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悠久の世界は月のために  作者: 鳴海
第1章
172/179

8 災月不待 - 8

「――ちくしょう!」


 星咲が店を出てからしばらく俯いていた如月が顔を上げて叫んだ。それまでも同じ言葉を粒のようにこぼしていたが、ようやく心の整理ができたらしい。一瞬だけ店内が静まり返ったが、一時停止から再開した映像のように再び賑やかさが戻った。


「なんなんだ、あいつは! 全部わかったようなこと言いやがって! あいつに私たちのなにがわかる! 大切なものを奪って、踏み躙って、そのあとにアドバイス!? ぜんっぜん理解できない!」


「本当に、私たちのなにもかもをめちゃくちゃに掻き乱していきますね。天災よりも質が悪いです」


 長月の心も動き始めた。


 二人の言うとおり、彷徨にも星咲は理解できなかったし、天災以上に理不尽だと思えた。揺るぎない意志があるだけに、彼が通った道には数えきれないほどの爪痕が刻まれる。けれども無残に切り刻まれ、朽ち果てていく者たちを一瞥もすることはない。


 個としての『心』が大きすぎる。


 成し遂げるための『力』があるために『心』が築き上げられたのか。


 成し遂げようとする『心』が『力』を与えているのか。


 どちらにせよ、只者ではない。その見た目や言葉だけでは伝わらないなにかが、彼を形成しているのだろう。あの夜の空に浮かぶ月と太陽に意味が――。


 当てられているな、と彷徨は思考を中断した。秋雨美空の心を見たときと同等かそれ以上に思考が支配されている。


「とにかくご飯だ! ご飯を食べてあいつを出し抜く方法を考えよ!」


「すべてを知っていそうな相手の裏をかくのは難しそうですけどね」


「いいの! はーちゃん、注文! 一番高い料理お願い!」


 ちょうど奥から急ぐように出てきた日神に、如月は大声で注文をした。それを聞いてすぐに踵を返し、「四つね!」と背中を押された彼女が気の毒だった。


「こんな注文してみたかったんだよねー」如月は満足そうな表情を浮かべた。


「いいんですか? こういうところでも、意外といい価格のものが出てきたりしますけど」


「大丈夫! 私たちには財布がいる!」


「誰が財布だ」


「もうわかってるでしょ?」


 如月は悪戯な笑みを浮かべてみせた。


 やがて料理が運ばれてきた。昼に食べるにしては凶悪な量だったが、如月たちは難なく完食していた。近頃の女子の胃袋は異次元のようだ。一番幼いと思われる心歌は半分だけ食べ、残りを彷徨が食べた。


 食後のコーヒーで一息つき、日常の空気を取り戻し始めたとき、ようやく彼女が――心歌が口を開いた。人見知りをしていた、そんな可愛い理由でそうしていたわけじゃないだろう。今がそのタイミング。話し手のではない。受け手側のだ。


 故に彷徨は彼女の言葉を待っていた。


 そしてそれは意外な一言目だった。


「彼の言ったことを忘れないで」


 どこか柔らかな空気が、がらりと一転する。心歌の声は不思議だ。幼さのある声のはずなのに、それを感じさせない。だからだろうか。その見た目とのギャップに心が揺さぶられる。変に緊張感を抱かせる。


 まさしく目の前の彼女たちがそうであるように。


「――えっと、彼ってさっきの?」


 如月が目を丸くしたまま訊いた。


 心歌は如月たち、そして彷徨へと目を向けていった。


「二人にとっては憎き相手、彷徨にとっては得体の知れない人だから、その言葉を受け入れることも、ましてや信用することもできないと思う。でも、最後に残した言葉は切り捨てちゃいけない。あれは、あなたたちを、あなたたちの望む未来に導くものよ」


「あいつの言葉が?」如月は心底嫌そうな顔をした。「嫌なんだけど!」


「あれのすべてを嫌悪しているというのに、従うことなどしたくありません」


 いくら心歌でも彼女たちの心に根付いた負の感情を取り除くことはできないだろう。星咲の言葉は受け入れられるものじゃない。容赦なく突き刺さるものだ。だから荒唐無稽だと思いたくても、内側まで届いてしまう。


 彼の残した助言は、その鋭利さが欠けていた。だから反発が起きる。如月たちの感情がここまで溢れているのはそのせいでもある。


「感情で、本当の心が見えなくなってるんだね」心歌の表情は変わらない。幼い、真剣な顔。

「思い出して。本当なら彼に言われるまでもなく、あなたたちは自分たちがすべきことを知っているはずだから」


 それはまるで母親が子供を宥めるかのような優しい声色だった。


 その温もりに緊張で凍った空気が溶け出す。遠くに感じていた店内の音が鮮明に聞こえ始めた。心歌が伝え終えたためだろう。この場は支配していたのは言うまでもなく心歌だ。なにをするでもなく、ただ音だけで完全に掴んできた。


 本当に――。


「ひとついい?」如月は心歌を指さし、彷徨に訊ねた。「何者?」


 その問いに対する正確な答えを彷徨は持ち合わせていない。当然だ。彷徨もまた心歌が何者であるかを知らないのだから。ただそう、如月の求める答えでないのなら、簡単に言葉にできる。


「妹だ」


     ※


「妹ねえ」


 彷徨と心歌が店をあとにし、如月たちは日神を待つために残っていた。なんだかんだ言っても支払いを持ってくれた彼はきっと、近い将来に悪い女性に騙されるに違いない。徹頭徹尾遠慮をしていた長月は彼らがいなくなったあとに「ハルに知られたら説教されますね」と、ぽつりと呟いていた。次もバレないようにしなければ。そう静かに決意する如月だった。


 ストローの口を親指で軽く塞ぐ。反対側の口で雫ができあがった。雫が落ちるか落ちないかの調整が地味に楽しい。


「なにやってるんですか」


「私たちって家族はいたけど、妹とか姉っていなかったじゃん?」


「そうですね。妹みたいにずっと小さい人はいますけど」


「誰のことかわかんなーい」


 ふいに雫が零れ落ち、如月は嘆息した。


「私たちがやるべきことってなんだと思う?」


「え……。わからないんですか? それはちょっと……」


「あえて聞いてるんだよ!」


 心歌に言われたとおりだ。星咲が現れたことで動揺し、心が乱された。抑え込んだ感情が引き出され、それを抑え込もうとしては失敗する。波のように繰り返されたことで、あのときは本当にボロボロだった。冷静には程遠く、決してまともではなかった。


 それを彼女は見抜いた。見失い、歩み間違えようとしていた本来の道があることを教えてくれた。


 大切な人からの、大切な言葉を思い出させてくれた。


「癪ではありますが、彼もきちんと助言をしてくれていたんですね」


「かなり気に食わないけどね」


 どうにも気に食わない。


 星咲も。


 心歌も。


 彼らに掌握されているかのようなこの世界も。


 それに従うしかない自分も。


「しかし、思えば秋雨美空とはずいぶんと顔を合わせていない気がします」


「まずはそこだね」


     ※


 家に戻るまで心歌とは一言も話さなかった。話すことはまだ山ほどあるが、それについて訊ねようとは不思議とならなかった。それはおそらく、背後から聞こえる下駄が地面を鳴らす音が心地よかったからだろう。崩れることのないテンポ。常に同じ音。


 彷徨は特に挨拶することなく、心歌は「ただいま」と行儀よく上がり框を越えた。


 リビングにはアイリスと咎波の二人がいた。会話をしている様子はなく、ただ静かにテーブルを挟んで椅子に座っていた。御津永みとながは彷徨たちに気づくと「おかえり」と煙草を持った手を軽く挙げた。


 彷徨はそれを目で受け、そのままソファへ向かった。


 秋雨美空が変わらず眠っている。


 秋雨美空の心が変わらずこっちを見ている。


 これまで感じてきたストレスはなかった。慣れてきたからだとも思ったが、そんなすぐに慣れる感覚ではない。それは身体中を虫が這っているような不快さ、おぞましさで、本能的に避けたくなるものだ。


 しかしいまはそれがない。


 なにが変わったのだろう。


 たった数時間でこの様変わりはどういうことだ。如月たちと再会し、星咲と出会っただけではないか。やはり星咲がキーマンなのだろう。きっと彷徨だけではない。如月たちや、他の誰かにとっても転機となる存在。


 それが良い方向か、悪い方向かは不明だが。


 彷徨はソファの前で片膝を着き、秋雨の眠る顔を見た。気持ち良さそうに眠っているように見える。起こしてはいけない気にさせられる。だけど、そうではない。彼女の心は――三つの内のひとつは、いまも目覚めを待っている。


 彷徨は能力を使い、秋雨の心に入り込む。ほとんどの心にはそう意識を集中することもなく深層まで辿り着ける。人の心のかたちと景色は様々であっても、他者の介入を防ぐようにはできていない。それは心の成長には必ず他者が影響するからだ。必ずどこかに入り口があり、通路があり、到着点がある。


 だが、秋雨は例外だ。


 心が三つもあるという規格外。


 まずは殻となっている心を越える。なぜかヒビ割れているが、そのかたちを留めようとする力が働いていた。その合間を縫って進んでいく。本来ならばここで足止めされるはずだ。それだけの意志が宿っている。秋雨美空の心を守ろうとしている。


 これだけ壊れているというのに。


 それでもまだ。


 秋雨美空の心の深部には辿り着かない。それを阻む“眼”があるからだ。彷徨を見つめて放さない。初めてこれを認識したとき、監視と拒絶が意味しているのだと思っていた。あるいは関わるなという警告。


 しかしそうじゃない。


 それは幻想だ。


 彷徨に対して向けられているのはまったく別の意思。


「恐れないで。大丈夫。なにがあっても、私は彷徨と一緒にいるから」


 肩に添えられた手から伝わる温もり。眠りの冬が終わり、目覚めの春を感じさせる日差しのようだ。強張っていた身体から力が抜けていく。決意で隠した不安も冬と同じく過ぎ去っていった。


 恐れたところでなにも変わらない。


 時間は待ってくれない。


 未来は近づいてくる。


 ならば、変化を起こした方がいい。


 それだけが人が時間や未来に対してできる唯一の抵抗なのだから。


 彷徨は集中力を高め、能力を使用する。秋雨の中にあり、他者に守られていた二つの心。きっと目覚めさせるべきは「普通の心」なのだろう。荒波が立つことなく、暴風も吹き荒れず、ただ穏やかな日常が秋雨美空に戻ってくるのだろう。彼女に対する優しさで行動するならば、その選択が正しい。


 しかし彷徨にとっては――この世界にとっては間違いだ。


 秋雨美空がどうなろうと構わない。そんな非道なことは思っていない。もしも解放だけの結果を求めているのならば、外殻を打ち壊し、残る心がどうなろうとも、この眼の持ち主を引っ張り出している。


 たとえ異質であろうと、他の心を蔑ろにはできない。


 もしかしたら三つあることで均衡が保たれているかもしれないのだから、不用意に触れていくのは禁物だ。用心深く、慎重に。複数であることに気を取られ過ぎているため、あえて三つでひとつだと意識する。


 そして。


 閉ざされた心を解放した。


 それから一分ほどして、秋雨の目が開いた。中空に向けられた視線が彷徨に移る。この数秒にも満たない時間が、驚くほど彷徨に緊張感を与えていた。心の解放を失敗したのかどうかが気がかりなのではない。


 眠っていたときとは明らかに違う雰囲気。


 空気が振動しているのか、あるいは微弱な電気が放出されているかのように、肌がひりつき産毛が逆立つ。


「ありがとう」


 そう言って秋雨の口角が三日月のように上がったとき、彷徨の背筋は驚くほど凍り、声を出すことができなかった。


 返事のできない彷徨を気にすることなく秋雨は起き上がり、両腕を挙げて伸びをし、そのあと自分の身体を確認した。


「わかってたけど、なにも変わってないね」


 嘆くような口調ではあるが、秋雨は残念そうにはしていない。


 周囲を確認し、


「湊くんは?」


 とアイリスに訊ねた。


「ここにはいないわ」


「知ってますよ」秋雨はまた口角を上げた。「ほとんど“見て”いましたから」


「彼の居場所はわかる?」


「意地悪なことを聞きますね。わかりませんよ。わからないから、わたしは湊くんが好きなんです」


「あの頃と変わってないのね」


「変わりません。変わったら、湊くんが約束を果たせないでしょう?」


「果たしたいと思っているのかしら」


「そうじゃないと困ります」


 急激に空気が変容した。


 息苦しくなるような泥のように重たいものに。


「じゃないと、わたしが湊くんを殺さないといけなくなります」


 二人の関係性がまるで想像できない。いや、そもそもどうすればこんな関係性に発展するか理解できなかった。そして、自分の選択が正しかったのかという疑惑が生じる。


 彼女の言う「約束」はこれまで果たされてこなかった。ならばこの先も果たされない可能性は充分にある。そうなれば月宮湊は秋雨美空に殺される。この世界のために必要な存在が消される。


 いずれにせよ彼女が必要だということに変わりはない。正誤の判断ができるのはやはり未来が訪れてからだ。


 さてと、と秋雨は立ち上がった。後ろで手を組んで歩くその姿は機嫌の良さを表しているのだろうか。誰も声をかけず、ただその姿はその場にいた全員が目で追っていた。


 リビングから廊下に続く扉を開いたとき、おもむろに秋雨は振り向いた。


「そうだ、所長さん」


「なに?」


「湊くんを殺しちゃだめですよ」


 それだけを言い残し、返答を待たずに秋雨はリビングをあとにした。


 扉の向こうから玄関で出入りがあった音が聞こえた。


 ほっと胸を撫でおろし、


「なんなんだ、あいつは」


 と、彷徨はアイリスと心歌に向けて訊いた。


 答えたのは、やはり心歌だった。ふとその顔を見れば、どこか嬉しそうな感情が珍しく顔に出ていた。


「最後の鍵だよ」


 きっとそうなってくれる。


 その言葉で彷徨はここから始まるのだと知った。

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