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悠久の世界は月のために  作者: 鳴海
第1章
174/179

10 災月不待 - 10

 キルスヴェンの部下はその光景に驚きを隠せなかった。自分の感覚を疑い、緊張のあまり幻覚を見ているのではないかと思ったほどだ。


「――対象を確認。すまないが、発見が遅れた」

 全員からの返答がそれぞれあったが、誰もが同じ反応をしていた。当然だ。仲間たちと共に魔術による広範囲の監視をしていたはずなのに、その存在を確認できたのはたったいまのことだった。


 いつからだ、という自問に返ってくる自答は、ずっといた、である。あれを認識できなかったのは『現在の記憶』であり、辿った『過去の記憶』には鮮明に映し出されている。理解できない。肉眼でも、レンズを通しても、魔術を展開しても、そこにいるものを認識できないなどあるというのか。

(キルスヴェン様……)


 無事に戻ってくると信じているが、最悪の想像は静かにそれを押し潰していく。


     ※


 受けた衝撃の反面、身体に痛みはなかった。黒球はたしかに充垣の身体を貫いたが、それよりもすり抜けたといった印象だった。しかしなにも起きなかったわけじゃない。身体には黒い痕が残されている。触れても変化はない。

 不安を煽られ、思考が乱される。

 充垣は短いが、思いっきり息を吐き出した。余計なことだと決めつけることで集中力を取り戻す。


 現れた《蒼月》を視界に捉える。本体から伸ばされた触手が五本。そのうち二本は先端が割れ、そこから黒球が放たれている。そして残りの三本で移動をしている。その姿はまるで操り人形だ。本体は吊るされた人形のように自ら動こうとはしない。意思を持っているのが触手みたいである。

 咎波から聞いていた情報とは違うが、しかし同時に正しくもあった。

「もしかしたら、きみたちの前に現れる《蒼月》は、僕の知らない別のなにかに変化しているかもしれない」

 充垣は、これ以前の《蒼月》と出会ってなくてよかった、と心から思った。情報と実物によるものよりも確かな乖離を感じていたに違いない。あるいは咎波のように何度も対峙している者であれば、それすら抱かなくなっているのだろうか。


 ひとつ言えることは、目の前に世界の脅威が現れたとしても臆することなく立ち向かう者はいる。

 ひとりは無邪気に。

 ひとりは涼やかに。

 二人とも、目を凝らしてようやく軌道を追える速さで動き続けている。しかしそれでも近づこうと試みている段階で止まっていた。《蒼月》の動きが予測できないためだろう。三つの触手によって空間を自在に移動している。実に形容しがたい。本体の状態を気にしたい様は怖気が走る。見ているだけで、こっちが壊れそうだ。

 心の底が掻き乱される。


 だが、充垣はその感覚に疑問を抱いた。本体と勝手に言っているだけで触手が本体かもしれない。いま本体と称している部分はただ蒼い双眸があるだけの黒い影だというのに、それが操られているように見えるだけで覚える不快感はどこから来るというのか。

 突然、充垣の思考は無意識に切り替えられた。琴音の視線が充垣に向けられていた。なぜ気付けたのかはわからない。その一瞬だけ時間が切り取られたかのようで、間違いなく彼女の瞳を捉えられていた。


(なんでこっち見てんだ?)


 充垣を心配して、などということは最初に棄却される可能性だ。琴音が他人の心配をするはずがない。そんなぬるい甘さを彼女が持ち合わせているはずがない。

 刹那、さらに理解できないことが起きる。


 蒼い月がひとつ欠けた。


 攻めあぐねていたと思っていた琴音は瞬く間のうちに《蒼月》との距離を詰め、その手で蒼い双眸のうちのひとつを消し去った。欠けた個所には黒よりも深い黒が刻まれ、どこかに繋がる穴のようである。

 そして息をつく間もなく、ふわりと充垣の横に現れる。過程がまったく想像できない。あれだけの攻撃を掻い潜ってきたのに、やはりそのローブに汚れも傷もない。

 ただその顔に、一筋の汗が流れていた。


「行きなさい」琴音は充垣を一瞥して、欲しかった説明をする。「私があれの力を『虚無』で削り続けているから、いまなら充垣でも対応できる。というか、してもらわないと困る。私は『虚無』に専念する。わかった?」

 無理だなどと言えるはずがない。この三人の中で一番劣っているのは充垣だ。充垣ただひとりだけが《蒼月》に対応できていなかった。それをいまは琴音が抑え込み、それに専念しなければならないと言う。

 充垣は、彼女を守らなければならない。

 死んでも守ることはできないだろう。充垣の死と《蒼月》の消滅が釣り合うはずがない。その結果は訪れない幻想だ。


 重い。


 死よりもずっと。


 深く息を吸い、余計な感情を捨て去るように息を吐き出した。心の中でわだかまっていたものが抜け落ち、そこに重責が納まる。ハルバードを一度強く握り締めてから、指と手首を使ってくるりと一回転させて握り直した。緊張による強張りも、指先の震えもない。

 切り替えができている。

 思考がクリアだ。

「了解」


「いい? 全力でやりなさい。ここで出し渋るようであれば、絶対につまらないところで、つまらない死に方をするよ」

 背中に受けた言葉に返答はせず、戦塵の中心へと向かう。その蒼色はまるで誘蛾灯のようだった。充垣は引き寄せられるように、その速度を上げていった。


     ※


 キルスヴェンはかつてないほど気持ちが昂っていた。世界の脅威である《蒼月》と相手できるだけでなく、ファウストが最も《神域》に近いと言う琴音の戦う姿を間近で見ることが叶った。

 特に琴音の動きの素晴らしさにどうしても目移りしてしまう。まったく無駄がなく、世界の脅威に対する萎縮も緊張もないために魔力の澱みもない。キルスヴェンの、あるいはすべての魔術師の到達点のようだ。キルスヴェンの動きは自然と彼女を参考にし、数ある可能性の分岐の中で最も効率のいいものを選びとれるようになった。


 ただ、それでも《蒼月》の懐に入ることはできない。それは、途切れることのない攻撃のためだけではない。その攻撃を受けた場合の被害が予測できないからだ。負傷するだけならばいい。だが、唯一攻撃を受けた充垣に負傷した様子はなく、黒色のペイントが衣服に付着したようにしか見えない。

 それが不可解。

 キルスヴェンたちが避けた攻撃は地面を抉り、建物や木々をなぎ倒しているのに、なぜ人間相手ではその威力が発揮されていないのか。ここから推察するに、キルスヴェンたちに向けられているものと充垣が受けたものは、直撃した対象によって結果が変わる。


 換言するのならばこうだろう。


 人間だけに作用するなんらかの効果を持った攻撃。


 たしかに《蒼月》に関する報告書には精神への攻撃があると記載されていた。無論、その可能性は現状でも大いに可能性がある。ここでそれと断言できないのは、やはり攻撃を受けた充垣になにも変化がないことだ。精神をやられての発狂はない。また、戦意の喪失や精神の崩壊による抜け殻状態にもなっていない。

 強靭な精神力を彼が持ち合わせているとも言えないが、魔術機関の暗部にいた者たちよりも優れているとはさすがに思えない。

 故に、最善は攻撃に触れることなく《蒼月》に近づくことだ。

 それは決して簡単ではない。


 そんなふうに考えていたが、次の瞬間にはその考えは氷に熱湯をかけたかのようにかたちを失った。

 起きたのは一瞬のことだ。

 琴音の視線と意識が充垣に向けられたその直後、彼女は《蒼月》の傍に近づいていた。そこまでの過程は完全には追うことはできず、まるで彼女が透明になり触手をすり抜けたかのようだった。そして蒼い光をひとつ奪い去り、身震いを実感したときには、彼女の姿は充垣の横にあった。

 これが最も《神域》に近い者――。

 彼女によって削られた蒼い光があった個所は、周りの黒色よりも深い黒になり、そこは欠落したようになにも感じないが、しかし同時に大きな力も感じ取れた。そうかこれが、とキルスヴェンとは納得した。これが《存在する虚無》なのだ。強大な無がそこにはたしかに存在している。


 実感した身震いの直後、心臓が大きく高鳴った。

(素晴らしい……! 素晴らしい素晴らしい!)

 あまりの感動に思わず拍手をしてしまいそうになる。大きな声で彼女を褒め称え、もっと見せてくれとアンコールを申し込みたい。上等な音楽を聴いたような、または研ぎ澄まされた技術を目の当たりにしたような高揚感と充足感に押し潰されてしまいそうだった。

 普段のキルスヴェンならば、その感情を上手くコントロールしていた。理性があってこその人間。理性が感情を支配するのはいいが、感情が理性を支配してしまうのは愚かだ。それが許されるのは純朴な子供だけだ。


 だが、いまこの場に限ってはそれを放棄した。

 あまりにも勿体ない。この感情の滾りをわざわざ冷ましてしまうなど陳腐だ。《蒼月》にも琴音にも失礼だ。

 だから逆。

 もっと滾れ。

 童心に戻り、理性ではなく感情のままに行動する。この場所に遠慮はいらないだろう。なにを壊したところで嘆く者はいない。

 コントロールを破棄するスイッチがあるかのように、地面を強く轟かせる一歩を踏み出す。身体を巡る血液が沸き立ち、肉と骨が雄叫びをあげた。


《蒼月》の動きは、魔術師が操る人形を連想させる。キルスヴェンが出会ったその魔術師の人形は魔術師の作る特殊な糸によって縦横無尽に宙を駆け回るだけでなく、魔術を含む多様な攻撃と防御を見せた。あの攻防は素晴らしかったが、人形を壊してしまえば終わりだったのがいまひとつ物足りなかった。

 だが、あれは壊れない。

 壊れないはずだ。

 キルスヴェンがとった行動は明快。ただ《蒼月》までの距離を一直線に進んで埋めた。向けられた攻撃をものともせずに突き進み、琴音がそうしたように《蒼月》に手を伸ばした。彼女と違うのは、キルスヴェンの右手が黒い靄の中のなにかを掴んだことだ。

 なにを掴んだのかはわからない。

 わかったのは掴めるということ。

 だからそのまま掴み上げ、地面に叩き付けた。悲鳴を上げたかのように触手から攻撃が放たれる。だがそんなことはどうでもいい。

 重要なのは感触。


 この程度では壊れない。


 またひとつ《蒼月》を知った。

 そのことに喜び、キルスヴェンは声をあげて笑う。

「もっとだ! もっときみのことを教えてくれ!」

 さらに力を加え、地面が陥没するほど押し込んだ。

 潰れない。

 続けてそのまま引き摺り回す。

 削れない。

 瓦礫の中で倒れずに残った太い柱に投げつけた。

 崩れない。

 柱ごと蹴り潰し。蹴り上げる。

 宙に浮いたところに組んだ両手を振り下ろした。

 強い衝撃で土埃が舞い上がる。振り払うことはしない。壊れることなくそこにいることは蒼い光が証明しているのだからその必要はなかった。ただ開戦時よりは存在感が弱まっているように思えた。やはり『虚無』が効いているのだろう。しかしそれでも僅かな変化に過ぎない。


 その後も途切れることなく連撃を与え続けたが、勝利への感触はまるでなかった。連撃の勢いは反撃を一切許さない。触手の先端はキルスヴェンを向こうとするが、本体らしき個所に一撃を入れられるたびに、その向きに引っ張られた。移動に使っていた触手にしてもそうだ。攻撃を受けている間は、旗のように揺らめくばかりだった。

 その無抵抗がキルスヴェンに対するなによりの抵抗となっていることに気づいたのは、冷静さを取り戻し始めていたときだ。

 感情を爆発させれば、より高い攻撃性を得られる。憎しみや怒りが人間を大きく動かす原動力になるのがそうだ。しかしそれは永遠ではない。永続ではない。原動力ということは消費されていくということ。くべる薪がなくなれば、焚火はただ消えていくだけ。


 振り上げた拳を触手に掴まれた。『掴む』という選択をしたのもそうだが、触手の形状にも驚かされた。まるで鍛えられあげられた太い腕。今まで黒い球を放っていた口部分は六本指を持つ手のようになり、キルスヴェンの拳はその指によってほどかれ、指を絡まされたどころか手全体を覆われてしまった。

 自由な左手で振り払おうとしたが、ほんの少し動かした直後にもう一本の触手に捕まった。まるでお互いの力を試しているかのような体勢だ。しかし力比べなどではない。キルスヴェンがどんなに腕に力を込めても振り払えない。足に力を入れてもただ地面を掘っていくだけだ。

(おのれ……!)

 歯を食いしばったところで現状を打破できるわけじゃない。魔術を使おうにも魔力の流動に澱みが生じており、それが構築を妨げている。おそらくは《蒼月》の触手との接触による弊害だろう。


 蒼い光でこっちを見つめながら《蒼月》がゆっくりと近づいてくる。

 なるほど、とキルスヴェンは納得した。魔術師たちが壊れていくわけがわかった。魔術師の唯一の取り得にして武器である魔術を奪われ、挙句の果てにはこの光に見つめられる。見られていると思い込んでしまう。余程の精神力があったとしても、光がもたらす死の絶望に敵うはずがない。

 魔術師もただの人へと変わり果てる。

 面白い存在だ。

 まるで、人を人らしくさせるためにある。

 しかしそれは世界の否定だ。この世界はすでに魔術を受け入れている。始まりは伝承や神話でしかない曖昧なものだが、その歴史はたしかなものだ。いまは日の当たらない場所にいるとしても、そこで深く、そして広がりながら根付いている。


 魔術は世界の一部。


 魔術だけが世界の一部か?


 そうではない。

 この世界にあるものは、いつから存在しようともこの世界の一部であり、誰からも否定されるべきではない。否定され、拒まれ、隔離されていても、彼らはこの世界に生き、気高く研鑽を積んでいる。

(なあ、そうだろう?)

 不思議な感覚に、キルスヴェンは思わず笑ってしまう。

 仲間以外を信じてしまうとは。

 透き通るような銀色が三日月を描き、キルスヴェンを縛る黒い鎖を断ち切った。鮮やかで鋭く、なによりも力強い意志を感じた。

「ずいぶんと遅かったじゃないか」

「お前らが速すぎんだよ!」

 充垣がハルバードを振るって《蒼月》を吹き飛ばす。その軌跡を後からなぞるように水飛沫が地面に振り落ちた。


「ただまあ、ヒーローってのは遅れてくるもんだろうが!」


     ※


 能力を使うことにブランクはない。能力者にとって能力の扱い方を忘れるというのは、記憶喪失の際に呼吸の仕方さえ忘れてしまうのと同義だ。その感覚は常に、身体のどこかに腐敗することなく貯蔵されている。

「悪いが頼むぞ!」

「わかってんだよ!」


 水は生き物のように宙を泳ぎ、《蒼月》とその触手を縛り上げる。厄介なのはこの触手だ。特に移動に使われている三本。まず狙うべき個所だ。琴音とキルスヴェンもそれをわかっているはず。だが、こうして残っている。考えられる理由は二つ。ひとつは壊しても再生してしまっている。もうひとつは、そもそも壊すことができなかった。

 前者はたしかに事実ではあるが、たったいま充垣が切断した触手の再生速度を見るにそこまでの速さはなく、琴音たちが放置を選択するほどではない。潰しても無駄だと思うにはあまりに遅すぎる。

 つまり、最も可能性が高いのは壊すことができない。さらに言えば、魔術の耐性があるかもしれないということだ。二人の攻撃が通らず、充垣の攻撃は通ったことから充分に考慮していいはず。


 そして危惧すべきは耐性が付いてしまうこと。

 どんなに好機を得たとしても、そうなってしまえば終わりだ。

 充垣は踏み込み、地に接した触手に向けてハルバードを薙ぎ払うように振るう。さっきと同じく「水」を纏わせている。水は刃の側面を滑るように高速回転し、接触した対象を削り斬っていく。しかしその違和感にはすぐ気づいた。抵抗力が増している。水に対しての抵抗力なのか。あるいは《欠片の力》に対するものなのか。

(どっちにしたってやることは変わっちゃいねえ!)

 手に込める力を増し、触手を一閃した。その勢いのまま二本目、三本目と切断していく。微かな抵抗も関係ない。このまま押し切る。


 宙に浮いた《蒼月》は体勢を崩したが、それも少しだけだ。手のように枝分かれしていた部分が伸び、杭を打ち込むように地面を穿った。

 攻撃よりも安定をとった。

 それは誰が見ても「隙」だ。

「てめえの番だ!」

「ヒーローのわりには口が悪い」

 キルスヴェンが充垣を飛び越えて現れる。攻撃ではなく安定をとるというならば、その安定を力で捻じ伏せるまでだ。

 それを待ちわびていたかのように地面からいくつもの細い触手が突き出てくる。安定を優先しただけで反撃は諦めていなかったのだ。

 だが、それも関係ない。

 充垣の操る水は、すでに地面に蓋をしていた。たとえ地面を突き抜けてきても、水を突き破るまでには至らない。この結果をわかっていたから充垣は踏み出し、残りの二本の触手もハルバードで斬り落とした。


 ほぼ同時に、キルスヴェンの拳が《蒼月》を捉える。接触した一瞬、降下が停止した。そして、次の瞬間には落雷のような爆音を立てて《蒼月》を地面に叩き付けた。大地が悲鳴を上げて窪んだのとは反対に、張っていた水は消えていくように跳ね上がった。

 巻き込まれないように正面に広げた水の盾も見事に消え去ってしまった。

 跳ね上がった水は雨のように降ることはなく、充垣は《蒼月》に近づいていった。活きのよかった触手が力なく横たわっている。いつ動き出しても不思議ではないはずなのだが、不意に動くことはないだろうとなぜか思えた。

「くたばったか?」

「さて、どうだろうな」


 キルスヴェンから放たれていた闘気は消え去っていた。いや使い果たしたのかもしれない。彼の衣服には多くの傷が見られた。特に上半身右側の欠損は大きい。さっきの一撃の衝撃で吹き飛んだのだろう。その直前には肩も腕も見えていなかった。そう考えれば、他の損傷もそのときに付いたのかもしれない。

 とはいえ、空気の緊張は解けていない。警戒の糸が全方位に張り巡らせてある。そのせいか、あるいはおかげもあって、充垣の感覚も引き摺り出されるように研ぎ澄まされていた。

 それでもさっきは《蒼月》を認識することは遅れた。

 だから、充垣が《蒼月》にハルバードを振り下ろせたのは、おそらく《欠片の力》の使用を解かなかったからだろう。自分の意識する感覚とは異なる感覚が働き、周囲の環境の変化に機敏に反応したのだ。


 充垣は二つの出来事に驚いた。

 ひとつはもちろん自分の起こしたその行動。

 もうひとつは、その斬撃を《蒼月》がハルバードで受けたことだ。触手と同じ黒色をしたハルバードは充垣のものと寸分違わず同じかたちをしている。適応だけでなく学習、模倣までしてくる。

 驚きを隠せないまま、その蒼い光を見据える。

 その深い蒼の奥に見えるのは――。


「――チッ。おらァ!」

 力を込め、蒼と黒の悪魔を切り裂く。金切り音が一瞬し、それからは空を切るように滑らかなものだった。ハルバードが両断され、その軌道に従って靄が晴れる。その中があらわになろうとした直後、目の前にいた《蒼月》は捻じれるようにして消え去った。

 蒼い光も残っていない。

 ようやく『虚無』に囚われたのだろう、

「《欠片の力》とは凄いな。《蒼月》にも対応できるとは、やはり魔法なのだろうか。詳しく調べてみたいものだ」

「勘弁してくれ」充垣はその興味の視線を振り払うように顔を背けた。《蒼月》にしていたような暴力を振るわれては堪ったものではない。


「しかし、それは使うのにリスクがあるのか?」

「そんなもんねえけど」

「それならばなぜ最初から使わない? 奥の手というわけか?」

「そんなところだ」

「ならば、きみは早いうちに命を落とす」

 またか、と充垣はキルスヴェンに顔を向けた。

「いいか、奥の手とは全力の先にあるものだ。未来を削ってでも勝利を手にしたいという欲望が生み出す力。呪いのような劇薬。故に最後まで取っておく。だが《欠片の力》はそうではない。それではただの出し惜しみだ。もし最初から使っていれば、私の初撃にも、《蒼月》の出現にももっと早く気付けていた。この差はあまりにも大きい」


「もうそれはねえ。だから、また不意打ちしてきても構わねえぞ」

「ふっ」キルスヴェンは鼻を鳴らして笑う。「なにがきみを留まらせていたのかは知らないが、どうやら吹っ切れたようだな。やはり守るものがあるというのはいい。簡単に人を成長させる」

「うるせえよ」

「お節介だったな。今回はこれで失礼するよ。コトネによろしく言っておいてくれ。次こそは手合わせ願おうとな。まあ次は今日よりもやりがいがありそうだが」

「勘弁してくれ」

 微かな風と葉の擦れ合わせる音とともにキルスヴェンの姿が消えた。

 爽やかに去ったように見えたが、しかし充垣にはどこか今すぐこの場から離れたかったように見えた。


     ※


《蒼月》との一戦を終えたキルスヴェンはすぐに仲間たちのもとへとは向かわずに森林の中をひとりで歩いていた。クールダウンのためにと思ったが、心に灯った炎がなかなか消えてなくならない。しぶとくゆらゆらと揺れ続け、小さくなるもののふいに再び大きくなる。

 感情を支配できない。

 脳裏にあの姿が浮かぶたびに昂りを取り戻してしまう。


 もしも抱いた感情が「恐怖」であったのなら、再起を願うのは無理な話だろう。記憶から抹消することなど不可能だ。それどころか、どの記憶を辿っても、あの姿がそこにあったように思えてしまう。

 ともなれば、記憶を封印するだろう。

 それにともなって心も扉を閉じていく。

 こうしてひとりの人間が終わりを始めていくのだ。


 混沌のように這い寄ることなく、親愛なる隣人よりも傍にいる。


 それが《蒼月》という存在。


 魔術師が、この世界が恐れをなした。

 想像以上だった。

 想定外のことも。

 かねてより謎多き存在であり、誰も近づきはしなかったからこそ、先の一戦は飛躍的な価値のある情報が得られた。変異を続ける《蒼月》ではあるが、その姿、本体のような中心的部分に変わりはない。


 キルスヴェンは連絡用の魔術札に短いが、おそらくは核心に迫っているだろう言葉を記した。魔力を込めるとそれは緑色の炎に包まれ、跡形もなく燃え尽きた。


――深淵の中でこちらを覗いているのは人間だ。


 ファウストはこのメッセージを受け取ってどんな反応を見せるだろうか。

 きっと驚きはしないだろう。

 不敵な笑みを浮かべ、次の手を打つに違いない。

 いや、それはすでに。


     ※


 琴音のもとに戻ると、彼女の表情はいつもと同じく涼やかなものだった。短期での決着が功を奏したのか、あるいは回復が凄まじいのか。なんにせよ、いつもの琴音に戻ってくれたことは充垣の心に安寧をもたらした。

「大丈夫なのか?」

「大丈夫。次はもっと上手くやれる」

「そうかい……」


「そっちは? 上手くやれた?」

「こうしてるのが答えだ。魔術師のことは聞かないのか?」

「どうでもいい」

 そう言われてしまっては、頼まれた伝言を渡すのが渋られる。充垣は記憶から抹消することに決めた。

「《蒼月》はどうなったんだ? 消滅したのか?」

「この世界から除外しただけだけど、それも一時的なものに過ぎない。数時間もしないうちに戻ってくると思う」


 そっちは収穫あった?

 その問いを受けて、充垣の脳裏に《蒼月》の姿が浮かぶ。それはまるで充垣の一部とでも言わんばかりに鮮明に浮かび上がる。

黒い靄。

蒼い光。

 その深みに沈んでいたのは――。


「あれは月宮だろ」

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