2 災月不待 - 2
屋上で感じる風が、どこか別の世界のものに思えた。
あれからなにかが大きく変化したのは間違いないのに、この街はどこも変化がないように平然と機能している。音無舞桜はその歪さをまだ完全には受け入れられていない。
敗北と懺悔の記憶しかないはずなのに、世間ではそれとは真逆の結果が広まっていた。死者は何人も出た。その目で、瞳で見ていた。だが公式の発表では死者はゼロとされている。そしてその功績を残したのが、音無となっているのだ。
誰がそんなふうにしたのか。
どうしてそうなったのか。
音無が受け入れられないのは、しかしそこではない。英雄と呼ばれ称賛されることも、嬉しくもなく辛くもない。受け入れるまでもなく、それは身体と心をすり抜け、風に乗ってどこかに運ばれていくだけだ。無価値であり、無意味であり、無駄なもの。
心に深く突き刺さっているもの。
無視できないもの。
それは、いなかったことにされた死者のことに他ならない。彼らはたしかにこの世界に、この街に存在していて、誰もと同じように生活していたのだ。名前があり、性別があり、積み重ねた年月があり、繋がりがあった。
それがすべて無に化した。
存在していた痕跡だけを残し、人々の記憶から削られた。
これまでも、そしてこれからもその歪な修正は行われていく。
きっとアナトリア姉妹に出会っていなければ、音無はそのことに一生気付いていなかったのだ。失われたことを、欠けたことを、奪われたことを、不可解さに気付くことなく、この街で過ごしていたに違いない。
そう考えたとき、全身を悪寒が走った。
知らないことがただ怖くなった。自分の無知さが、どれほど致命的なことなのかを今すぐにでも確認したい。この街には――この世界にはまだ知らないことがたくさんあるはずだ。否定してきた事象が肯定されるかもしれない。夢物語が現実なのかもしれない。
それでも受け入れなければならない。
その修正は決して間違いではないのだから。
「あっ、やっぱりここだったんですね!」
「おはよう、イヴ」
音無は振り向き、太陽のような笑みを浮かべるイヴ・スノードロップに応えた。本当は声をかけられる前、屋上の扉が開いたときには彼女が近づいてきていたのはわかっていた。
病室で目が覚めたとき、最初に見たのはイヴの顔だった。目の周りを真っ赤にして、驚きと喜びが入り混じった壊れそうな笑みを浮かべていた。そんな様子を見て、音無は思わず「無事でよかった」と零した。
生きていることの驚きと喜び。
心配させた申し訳なさ。
それらよりもまず先行したのが安堵だ。
イヴがあの夜を乗り切るには、運に任せるしかない。どこにいても銀騎士が現れるのだから、安全な場所など、それこそ《世界》を知る事務所くらい。他の場所など等しく安全だとは言い切れはしない。
(彼はどうしてるのかしら)
目覚めてから事務所の人間とは会話をしていない。彼らからなにかしらの報告があると思っていたのだが、まったく音沙汰がなかった。こちらから連絡を取ってもいいのだが、不気味な静けさが手を止めさせた。
そしてそれは、音無も自覚している怯えでもある。アナトリア姉妹のときに感じた未知との対峙とは異なる怖さ。奪われることに対する恐れが、音無の心にしがみ付いている。一歩踏み出した先にあった本物の悪に屈しかけている。
「どうしたんですか? 少し顔色が……」
「ちょっと日に当たりすぎちゃったのかも。やっぱり外で浴びたいからね」
「もー。無茶はダメですよ。ほら、戻りましょう?」
「そうね」
イヴに身体を少し支えてもらいながら、松葉杖を使って歩いていく。これとの生活も慣れてきていた。なくても歩けるのだが、まだ少し身体がぐらつくことがある。念のために使用していた。
入院前の数倍の時間を使って階段を下りる。この動作だけはいまだに慣れない。できていた体重移動が上手く働かないのだ。通常の動きをすると、まだ完治していない身体が支えきれずにバランスを崩す。その拍子にふらりと階下まで落ちそうになったこともあった。十数年やり続けていたこととは違うことを強いられるのは、頭でわかっていても、どうにも上手くいかない。
今はイヴの支えがあるため、比較的早く病室に戻ることができた。リノリウムの廊下も、薬品の香りも、すっかり生活の一部だ。まるで我が家に戻ってきたかのような気分で引き戸を開いた。
「お、やっと戻ってきたか」
扉の壁と平行に並んだ二つのベッド。
奥のベッドは音無が使用しているもので、降りたときの状態が残されている。
そして。
手前のベッドには、導向日葵がいた。
まだ身体中に包帯が巻かれ、露わになっている肌色か少ない。ただ見た目より傷が深刻ではないようだ。意識は良好である。
そのこともあり、音無と同じ部屋に移動してきたらしい。それが決定されたとき、音無はまだ昏睡状態であり、真実かどうかはわからない。あくまで伝え聞いただけ。本当は誰かにとって都合のいいように初めから同室であった、とも考えられる。
音無は自分自身で知っている。
導向日葵もそうだろう。
「さすがイヴ。舞桜をすぐに見つけるねえ」
「向日葵さんだって、すぐに見つけてみせますよっ」
「絶対に見つからない場所にこもってやる」
「えぇ!」
驚いた顔を見せたあと、イヴは頬を膨らませた。
「それなら、わたしだって捜してあげませんっ。泣いたって知らないんですから」
「――まあ、私が泣くかどうかはともかく、イヴが泣き出す前には出てきてやるよ。かわいそうだからね」
「そういうこと言う!」
二人の会話を聞いていると、自分たちのいる場所が、いつもの第五支部の一室のように感じられた。合成写真のように二人の姿の背後には、その景色がたしかにあるのだ。あの日常が懐かしく、そして恋しい。
他愛の話をしたあと、イヴは門限のために渋々と帰った。イヴは学校でのこと、家でのことを会話が途切れることがないように話し続けた。どんどんと暗くなる外に反して、病室はいつまでも明るさを保っていた。
今も明るさはあるが、それはあくまで蛍光灯によるもので、空気の明るさはまるでなかった。音無と導の間に会話はなく、ただ静かに時間が過ぎていく。
「私がこうしていられるってことはさ、まだやるべきことがあるからってわけじゃないんだよな」
独り言のようにそう放った導を、音無は読書を中断して見やった。彼女の姿はカーテンで見えず、ベッドに備え付いた小さなテーブルで作業をしている手だけが見えた。
「どこかの誰かが私にやらせたいことがあると思ったから、こうして生きていられるんだろ?」
「……そうね」
「私も『そっち側』になったことかあ……。面倒だなあ」
返事はせず、ただ動かし続けられる手を見続けた。
手帳とボールペン。
描いてはページを捲っていく。
「なにもできない私に、なにをやらせようって言うんだろうね。街の人を見殺しにして、今までの自分を否定するような行動をした挙句の果てが、この様だって言うのに」
言葉が途切れたのと同時に、ペンを走らせる音も途絶えた。
音無はただ、次を待つ。
「……こんなにも悔しいって思ったのは初めてだ」
やがて零れた声は微かに震え、感情を必死に押し殺そうとしているのが、ひしひしと伝わってきた。あの彼女が――導向日葵という少女が初めて見せたその感情に、心が底から揺さ振られる。
「あいつにあんな顔をさせちまった。泣くのを懸命に我慢して、必死に笑ってさ。私たちよりもよっぽどあいつの方が壊れそうだ。本当は私もあいつ側に立っていなきゃいけなかったのに。あいつと一緒に、舞桜を待っていなきゃいけなかったのに」
本の上に握られた拳に力がこもる。
誰かに負けた。
誰かに利用されている。
そんなことよりも胸を締め付ける悔しさ。
都市警察としての責務を放棄し、自分の芯を追ってまでしても届かなかった。それがどんなに辛いか。無力さと不安が重く募る。霧がかかったかのように進む道がわからなくなり、その場に留まってしまう。
心が停滞する。
だからこそ、導は語るのだ。
自分の心を曝け出すのだ。
自分の在り方を明確にするために。
「強くなりたい。大事なものを守れるくらいに」
「なろう。それで、今度はあの子のもとに帰ろう」
いつまでも続くと思っていた平穏はもうない。
平穏を取り戻すためには、それを壊す者たちと正面から向き合うしかない。どんなに深刻な悪でも、どれだけ心が擦り切れようとも、彼らを退けなければ同じ想いを繰り返すだけだ。
繰り返せるだけならばまだいい。
想いが巡るだけならば立ち直ることができる。
音無の脳裏では、あのときの“彼の言葉”が思い出されていた。
アナトリア姉妹を追いかけた末に出会った彼の言葉。
今ではそれが違う色の風となって、心を揺らしていた。
※
悪が裁かれないのはおかしい。
正義が咎められるのは間違っている。
たとえ他人に行き過ぎだと言われても、その芯が揺らぐことはなかった。
そう思い始めたのがいつ頃だったのかは憶えていない。自分の始まりがどこであったのかを改めて振り返ってみると、意外と思い出せないものだ。遺伝子に刻まれた意志が、過去から語りかけているのかもしれない。
しかし今、それが覆されようとされている。
この世界がおかしい。
この世界が間違っている。
あれだけのことがあったはずなのに、なぜかなかったことになっているのだ。多くの人が命を落としたはずなのに、巨悪がたしかに存在したはずなのに、それに立ち向かった正義でさえ無になっていた。
自身の記憶と周囲の反応が異なっていても、自分を見失う愚かさはない。記憶を否定して虚偽を肯定したところで、意志との齟齬が発生するだけだ。それならば初めからこれまでの自分を形成していた意志を尊重するまで。
揺らがないこと。
揺るがないこと。
教えはしてくれなかったが、行動で示してくれた憧れの人を思い浮かべる。彼女にとっての善悪は、いつも自身の中で決定されていた。誰かの意見や判断に惑わされず、自分の尺度で導き出していた。
それを自己中心的だと言う者もいた。
協調性がないと批判した者もいた。
しかしそれでも彼女は折れずに、正義を貫き続けた。
彼女のようにありたいと憧れ、彼女のようになりたいと願ったこともあった。
しかしいまは違う。
彼女を奪った悪を討ち取ることで、彼女を超えたいと強く思っている。
「任せてください、先輩」
羽切亜芽は“それ”に向かって呟いた。
深い青色をした宝石。
見つめれば見つめるほど、自分の中の自分が浮かび上がっているよう。
だからなのだろうか。
進むべき道が見つかったのは。
導いてくれるという話は、あながち嘘ではなかったらしい。