖で縛り上げた。
十数の鎖に繋がれても止まらない《蒼月》に、さらに数十の鎖を確信とともに重ねていく。より強固に内側に圧力をかけ、強烈な金切り音が消えた同時にすべて弾け飛んだ。圧力の中心部だった場所に、かの姿はなく、砕かれた空間も元に戻っていた。
「お見事です」教え子から賞賛の言葉を受ける。「やはりおひとりの方が強いのでは? 仲間たちに“力を貸し”ていては『調和』の本領も発揮できないでしょう」
エルデリットはノイズが消えたことで仲間たちの安否を確認していた。全員に与えていた魔力が奔流を守るのに役立ってくれたようだ。
ただそれも《蒼月》の“幻影”だったからだろう。エルデリットの心に深く刻まれた恐怖が、現実に現れたそれを当時の虚像として映し出してしまい、真実を見誤ったことで必要以上に警戒してしまった。もしもキルスヴェンが現れていなければいまも幻影を見続け、悪戯に魔力を消費して仲間の命を無駄にしていたかもしれない。
その恩人に感謝せねばならないが、それよりも聞かなければならないことがあった。
「世界はどうなっているんだ?」
「最初に戻っただけです。《世界》としては、すべてを《狭間》に。ただ個の思惑はそれぞれ蠢いたままになります。機関としては《蒼月》よりもこの機に動き回っている《亡国の幻影》を追うことになりました」
瞼を閉じて天を仰ぐと、頭の中に浮かぶ景色が渦巻いた。それらはどれだけ中心に集まっても、どれだけ新たに景色が加わっても決してひとつにはならず、一色に成ることはない。混沌としている。世界は混沌としていて、思うようにはならない。
だから美しく、
だから度し難い。
「行こう。やるべきことをやるために」
※
世界に点在する力の律動を、セレスティアル・ノワルゲートは感じ取った。また世界が“分岐点”を越えたらしい。しかもそれをもたらしたのは《裏》でも《狭間》でもなく《表》だというから驚嘆してしまう。神代の技術でも取り戻したのだろうか。
だとすれば、気になるのはそれを駆使できた者の正体だ。脳裏に浮かぶのは近頃身を潜めていた者の姿。もしもそうであれば《表》はさらに前進することになるだろう。
「どうされましたか」
「世界がまた面白い方へ向かったみたいだ」
「向かわせているのはあなたなのでは?」
「私では力不足だよ」
「力不足? すでに“神の域”に達する力があるのに?」
彼の正しい疑問にセレスティアルは笑みを零さずにはいられなかった。かつての自分も力さえ備わっていれば、すべてを成せると信じていた。しかし求めていた力の先に待ち受けていたのは、それ以上の力が必要な世界だ。
お前にもいずれわかるさ、とセレスティアルは零す。
「どんなに手を伸ばしても彼らには手が届かない。それでも私たちは、彼方より遠い彼らに心を奪われるがために目指してしまうんだ。美しき空に命を掴まれていることも知らずにね」
「空……ですか」
「まずは空を探してみるといい。それがわかったとき世界の歪さと自分の無力さが理解できるよ」
そう告げられると彼は不思議そうに空を見上げた。彼の眼には当然だが空が広がっている。常にそこにあるもので探すまでもない。空とはそういうものだ。
太陽も、月も、星も。
いつもそこにある。
遥か高みに。
彼らを掴み取って大事に抱くのは無理に等しい。
だから諦めた。
だから考えた。
彼らを見下ろす方法を。
世界を覆す手段を。
たとえそのためにすべてが敵になろうともセレスティアルは歩みを止めない。人や国でも、科学や神秘でも、道を阻むのならば容赦なく薙ぎ払う。
「さあ、行こうか。混乱と混沌を感じながら」




