9 災月不待 - 9
「魔術師長ほどの力を持っていても《神域》には到達できないのですか?」
いつのことだったか、初めてファウストと二人きりになったときに訊ねてみた。《神域》に到達する明確な理由はわかっていない。だが、魔術師として研鑽していけば、その扉が開かれると信じられている。
それこそが魔術師の悲願。人間という種族の到達点。
魔術師の長ともなればそれが叶うのだと幼き頃から思っていたため、当然浮かぶ問いだった。
ファウストはそれに対して軽く笑ってみせた。
「どうだかな。そもそも行きたいと思ったこともない」
「まさか!」
「なにを驚いてる。俺なんてたいしたことないぞ。機関の頂点にいるだけで、魔術師としてはまだまだだ。俺よりも『最高の魔女』の方がまだその域に近い」
ファウストでもまだ届かない。そのことに強い衝撃を受けた。ようやく近づけたと喜々としていたのに、それでもまだ先は遠い。だから同時に武者震いをしてしまう。
そんな偉業を人類は成そうとしているのかと。
「では、魔術師長が出会った魔術師の中で最も《神域》に近いのは『最高の魔女』ということですか?」
そうならば、その差をこの心に刻みたい。きっとその差を知ることが悲願への大きな一歩となるに違いない。
「そうだ、と言いたいところだが、そう言えばお前は彼女に会いに行くだろうから言えんな。あれとやるにはまだ早い」
まだ早い。
その期待を喜ばないことなど不可能だ。この男は『最高の魔女』を――。
「しかし残念ながら、彼女ではない」
「それは本当なのですか!?」
「彼女は《神域》に近い――ただそれだけだ。おそらく”その先”には行けまい」
「《神域》の先……。そんなものが存在するだなんて」
「あるいは存在していないかもしれない」
「わけがわからないのですが」
「そこは《矛盾する世界》だ。すべてが存在し、そのすべてが無となっている。故に《存在する虚無》。他にも、概念そのものが生じた場所として《始まりの領域》、または《真の起点》とも呼ばれている」
「つまり我々の真の目的は『原点』ということですか?」
「原点かどうかはわからんさ。回帰本能かもしれないし、あるいは終焉願望かもな。ときに死は得難く、甘美なものだ。人は生きているから死ぬんじゃない。死ぬために生きているんだからな」
興味ないとは言っていたのは、ファウストが『死』にこだわっているからなのだろう。普段話しているだけでは、彼の原点がそこだと気づかなかった。
ファウストの言う『まだ』が訪れた際には、その核を剥き出しにさせてもらおう。
そんな内心を見透かしたのか、ファウストは楽しそうな笑みを浮かべた。
「話を戻そうか。《神域》に近い者。それはな――」
※
廃村に不気味さではなく日常を感じるのは、普段過ごしている事務所のある六番街が似た光景をしているからだろう。ただあの場所は廃村とは違い”始まらなかった”場所。街の一画として機能をする前に止まってしまった。
本当にこの村と似ているのは七番街の方だろう。あの区画も”終わらせられた”場所だ。
生物の気配はなく、濃い緑色の植物からは自然の温もりを感じず、むしろ陰鬱さしかない。人工物に浸食しているだけでこうも受ける印象が違うのは、失われた人間の影が見えてしまうからだろう。
「どうしたの、充垣」
隣でブリトーを食べながら琴音が訊いてきた。彼女の装束はいつも変わらない。白地の布に金色の刺繍が施されたいかにも高級そうなローブだ。こんな廃村でもよく目立っている。言葉にしたことはないが、迷子になってもすぐに見つけられそうである。
言えるわけもないが。
見た目は十代のそれではあるが、その能力は恐ろしいほど高い。訓練で何度も手合わせをしているが、彼女に傷ひとつ、ましてやローブに汚れひとつも付けたことはなかった。充垣よりも実力のある咎波ですら同様なのだから嫌でも思い知らされる差だ。
なにより先日使用していたあの”魔術”もある。
どんなに充垣が努力や研鑽を重ねたところで、すべてが『無』になる。あれを防ぐ方法など、未来永劫手に入ることはない。
できることといえば、琴音が敵にならないこと、琴音と同種の存在がいないことを祈るだけだ。
「いや、最近お前と一緒のことが本当に多いなってよ」
「充垣ひとりだと頼りないからね」
「それは悪かったな」
「あら、言い返さないの? 認めちゃうんだ」
「オレにも思うところがあるわけよ」
「ふうん」
琴音は特に興味を持つ素振りを見せず、残りのブリトーを食べ切った。これで充垣が買わされたブリトーは三つともなくなったことになる。
こんな辺鄙なところに来たのはなにもわざわざブリトーを奢るためではない。
いまこの世界のバランスがたったひとつの存在によって揺らがされているらしい。アイリス曰く、正体不明、能力不明、消息不明の三拍子が揃っているようなのだが、たとえ彼女の言葉でもこればかりは信用していない。そこまで不明だとすれば、ここに充垣たちが送られるはずがない。
正体についてはともかく、なぜ能力について話さなかったのか。これを知っているかどうかでは行動に大きな差異が出る。
試されていると好意的に捉えることはできる。しかし試験的にしては相手の存在が大きすぎる。
「琴音は今回の任務どう思うよ」
「うん? まあ別に。久しぶりに『外』ってくらい。充垣は『外』初めて?」
「いや何回か魔術師とやってる」
その頃は咎波が一緒だった。琴音とは違い、充垣をよく気遣ってくれた。だからこそ最初は彼が同行していたのだろう。あの事務所にいるのが不思議なくらいの人格者だ。
最近顔を見ていないが、なにをしているのだろうか。やはり充垣たちと同じように駆り出されているのかもしれない。
(そういや、月宮の奴も見ねえな)
いてもいなくても困りはしないが、誰もそのことに触れないのは気になる。あれについて話しそうな月組と変な二人もいない。そもそも充垣とそんなに関わりがないため情報源としては頼りない。
逆に考えれば、月宮と関わりの深い人間が事務所から消えている。
答えには期待しないが一応訊ねてみる。彼女のことだからいないことにも気づいていなさそうである。
「最近、月宮あたり見ねえな」
「私に黙ってどこに行ったんだろうね」
「お、なんだそれ。お前も気になるわけ?」
「当たり前じゃない。財布をなくしたら困るでしょ」
「……なるほどね」
仲間意識があるのかと思ったが、さすがに期待を裏切らない。月宮もそうだが、咎波と充垣も琴音にとっては財布だろう。誰かが必ず食事に拉致されている。
同じように報酬を得て、充垣たち以上に稼いでいるはずなのだから、金銭面で困っているということはないだろう。
拒絶できればいいのだが、それができる力をまだ持ち合わせていない。断れば本気で命がないのがわかるから質が悪い。
「オレたちどれくらいここにいればいいんだ?」
「さあね。まあ今日中には現れるでしょ」
日付が変わるまであと八時間はある。それまでこの廃村でなにをして過ごせばいいというのか。
そんな心配をしていると、琴音がぽつりと呟いた。
「違うのが来たよ」
認識できたのはその言葉までで、充垣は気づいたときには遥か後方まで吹き飛ばされていた。
脳の処理が追い付き、自分が反射的にハルバードで防御をしていたこと、背中に激しい痛みが走っているのを理解した。握り締めた手が開かない。痙攣している。
見れば、小さくなった琴音の近くに人影があった。その影が消えたのは、何者だ、と思ったのと同時。微かな土埃が舞うと、次の瞬間にはその傍にあった建物になにかが衝突していた。そして琴音がふわりと地面に降り立っていた。
充垣は立ち上がり、彼女のもとに駆け付ける。その表情はいつもどおりで、いまの出来事も一縷も気にしていない様子だった。
「なんだったんだよ、いまのは」
「さあ? 攻撃してきたんだから敵じゃない?」
誰でもいいけど、と琴音はつまらなさそうに言う。
充垣としては誰でもいいというわけにはいかない。琴音はその攻撃に対応できたが、充垣は気配すら感じ取れなかった。油断していたと言い訳をするつもりはない。考えごとをしていたとはいえ警戒は解いていなかった。だからこその反射行動である。
ただ相手が速すぎたのだ。
「お前も攻撃されたのか?」
「してこようとしたから蹴り飛ばした」
その言葉に安堵してしまう充垣。琴音が攻撃を受けたのなら、琴音が攻撃を受けるほどの相手だったのなら、充垣は相当な苦戦を強いられることになる。
特にリノのような相手だと厄介だ。
質だけでなく数まで兼ね備え、本体が現れることなく一方的にこちらの体力を削いでくる。あの手の相手は強い弱いで語れない。《欠片持ち》としては珍しい、理不尽の域。
ただ変な話ではあるが、充垣が認識できなかったということは目的の相手ではない。その存在感の強さは”現れる直前”ですら気づけるほどだという。それを聞いたとき、普段はこの世界のどこにも存在していないのかと疑問に思ったものだ。
それに対する咎波の返答は、そのとおり、だった。
気が滅入る。ただただ気が滅入るばかりだ。
だが、同時にかつての”光”が充垣の心にちらついた。世界の危機と脅威に直面して、懐かしい感情が息を吹き返したのだ。ようやく果たせることに期待しているのだろうか。
崩れた建物の方から物音がして反射的に顔を向けた。
土埃の中から現れたのは身長が二メートルは優に超える巨漢だった。ローブを羽織っているが、衣服の上からでも隆々とした筋肉が見て取れる。それでいて動きは重々しくない。軽やかというよりは品性がある。
「きみほどの小さな身体の持ち主にここまで吹き飛ばされたのは初めてだよ」
そう言って、男は口を細めて笑う。屈辱ではなく歓喜が込められた言葉だ。
続けて薄茶色の瞳が充垣に向けられる。
「不意打ちによく反応できた。《狭間の世界》の住人。思っていた以上に粒ぞろいなのだな」
「何者だよ、てめえは」
「あまり名乗るなとは言われている。が、今は小言を言う者もいない。わたしの名は、キルスヴェン。キルスヴェン・メイゼルだ。所属は魔術機関。いまは魔術師長の命を受けてこの村に来ている」
どういうことだ、と充垣は思考を巡らせる。咎波の話ではこの一件は《狭間の世界》が担当することになっている。しかしそれは手を挙げて引き受けたわけじゃない。
偶然にも、その命の場所がこの廃村だなんて、当然信じられるはずもない。
不意打ちのことにしても怪しいものだ。実力を知るために手加減をしたとでも言いたげなニュアンスだったが、手加減をする理由があったとも思える。魔術機関に所属している魔術師――しかも魔術師長から直接関わりがあるというのなら、魔術の腕も秀でているだろう。接触した瞬間になにか仕込まれた可能性もある。
「安心してほしい。私の目的はあくまで《蒼月》の“調査”だ。きみたちの謀殺を目論んでいるわけではない」
「つまりなんだ? 観戦しに来たってわけか? いいご身分じゃねえかよ」
「初めはそのつもりだったのだが、そうもいかなくなった」
キルスヴェンの雰囲気が一転する。内に秘めていた闘気が解放される。正面から受けた充垣の全身の産毛が一気に逆立った。
自分に向けられていないのに。
「僥倖――実に僥倖! こんなにも早く! こんな場所で! 《神域に最も近い者》に出会えるとは!」
一言を発するたびに、闘気が跳ね上がっていく。空気が震えるどころか、小さな残骸はその圧に耐え切れずに粉々に砕けた。剥き出しの感情。高揚し続ける闘争心。一回りも巨躯な彼がさらに大きく見え、思わず後退りしてしまいそうだ。
その気迫はいまにでも充垣たちに牙を剥きそうで緊張の糸が張り詰める。
だが、充垣の緊張を嘲笑うかのように、キルスヴェンは落ち着きを取り戻した。自己紹介をしたときにまで戻る。ただ充垣の緊張は解けない。さらに張り詰める。情緒不安定とも言える感情の起伏の激しさに安心を覚えられるはずもない。こうも簡単に落ち着けるのならば、それと同様に再び昂ることもできる。
充垣は集中しながらも、彼から出た言葉を静かに反芻していた。《神域に最も近い者》と琴音を呼んでいた。たしかに琴音は強い。だが、そこまでの域に達しているほどとは思っていなかった。
なぜならば、充垣の中にある『最高位』のイメージに琴音はいても、それは『最高』ではないからだ。琴音は頂点にはいない。頂に立っているのは――。
「コトネ。このわたしと手合わせをしてくれないか?」
まるでダンスに誘うかのような振る舞いを見せるキルスヴェン。衣服が違えば、体格のいい紳士に見えたことだろう。
それに対する琴音の返答は、
「いいよ」
という端的な了承だった。琴音を知っている者ならば、それが、天地が逆転しようとも零れないはずの言葉だと知っている。だから充垣は驚愕を隠すことができなかった。
琴音はただ静かに相手を見据えている。感情は読み取れない。
「感謝する!」
「でも条件がある」
「条件?」
「私の前に充垣と戦って」
「充垣……」キルスヴェンの意識が充垣に向けられる。「彼と戦って勝てばいいのか?」
「それでもいいし負けてもいい。殺したって構わない」
いいわけあるか、と充垣は声にはしなかったが、気持ちだけを琴音に向けた。勝手に人の生死を決められてはたまったものではない。
「勝敗も生死も問わない。問われているのは戦い方か」
「どうするか決まったときは、どんな状況であっても言う。どう? これでもやる?」
「やらない理由がない」
臨戦態勢に入ろうとするキルスヴェン。当然、充垣は準備ができていない。態勢もそうだが、心の方もまだ寝起きに近い。目が覚めたばかりでは、自分の置かれた状況の変化に落ち着いて対処できるわけがなかった。
「ちょっとたんま!」
充垣は魔術師に告げ、琴音に歩み寄った。
「おい! なんでオレを間に挟んだ!」
「充垣にちょうど良さそうだから」
「意味がわからねえが、オレなら勝てるってことか?」
「無理。充垣みたいなのが、才能と努力で積み上げたものを崩せるわけない。身の程を知った方がいいよ」
聞く質問を間違えれば、辛辣な返答しかもらえないようだ。
呆れるのを諦め、問いを続ける。
「……なににちょうどいいんだ?」
「死ぬのに」
「はぁっ?」
「充垣。充垣は“もう一度”死んだほうがいい。本当は《蒼月》に殺してもらおうと思ったけど、そっちは不確定要素が多い。普通に死ぬことができないかもしれない。だけどあの魔術師くらいなら大丈夫。死ぬときはちゃんと死ねる。だから、根気よく、死力を尽くして殺されてきなさい」
「悪い。お前がなにを言っているか全然理解できなかった」
自分の置かれた状況を整理する。
この廃村に訪れたのは世界を揺るがす《蒼月》を倒すことを名目にした調査だ。他の世界が望む解決を目指すならば、琴音と二人きりで来るわけがない。
廃村で遭遇したのはキルスヴェンという魔術師。魔術機関も自分たちで調査を行うために派遣してきた。琴音に出会うことを以前から望んでいたようで、それが叶ったために手合わせをしたいと願い出た。
琴音がその条件に出したのは、充垣との勝負。生死は問わない。彼女が認めた場合、キルスヴェンの願いが叶う。
そしてそれは充垣を一度殺すための条件。
《蒼月》よりも魔術師の方が良い都合らしいが、どちらにせよ充垣には受け入れることのできない不都合なことだ。
琴音に逆らうことはあまりしたくない。結局、力で屈服せざるを得なくなるからだ。逆らうだけ労力の無駄だ、と普段なら思っている。
けれど、今回ばかりは生死が関わって――。
(――なんだ?)
違和感。
状況を整理するために辿った記憶の中に、充垣の“知らない記憶”があった。それは、思い浮かべた映像の流れを妨げるものではない。映像自体になにか異物が混じっていた。走馬灯のように再び駆け巡る記憶。認識していた光景と照らし合わせて差異を見つけ出す。
しかし、わからない。
違和感があることだけが何度も結果として表れる。いつ、どこでその違和感が生じるのかが見当もつかなく、届きそうで届かないじれったさが気持ち悪い。違和感を覚えたのが間違いだったと思えないこともそうだ。
その違和感は、あまりにも強すぎる。
存在感が拭えない。
まるで――。
まるで《蒼月》のようではないか。
川のように流れる記憶の映像は次第に減速し、本のページを指で弾くように分断されていく。速度が落ちていくことで区切られた場面のひとつひとつに確かな違和感を覚えさせられた。
どこを抽出しても、それを充垣は知らない。
気付いていなかった。
充垣だけではない。
この場にいた三人が、その存在に気づけなかったのだ。
自分の気付きを琴音に知らせようとしたが、すでに彼女の姿はなかった。どこに行った、という疑問は一切わかない。充垣は弾けるようにその方向へと顔を向けた。
キルスヴェンの後方。
黒い靄の中に蒼い双眸。
そこに《蒼月》はいた。
六本もの触手のようなものが蠢いていたが、琴音がすでに間合いに入っている。先手を取るのはまず間違いなく彼女だろう。
後に続かなければ。
遅れを取り戻さなければ。
そう思い、一歩を踏み出す。
だが、それを妨げるかのように“黒球”が充垣の身体を貫いた。