10 その真実は災厄
それは赤い記憶。
すべてを飲み込む「赤」から逃げ、その「赤」から守り、そして辿り着いた先にも「赤」は現れた。あのときからそれは絶望の象徴となっている。
その熱を肌はまだ憶えている。
焦げた臭いを思い出すことがある。
その中にいた少女を夢で見ることがある。
天使のような白い翼を広げた彼女を。
悲しそうに微笑むあの子を。
月宮はゆっくりと瞼を開いた。逃げるように。
光がほとんどない場所にいるようで、視界は薄らとしている。両手は拘束され、能力が封じられている。音や質感で鎖だということがわかった。足も足首で拘束されている。十字架にでも磔になっているらしい。
蝶番の軋む音がした。人の気配がする。
「誰だ」
「あれ、起きてたんだ」
その何者かはそう言いながらも歩くのをやめなかった。月宮が起きたことに驚いた様子はなく、むしろこのタイミングを知っていたかのようだった。
歩く音がなくなると、途端に光が差し込んだ。月宮は思わず目を細めた。カーテンが開かれ、月の青白い光が差し込んでいた。舞う埃が星のように輝いている。
窓の形や部屋の調度品などからして、どうやらここは洋館らしい。荒廃はしていないが、それでも充分な古さを感じさせる。長テーブルも、それを囲むように並んだ椅子も、燭台も、暖炉も、絨毯も。
だが、自分がどこにいるかよりも重要だったのはその声の主だ。カーテンを開け放った人物は、椅子の背もたれを掴むと、月宮の前に置き、そこに腰を下ろした。
月宮はその人物を――その「黒」を見下ろす。
「星咲……夜空……!」
「そう。僕の名前は星が咲く、夜の空で、星咲夜空だ。よく覚えていたね」
星咲夜空という魔術師を、月宮が忘れるはずがない。
姫ノ宮学園を崩壊させたどころか、そこの人間を使った魔術を発動した男。ただ魔術を発動したいがために、ほぼ全員の命を奪った。その言動の真偽の境界は曖昧で、正しさも誤りも混ざり過ぎて黒くなってしまっている。
掴みどころがないのではなく、掴むことに拒絶を覚えてしまうほど。
「またお前の仕業だったのか」
「勘違いしないでほしいなあ」星咲はへらへらと笑う。「『また』じゃなくて『ずっと』だよ。『ずっと』僕の仕業だ。きみの周りで起きていたことはね」
「な、に……?」
「姫ノ宮学園に救いの手を伸ばしたのも、ミゼット・サイガスタの背中を押したのも、裏組織に仕事を与えたのも、アナトリア姉妹を導いたのも、全部、僕がやったことだ」
その言葉に月宮は声が出なかった。
驚いたからじゃない。
星咲の言葉がまるで「利用したわけじゃない」と言っているようだったからだ。あくまで彼らの意思だったと。
「きみにはいろいろ知ってもらう必要があったんだ。魔法の域を、精霊の力を、冥界の冷たさを、古の時代を」
「なんのために」
「《理想の世界》を創るため」
ヴォルクも同じようなことを言っていた。月宮の力を使い、この世界を破壊し創り直すのだと。失敗しても、何度も繰り返し、理想に至るのだと。
まるで御伽話。
まるで神話。
誰が聞いても、できるはずがないと断言するはずだ。あまりにも規模が大きすぎる。あまりにも人間の枠を超えている。世界を創り直すなど、人間の所業ではない。
「できるはずがない――そう思ってるんだろ?」
「当たり前だ。俺の持つ力はそこまで大きくなんかない」
たしかに月宮は「神の力」を使える。ただしそれは「神だと名乗った者から渡された力」であって「神になれる力」ではない。たしかに魔術や《欠片の力》など「破壊」することはできる。だが、その規模は決して広くはない上に、人間にはその効果はない。
武器を生み出す「創造」も、それだけしかできない。生物や植物を創り出すことができなければ、月宮が構造を知っていて、月宮よりも小さなものしか現出できない。
仰々しい名前なだけで、本当は魔術師にも《欠片持ち》にも劣る力だ。
ヴォルクたちもその欠点を突いた。
星咲もそれを知らないわけじゃない。
それでも彼らはその力を信じている。
瞳が揺らぐことはない。
「いいや、大きいよ」星咲は帽子を手で弄ぶ。「小さくしているのはきみだ。きみという『器』が『人間』であろうとするために、宿す能力も小さくなってしまっているだけなんだ」
「人間であろうとする……?」
「そう。きみは恐れてる。怖がっている。自分が得た力の大きさを知っている。だから魔術師や《欠片持ち》と変わらない『程度』に『調整』してしまっている。そうだろ?」
「そんな器用なことができるか。お前が言うように『大きな力』だとするなら、俺が調整できるはずがないだろ」
「否定しても、きみが調整したという事実はある。姫ノ宮学園の一件――僕が発動した魔術に対して、きみは普段の出力では壊せないと理解すると、その力を強めて相殺しようとした。精霊の欠片を相手にしたときもそう。《冥界の巫女》のときも、アナトリア姉妹のときも。魔術師や《欠片持ち》以上だと理解したとき、きみはそれを上回るように調整してきた」
流暢に紡がれる言葉が、床を照らす月の光のように、月宮に浸透していた。青白い事実は受け入れるまでもなく、ずっと自分の中にあったものだ。
認めたくはないが、認めるまでもない。
目を背けていただけのこと。
星咲が背もたれに体重を預けると、木の軋む音が室内に響いた。月宮の無言がその音を妨げなかったために。
「そして、きみの勘違いをここで正しておきたい」
「勘違い?」
「僕はきみが『人間であろうとする』と言ったけど、これは『大きすぎる力では人間の枠を超えてしまう』と言っているわけじゃないよ」
逆だ、と星咲は言う。
「実際は『なる』でなく『戻る』ことを拒絶しているんだ」
「ふざけるな。それじゃあまるで――」
「きみは人間じゃない」
否定はいともたやすく肯定された。
かたちになる前に潰された。
「どういう……ことだ」
「そのままの意味だよ」星咲の瞳は揺らぐことなく月宮に向けられる。「当然のように受け入れているようだけど、人の身に『神の力』なんて収まるわけないだろ。《冥界の巫女》でもぎりぎりだ。あれは《暴食》が自らの意思で収まっているからできることであって、それ以上の力を人間ごときが制御できるわけがない」
どうしてそこまで知っているのか。
その驚きを飲み込み、月宮は反論する。
「それが理由だとするなら、こうも考えられる。俺が使っている力が『神の力』じゃない。人の身に収まる力だったってことだ」
初めから疑わしかったことだ。
月宮が能力を使えるようになるきっかけになった男も、ただ神と名乗っただけでしかなく、本当にそうだったかなど誰にもわからない。
そんな反論も想定したのだろう。星咲は瞼をただ静かに閉じていた。
しばらくの沈黙のあと、
「きみ、母親のこと憶えてる?」
と唐突に切りだした。
「それがなにか関係あるのか」
星咲は構わず続けた。
「母親がいた記憶はあっても、母親の『顔』の記憶はないんじゃない?」
「ないわけな――」
思い出そうとして、月宮の思考は止まった。たった二年ほど会ってないだけの母親の記憶がなかった。正確に言えば『ある』のだ。ただそれは『ある』だけで、母親という存在を知っているだけで、星咲に言われたように『顔』がない。
(な、んだ、これ……)
だから困惑を隠しきれない。
黒く塗り潰されているのならどんなによかっただろうか。
シルエットが描ければどんなによかっただろうか。
月宮の記憶にいる母親は「空白」だった。記憶の映像で追う彼女の姿は「無」でしかなく、月宮はそれを母親だと思ってしまっていた。
「父親の記憶なんてもとよりない。意識もしたことないだろう。きみに必要だったのは『なぜこの街にいるのか』だけなんだからね」
言われなければ、いつまでも月宮は「空白」を母親だと思っていた。父親の記憶もそうだ。言われて初めて、それがないことに気付いた。
過去が崩れていく。
そして記憶の始まりが明確になっていく。
「きみという存在は偽りだ。月宮湊という人間はこの世界にはいない」
頭の中を直接触れられているかのような激痛の中で、それでも月宮は星咲の言葉を聞き、答えに辿り着こうとしていた。
記憶の始まりにいるのは誰か。
自由に記憶を作れるのは誰か。
過去が崩れたことで、それに繋がる記憶もまた断絶していく。自分を作り上げていたはずの過去がなくなり、今を保てなくなっていた。これまでの行動と思考が、本当に「自分」だったのかがわからない。
始まりが偽りだからこそ、そこから続いたものも偽りに感じる。
誰がなんのために、なにが誰のために。
砕けていく記憶と自己。
その一つひとつがガラス片のように輝き、その景色は星空のようだった。月宮はそれを見上げながら、手を伸ばした。
本物を見つけるために。
「じゃあ俺は……。俺はなんなんだ……」
「きみは人間じゃない」星咲の言葉は酷く優しい。「そして『神の力』をその身に宿すことができる。魂を対価は正しくもあり間違いだった。人間としての魂を削るたびに、きみは『それ』に戻っていくんだからね」
「だから! 俺はなんなんだよ!」
その一言が欲しい。
もう自分では答えを見つけることはできない。
自分の中は他人でできるのだから。
「《終焉の厄災》――それがきみの正体だ」
全身の力が抜け、思考が止まっていく。
(俺が《終焉の厄災》だって?)
かつて世界を絶望の淵に追い込んだ災害。
多くの信仰者を生み出し、殺戮と虐殺を呼んだ現象。
その実態は、まだ解明されていない。
それが人間の姿をしていたなんて考えられない。考え付くはずもない。だが月宮の視界には多くの死が映し出されていた。血の臭いを、破壊の音を、月宮は知っている。
綺麗な記憶の中に隠されていた淀んだ記憶。
その記憶の最後にいたのは、アイリスだった。
偽りの始まりにいるのもまた、彼女。
「《終焉の厄災》は神判だ。それそのものが『神の力』であり、だからこそきみは『神の力』を使うことができるんだよ」
アイリスたちに作られ、星咲に導かれる。
否定や反抗、抵抗や拒絶が正しいのかもしれない。けれどもそれですらアイリスの意向であり、星咲の思惑なのだろうと思え、なにもできない。
酷い浮遊感。
水の中にいるような息苦しさ。
なにかに掴まなければ溺れてしまう。
偽りの記憶。
崩れる自己。
もがきながら、自分を保つための「欠片」を探した。
どんなに小さくてもいい。
僅かな温もりでもいい。
偽りだったとしても、作られたものだとしても、用意されたものだとしても、どこかに「月宮湊」だった証があるはずだ。
たとえそれが悪夢だとしても。
(美、空……)
月宮が赤い記憶を掴もうとしたとき、
「そういえば、火衣操に子供たちを救えるかもしれないって助言したのも僕だ」
と、星咲が見計らったように告白した。
伸ばした手が止まり、月宮の意識は外側に向いた。
「星咲いぃぃ!」
急激に湧き起こった怒りが、すべてを掻き消した。
火衣操は「春の大火災」が起きた原因の一人だ。何人もの少女を焼き殺し、その最後の標的の一人が秋雨美空だった。その火炎は多くの「命」と、そして「心」を焼き尽くした。月宮も、秋雨も、そして火衣自身でさえ。
まるで救いのなかった事件。
けれども、救えたかもしれない事件でもある。
もしも星咲の言葉で、火衣が狂ってしまったのだとしたら、月宮は星咲を許すわけにはいかない。
手足を拘束する鎖を引き千切ろうと力を込める。いくら武器を創り出しても掴むことができずに、ただ床に落ちていく。少しでも持つことができれば、鎖など壊せるのにそれができない。
歯を噛み締め、星咲を睨む。
手が砕けてもいい。
足が折れてもいい。
ただ目の前にいる魔術師を殺すことができるのなら、たとえ自分を失ったままでも構わなかった。
月宮の怒りに対して、星咲はただ笑みを浮かべる。
「僕が許せないだろう? 憎いだろう? 殺したいだろう?」
それを世界に向けてほしい、と星咲は言う。
「今度は堕ちてもらうよ。そのために姫ノ宮学園の人間の魂を使って『鍵』を作ったんだ」
途端、月宮の身体から黒い霧が溢れ出した。内側から喰い破られるかのように身体が張り裂けそうだった。それに、「神の力」を使ったときと似た感覚。しかしそのときとは違い、そこに自分の意思が存在しない。
心がなにかに支配される。
黒々しいなにかに。
月宮は声にならない声を上げる。それは月宮の声だけじゃない、老若男女さまざまの声が入り混じった悲鳴のようだった。
黒に支配される。
死に飲まれる。
悲しみが。
苦しみが。
妬みが。
恨みが。
月宮の身体と精神を塗り潰していった。
※
「皮肉なものだよね、湊くん。きみが秋雨美空にしたことが、まさにきみがされていたことなんだから」
星咲は帽子を深く被り、視線を床に落とした。
叫びと瘴気が月明かりに照らされていた部屋に充満していく。どんなに神秘的な青白さであっても、混沌とした黒の前では無意味だ。
(今日も星が綺麗だった)
少し欠けた月と、それを囲む星々。
目を閉じ、今日の夜空を思い描く。
月宮を浸食する「闇」をその身で感じながら。




