4 災月不待 - 4
「そう。大筋はそんな感じだよ。予想どおりというか、彼女の言ったままだ。まあ僕でもこうなるのは予測できたけどね。本当に意味があったのかわからない時間だった。特になにもなければこのままそっちに戻る。うん、それじゃあ」
一通りの報告が済み、一息をつく咎波。疲れと解放感で、気持ちは完全に帰ることに切り換わっていた。あの場にいたくなかったのはこの疲労感があるからだ。誰が考えても他の世界の代表と並ぶ器ではない。ただの一般市民が同席していい立場にあるはずがない。
加えて、それぞれの付き人からの視線もきつかった。咎波ではなくアイリスであれば、あそこまでの警戒はなかっただろう。たった一人で現れたこと、これがまずかった。おそらくは最悪のパターンが想定されていたに違いない。
(なにもできるわけがないだろう)
あの二人を前にして、大胆な行動などできるわけがない。命をひとつ差し出したところで、あの二人に傷ひとつ負わせることはできない。世界の代表なのだ。その世界を統べるほどの化物になにができるというのか。
彼らが無防備だとしても、存在感に喰われてしまう。
二人の姿を思い出すだけでも気が滅入るため、すぐに《狭間》に戻ろうと思考を切り替えた。この切り替えがスマートにできるのは調子がいいときだ。今日はそうでもない。
「報告は終わったのかな?」
すぐ傍で聞こえた声に、咎波は勢いよく振り向いた。そこにいたのはファウストだった。咎波を驚かせることに成功したことを嬉しがっているのか、少し口角が上がっている。
「……ええ。終わりましたよ」
この男は本当に生者なのだろうか。その疑問を思わず声にしてしまいそうだったが、咎波の理性がそれを妨げた。普段から警戒を怠っていない咎波だが、ここまでの接近を許してしまうのは、彼を除けばアイリスと琴音だけだった。意識の隙間を縫ってきたのではなく、堂々と正面から意識の壁をすり抜けてくる。
警戒という行為を嘲笑うかのように。
あの日々で行われた愚行を思い出す。それは、ただ勝利を得るためだけに、彼らの無垢さを、彼らを前にした者たちの人としての心を踏み躙った。あれもまた警戒を嘲笑うもの。思い出したのはそれゆえだろう。
「なにか用ですか?」
「いやなに、せっかく来てもらったんだ。生徒たちに指導をしてもらおうかと思ってな。なにせ咎波ほどの実力者だ。得るものも多いだろう」
「僕にはないですけどね」
「いい大人がそういうこと言うものじゃないなあ」
「悪い大人なので」
「ちょっとそこの二人! こっちに来なさい!」
咎波の声を聞いているのかいないのか、ファウストは少し離れたところを歩いていた二人組を呼んでいた。
呼ばれた二人は顔を見合わせて首を傾げたあと、咎波たちのもとに小走りで寄ってきた。
「きみたち名前は?」
「……私はアウロラ。こっちがアーシャ」
少し逡巡したあと、ブロンド髪の少女がそう告げた。
アウロラとアーシャの反応は似て非なるものだ。
アウロラは言葉を待っている。なぜ呼び出されたのかわからないため、その意味を知りたくて仕方がないのだ。その目はまるで叱られることを不安がっているかのようである。身に覚えがなければこの反応になるはずがなく、今回は覚えがないのだとしてもそこから普段の素行が想像できた。
一方のアーシャは『観察』していた。なぜ呼び出されたのかではなく、誰が呼び出したのか。それを見定めようとしている。教育されているというよりは訓練されているような印象だ。しかしそれが天性のものだ。教育や訓練による行為だとすれば、もっと上手くやれたはずである。下手ながらにも、それなりの振る舞いができていたはず。
驚いたのは、咎波との観察の視線がぶつかっても、アーシャは揺らがなかった。視線の交差から逃げず、相手の観察を続ける。肝が据わっているというべきなのだろうか。その時間は一秒にも満たなかったが、アーシャという少女を刻むのには充分な時間だった。
「まあそんなに怖がるんじゃない。これからきみたちには特別な授業を受けてもらおうと思っただけだ」
「特別な授業……? 補講とかじゃなくて?」
「特別な講師が行う授業さ。ただし、良くも悪くも、プログラムにおけるきみたちの評価が上下することはない」
「それならやります!」
アウロラは必要もないのに勢いよく手を挙げた。評価や単位に関係ないと聞いただけでこの反応を見せるあたり、無料や格安といった言葉にも弱そうである。おかわり自由や特盛などに吸い込まれていく誰かのようだ、と咎波は密かに彼女を思い出した。
「ということでよろしく」
ファウストの手が咎波の肩に置かれた。誠実そうな笑みは、彼女たちの手前であるが故だろう。この手と笑みに込められたものは、彼女たちに決して見えないだろう。咎波には嫌になるほど濃く見えていた。
しかし、そうするつもりはない。ファウストから逃げ切るなど不可能であるのは明白なのもそうだが、やる気を見せている子供の前で、大人がその気持ちを裏切るわけにもいかないからだ。
「わかりましたよ」
咎波がそう答えると、ファウストは授業内容を語った。
形式は一対一の模擬戦。学生側は存分にその力を発揮することを許され、咎波はそれらを回避するなり、受け切るなりしなければならない。経験の差から言えば当然ではあるものの、なにひとつとして油断はできない。
魔術師はいわば研究者であり探求者だ。魔術の深みへと到達するために思考錯誤を重ねる。血を浴び、泥をすすり、侮蔑の目を向けられようとも、魔術師としての高みへと登り詰めるためならば自己の犠牲すら厭わないことすらある。
深淵こそが頂点。
まだ彼女たちにはその感覚はないだろうが、その片鱗はたしかにあるはずだ。知識欲、好奇心、魔術への意欲がそうなのだから。
この模擬戦は、それをさらに高めさせるものだろう。咎波が相手するのは、受け継がれてきた飽くなき探求の精神だ。相手がただの子供だからといって、実戦を経験したことがないからといって、か弱さを見せるわけがないのである。
下手をすれば、必殺を繰り出してくるかもしれない。未熟さ故の荒さにより対処不能のものだってある。戦地であれば発動前に止めればいいが、これは発動後に対応する必要がある。その点で言えば、実戦よりも難しい。
「やるぞー!」
前方ではやる気に満ち溢れたアウロラが、アーシャから応援を受けていた。
後方からはファウストの視線を感じる。見えていないが、まず間違いなく不敵な笑みを浮かべているに違いない。芝生を揺らす風がまた、背中を押すようで鬱陶しい。
「僕の方はいつでもいいよ」
咎波は特に構えることなく、自然体の状態で告げた。
途端、アウロラの姿が消えた。
「え?」
咎波の前を“横切った”アウロラは“躓いて”地面を転がった。二転三転し、やがて仰向けになった彼女が発したのは「へぶぅ」という意味のわからない呻き声だった。ここが芝生でなかったのなら、もしかしたらそんな声ではなかったかもしれない。
芝生でないなら別の方法をとったが。
咎波は総評を語る。
「身体強化の魔術を上手く扱えているね。発動までの時間が極めて短いだけじゃなく、自分がどの程度の魔力を使えば、どの程度の力が出せるのかをよくわかってる。その瞬発力はこれからも鍛えていった方がいい」
「あの……」アウロラは仰向けのまま訊ねた。「なんでわかったんですか?」
「大人は子供以上にいろんなことを見ているんだよ」咎波は彼女に近づいていく。「たとえば表情の変化。それだけで性格を掴むこともできる」
アウロラのどこか気の抜けた顔が、きょとんとし、やがて引き締まっていた。甘く見たような態度が癪に障ったのかもしれない。負けず嫌いな性格。子供扱いに拒絶心があるだけでなく、それに対して反抗しようとする。見返そうとする。
認められたい相手がいるのかもしれない。
歳上や目上といった存在だろう。
それはきっと肉親に違いない。
「ひと泡吹かせてやろうとでも思ったのか、あるいは僕を警戒したのか、きみは正面から向かってこなかった。それはきみが踏み込んだ跡を見ればわかる。これで左右のどちらに移動したのかもわかった」
「後ろから来るとは思わなかったんですか?」
「それもない。きみは素直だ。それによく考えている。正面は僕の視界内でもあるから選択肢としてはない。かといって後方まで移動するのは、僕にそこまでの時間を与えてしまう。それにあまりにも安直な選択になってしまう。正面よりも警戒が強いのが背後だ。だから、左右のどちらかで攻めるのが、きみの中で一番だった」
咎波はアウロラに手を差し伸ばし、彼女が起き上がる手助けをした。ローブや髪が汚れていたが、咎波が触れて整えるわけにもいかないため、指摘して謝るだけにした。怪我はどこにもないようで、痛みを我慢している様子もない。こちらの力加減も間違っていなかったようだ。
躓かせるだけでは勢いは殺せない。
「ありがとうございました!」
「基礎能力は充分だから、きっと凄腕になれるよ。頑張ってね」
深々とお辞儀をしたアウロラはアーシャのもとへと向かっていった。素直で負けず嫌いな性格だ。この程度で折れることはないだろう。この場で自分の基礎レベルを量ろうとしたほどなのだから。彼女なりに自身の未来が見えているのかもしれない。
「どうしようかなあ」
次の相手であるアーシャは、アウロラとは違って、なんとも覇気がなかった。やる気はあるのだろうが、方向性が定まっていないのだ。アウロラのように基礎を見てもらうか、または技術面を披露してみるか。
咎波としては基礎の方がありがたかった。対処のしやすさが段違いだ。それに、言うことも単純で楽である。
「そうだ! あれやっちゃいなよ!」
「あれかあ。ちょっと時間かかっちゃうし、綺麗なだけだよ?」
「問題なし!」アウロラがサムズアップする「ねっ、先生!」
「先生っていうのは僕のことかな? それなら答えるけど、時間は多少かかってもいいよ」
本当は良くないが、咎波はファウストの手前そう答えるしかなかった。もしも断っていれば、彼が会話に参加し、また厄介なことになるに決まっている。
「よろしくお願いします!」
アーシャはアウロラと顔を見合わせたあと、咎波を向いて頭を深々と下げた。
たしかに彼女の言ったとおり時間はかかった。なにか道具を使うのかと思ったが、アーシャは瞼を閉じて、精神を統一するように胸の前で両手の指先を合わせた。
たしかに彼女の言うとおり、発動までに時間がかかった。しかしそれは丁寧と慎重を両立させているということだ。普段行っている鍛練を丁寧に再現し、魔術のイメージが崩れないよう慎重に魔力を扱っている。
湧き上がる魔力は散らばることなく、彼女の身体の周りに留まっている。初めこそ波打つ危うさがあったが、今では風一つない水面のように穏やかだ。
咎波の背中を風が押した。
アーシャの瞼はピクリともしない。
(そろそろ、か)
そのとき、咎波は自分に対して心底驚いた。たしかに相手が誰であろうと警戒は怠るつもりはない。けれども警戒にも度合いがある。たとえば命の奪いのある戦場。呼吸を忘れるほど精神を張り詰めさせ、いつでも敵を仕留められるように構える。
まさに今、そうしようとしていた。
咎波が驚きに意識を割かれていたその一瞬、今度は正面から風が通り過ぎた。肌を撫でたそれの冷たさは自然のものではなかった。
通り過ぎたのはそれだけではない。
「星天球蓋」
その言葉が届くや否や、咎波の驚きに別の驚きが合わさった。
アーシャが時間をかけてイメージを形作り、魔力を丁寧に調整したその魔術は、決して広くはないが、しかしそれでも咎波やファウスト、それにアウロラを内側に封じ込めるほど広がった。
見上げれば、重なった二つの空。
昼間の空の下に夜の空。
吸い込まれそうな闇に瞬く無数の星。
そして――。
そこから零れる蒼い月。
夜空が溶け出したかのように、黒い塊が地面に零れた。
アーシャの魔術ではない。咎波は気付くのに一瞬遅れた。あまりにも自然に夜空から溶け出たものだから、彼女のイメージの産物だと思ったのだ。
しかし気付けば、自分の不可解な反応にも納得がいった。
咎波が警戒していたのは――。
「雛鳥たちの成長を見届けるせっかくの機会だというのに、空気を読むということを知らんのか」
ファウストは動揺した様子を見せず、咎波の前まで歩き出していた。
「なあ、『蒼月』よ」