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悠久の世界は月のために  作者: 鳴海
第2章
178/179

4 欲求与奪

 エレベーターの扉が静かに閉まる。小さな箱に閉じ込められたはずなのに、すべてから解放されたような気がした。必要以上に背の高いビル群。取って付けたような微かな自然。決められた道筋を機械的に進む人々。その光景が楽しく、興味深く観察していたら目的地に到着する前に体力を使い果たしそうになっていた。


「はしゃぎすぎです」


 従者に注意され、ファウストは肩を竦めた。認識を阻害する魔術を使用しているとはいえ、黒いローブを纏い、フードを目深く被っているのは、あまりにもこの場所に不釣り合いだ。ひとりだけ仮装をしているようで、ファウストからすれば彼の方がはしゃいでいるように見えていた。

「ここはもう敵地なのですから、あまり羽目を外さない方がよろしいかと」

「彼女たちは敵じゃない。味方でもないがね」

 ガラス張りのエレベーターからは小さくなる階下の様子がよく見えた。ここから見える街の光景にとっても、彼女は敵でも味方でもない。行き交う人々の記憶の片隅にすら彼女の姿はない。各国のトップを思い出すことができても、彼らすら牛耳る彼女のことなど誰も知る由もないのだ。

 目的の階に辿り着いたのを知らせる音で意識を扉側に移した。従者の警戒心が少し強まったがすぐに収められた。


 扉が開く。

「なるほど。こういう出迎え方か」

 海中――それも漂う生物を見るにかなりの深度だ。しかし明るさからして深海魚がいるのは不自然でもある。つまり深海を模した映像なのだろう。ファウストは確かめるために悠々と歩き出す。水の感触はない。息もできる。思ったとおりだ。

目を落とせば、相手の意図が見て取れる。

「悪趣味だな。これを見て、心を痛めるとでも?」

「痛める心があるとは思っていません」

 声がしたから顔を上げると、頭が半透明の魚が少し離れたところで留まっていた。顔を合わせて話すつもりはないようだ。


「ただ、意味を理解できていないのは問題外です」

 意味とはなんだ、とファウストが思考を巡らせようとしたとき、背後から呻き声が上がった。振り返れば従者を何匹もの深海魚が取り囲んでいた。映像だと思っていたそれらは実体を持っていたのだ。深海を映し出しているために、そこにいる生物も映像だと思い込んでしまったのである。

 その意識の隙間を突かれたことで従者は抵抗もままならず、十秒にも満たないうちに大量の血液と微かな肉塊に変わり果てた。深海魚たちはそれらには興味を示さず、また悠々と映像の深海の中を漂い始めた。

 ファウストは向き直った。

「誰もが本当の歴史を知っているとはかぎらないだろうに」

「真実ならば知るべきではないですか?」

「何事も知るべき時期があるのさ。知る側に準備ができていなければ、戯言だと妄言だと切り捨てられるだけだ。たとえそれが俺の口からであってもな」

「信用がないのですね」

「歴史の厚みに勝つのは難しいんだよ」


 さて、とファウストは声の主について考え始める。加工されているため男女の判別はつかないが、間違いなくアトラスではないだろう。あの女がこんな丁寧に話せるはずがない。こんな生易しい対応をするわけがない。彼女ならばエレベーターから降りた瞬間に攻撃していただろう。だからこそ読みやすいのだが。

「本題に入ろう。各《世界》がそれぞれの目的で《蒼月》を追っている最中だが――俺たちは手を引くことにした」

「……だから攻撃をやめろと?」

 ほんの少し空いた間が眉をひそめさせたが、ファウストは構わず続けた。

「話が早くて助かる。そのまま『はい、わかりました』と首を縦に振ってくれるともっと助かる。これ以上被害が出ても得はひとつもないだろう?」

 お互いに、と最後に付け加えた。

 どの世界にしても代表者はいるものの、誰もがそれに従うはずもない。ミゼット・サイガスタなどが記憶に新しい。彼にしても魔術の深淵に近づいている者ほど我が強く、己でさえその探求心をコントロールできない。

 復讐心ならば尚更だろう。それに歴史の厚みなどは意味を成さない。時が経つほどに多くの薪をくべて炎を大きくすることはできる。しかし小さな炎でも集まれば匹敵してしまうものだ。いままさに魔術師たちの心に灯り始めていた。

 そのことに彼女たちが気付かないはずがない。復讐されることを覚悟の上だろう。それでも《蒼月》を勝ち取ろうとしている。あるいは反対なのかもしれない。《蒼月》を得るためならば復讐は問わないのではなく、復讐されるために《蒼月》に関わっている。前者と後者でわかるのは《表の世界》の目的だけではない。


 誰が指揮ブレインとなっているかだ。


 ファウストの知る彼女がどちらかなど考えるまでもない。


「そういう認識であるのならば、こちらが手を引くことはありません」

「なに?」

「こちらは魔術師たちに攻撃しているつもりはありません。必要だから採取しているだけです。たしかに結果として魔術師たちが死に至ってはいますが、それはあくまで結果としてです。殺意を持って危害を加えたのではありません。もしもそのことについて、深く悲しんでいる人たちがいるのならば、心から謝罪を申し上げます」

 ですが、とその声は続ける。

「魔術師としては本望だと思いますが。研究のために人生をかけた彼らが、まさしく研究のためにその身と命を捧げることになったのですから」

 ファウストは心の底から従者がいない現状を安堵した。こんなことを聞けば魔術師たちのはらわたは煮えくり返っていたことだろう。ならばこちらも、と不毛な争いを仕掛けていたに違いない。


 そして不毛なのはこの会話もそうだ。進展がない。これ以上続けたところで時間が無駄に浪費されるだけだ。伝えるべきことは伝え、この相手ならば誤ることなく伝わっているだろうと思い、ファウストはこの場を去ることに決めた。

「たしかにな。遅かれ早かれ死ぬのはたしかだ。死に方を決められる人間っていうのは意外と少ない。天寿を全うすることが果たして正しい死であるかも定かではないしな」

「そうですね。命がある以上、いついかなるときも死を覚悟しておかなければなりません」

「お前はは覚悟しているのか?」

「あなたはしていませんね」

「覚悟する必要がない。ここまでお膳立てをしてもらって悪いが、俺たちはお前たちを脅威だと思っていない。取るに足らないんだよ。正直に言ってやろうか? 俺たちは別にやめてくださいと懇願しているわけじゃない。かまってアピールがしんどいからやめろと言っているんだ。そんなに遠い昔のお仲間のことを考えてしまうなら、同じところに送ってもいいんだぞ」


 一瞬のことだった。目の前で声を発していた魚の透明な頭部が輝きと共に膨らみ出し、それに呼応するように周囲にいた深海魚たちも膨張を始め、二倍以上の大きさになったところで視界は閃光によって白く染め上げられた。

 身を焦がすほどの熱。

 身を砕くほどの衝撃。

 建物そのものが崩壊していく様を、しかしファウストは余すところなく“認識”していた。渦中にいながらも、身を焦がすことなく、身を砕かれることなく、ありのままを受け入れてなお、命を落とすことがなかった。この程度のことで死を受け入れることができるはずもない。

 とはいえ、重力に逆らえたわけではないため、背中から地面に叩き付けられた。天を仰ぐ間もなく降り注ぐ瓦礫を払い除けながら立ち上がり、舞い上がる土埃に顔をしかめる。スーツの汚れを払いながら、足もとの瓦礫を蹴り上げた。


「おい、いつまで寝てるんだ。帰るぞ」

 眠るように閉じていた従者の瞼がぱちりと開いた。顔以外が瓦礫に埋もれている姿は、まるで砂浜に埋められた阿呆のようである。

「え、あれ? 生きてる?」

「俺といて、簡単に死ねると思うな。まあ、死んでも働いてもらうが」

 自分の力で出てこいよ、とファウストは歩みを始める。遠くの方からサイレンの音が響いていた。この事態の責任を負わされる誰かを不憫だと思った。

「まだまだ死にそうにないな――お互いに」


     ※


 殺そうとしたファウストと、殺したはずのその従者の姿を捉えた監視カメラの映像を、アトラスは焼き付けるように凝視していた。一分が過ぎたころ、ようやくその目を離す。

「勝手な真似をしてすまなかったな」

 起爆のスイッチを押したことは別段大きな問題ではなかった。言ってしまえば支障がない。そのことで問題があり、支障が出てしまうのであれば、初めから起爆できるようにはしていない。

 アトラスがそうすることは予測済みだ。

 ファウストがそう仕掛けることは想定済みだ。

「なにか変わりましたか?」

「変わらんさ」


 しかしその横顔はどこか憑き物が落ちたかのような、あるいは心の整理がついたかのような顔をしていた。たった一度だが、それでも初めて手を下したのだ。肥大した感情が削ぎ落ちても仕方がない。もとよりそれは月日が経つに連れて膨れ上がった幻覚のような使命感であり、いまだ成し遂げられていない、成し遂げる方法が見出せないといったフラストレーションだ。脈々と受け継がれてきたが故に、あまりにも簡単に砕ける。彼女の一族にとっての悲願かもしれないが、彼女にとっての本当の悲願ではなかった。

 もう少しその感情を利用するつもりだったが、幾分か前倒しになってしまった。とはいえすでに最低限の準備は整っている。ここでアトラスの力を失っても問題はない。あとは計画を終えたあとに技術を提供すればいいだけだ。

「あとは好きにやってくれ」

「ありがとうございます」

「ただ、終わったらすべて置いて行けよ?」

「わかっています。最初に約束したとおりに」


 これで計画を邪魔できる者はほとんどいなくなった。ファウストがどう転ぶかが気がかりだったが、都合よく離れていった。願うや祈ることは無意味だ。だからどんな道を辿ろうとも必ず目的を果たせるよう準備をしてきた。過去の遺物を使い、感情を揺さぶり、心の隙間に付け入った。それらには人手と多くの情報が必要であり、ファウストを動かすだけのそれらをまだ集めきれていなかったのだ。

 彼を動かすには、いまこの世界に存在する三つの不確定要素の力に頼らざるをえない。

 ひとつは《蒼月》。

 もうひとつは《亡国の幻燈》。

 今回ファウストが《表の世界》から手を引いたのは後者の動きがあったからだ。《蒼月》が《狭間の世界》のガン細胞ならば、《亡国の幻燈》は《裏の世界》のそれだ。彼らは秘匿されるべき神秘を貪る者たちなのだから、放っておくことなどできるはずもない。

 これで《蒼月》を手に入れる可能性は大きく高まった。


 残る不確定要素はひとつ――ひとり。


 あの黒い魔術師だけ。


     ※


 アナトリア姉妹は身を寄せ合いながら帰ってこない主を待ち続けていた。二人して語らうのは部屋の主のこと、自分たちの後悔だ。彼から目を離してはいけなかった。その身体を縛り付けておくべきだった。わかっていたのに、そうできなかった。なぜできなかったのは二人とも理解している。自分たちが弱く、脆いために、彼との関係が壊れてしまうのが怖かったからだ。拒絶されるのを恐れ、従うことを選んでしまった。


 部屋に残されたのは面影だけ。


 温もりはもうどこかに溶けて消えていた。


 どこまで消えてしまうのか。


 二人はただお互いの腕に爪を食い込ませる。温もりが消えたいま、痛みだけが彼との唯一の繋がりだからだ。痛みを感じている間は、出会ったときの記憶が蘇り続ける。その記憶が面影を保ち続けた。


「痛いね」「痛いね」「苦しいね」「苦しいね」「寂しいね」「寂しいね」「これからどうしよう」「これからどうする?」「お兄ちゃんを見つけよう」「どこにいるの」「どこかにいるよ」「また邪魔されるよ」「邪魔なんかさせないよ」「どうやって?」「邪魔する人はみんな殺しちゃお」「殺したら怒られるよ」「お兄ちゃんに怒られたい」「怒られるために殺そう」「でもきっとそれだけじゃだめなんだ」「殺したいと思ったらあのときと同じだもんね」「お兄ちゃんに会いたい」「お兄ちゃんに会いたい」「この気持ちをみんなにわかってもらおう」「わかってもらうために傷つけよう」「傷つけ合いがわかり合うことだもんね」「そう教わったもんね」「わかり合いたいって気持ちは悪くないもんね」「敵意でも殺意でもない」「次は邪魔されないよ」「ただわかり合いたいだけなんだ」


 だから邪魔する者はすべて殺そう。


 アナトリア姉妹はいつもそうだった。


 痛みと傷の先に、求める愛があった。


 痛みと傷の先にしか求められる愛はなかった。

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