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悠久の世界は月のために  作者: 鳴海
第3章
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4 その右手は愛憎

 暑い日が続けば続くほど、茜奈にとって眼福の日々が続いた。薄着の女子を見つけるたびに胸が躍り、一生忘れることがないように目に焼き付ける。「食べてしまいたい」という気持ちを抑えるのにも一苦労だが、それでも見ずにいられなかった。


「私は夏が好きだ。無防備な女の子がいっぱいいるからね。でも冬が嫌いってわけじゃないぞ。実は厚着女子も好きなんだ。あのマフラーで髪が膨らんでいる子を見ると、もうね、そこに顔をうずめたくて仕方なくなるんだ」


「うぜえ……」


 隣にいる茜夏は、この手の話に興味を示さない。おそらく彼の目にはどんな人間も同じに映っているに違いない、と茜奈は少し思っていた。そうでもなければ、男子が可愛い女子に目移りしないはずがない。


 今からでも高校に行くべきなのだ。当たり前の生活を送ってこなかったために、当たり前の感覚が育たなかった。裏組織では恋愛感情や異性への想いなど不要なものだ。そんな感情があっては、惑わされ、計画に支障が出てしまう。


 茜夏は真面目だからこそ、それに従って生きた。茜奈は自由奔放に振る舞った分だけ、茜夏が裏組織に染まっていった。


 だからこそ、茜奈はどうにかしたいと考えていた。


 しかしなかなか妙案が見つからない。


 茜夏を説得できる言葉も紡げない。


 誰かに相談すればいいのだが、しかしそれではなにかが違う気がした。他人の知恵を借りてしまっては、恩返しにはならない。


 だから今はそれが思いつくまでの間は、これまでどおりの生活を送っていく。茜夏に甘えながら、その優しさに縋りついていく。


「なにか見つけたか?」茜奈は訊ねてみる。その報告が今までなかったのがすでに答えなのだが、話題を変えるためにあえて訊いた。


「特には」


 この街には不穏分子が存在している。茜奈たちは今、その人物たちを追っていた。いつもならば、それなりにこなす仕事だが、今回はそうはできない。


 なぜならその不穏分子たちが先日天野川高校を襲ったからだ。あの学校には月宮湊たちが通っている。月宮や如月たちにとっては侵されたくはない領域だろう。秋雨にとっては月宮たちと長い時間過ごせる大切な場所だ。


 不穏分子たちはそんな天野川高校に血の惨劇をもたらした。


 それを許せるはずがない。


 そんなことを考えていたとき、茜奈の直感が近くに可愛い女子がいると告げた。薄着の女子を捉えつつも、その直感が反応を示した相手を見つける。


(やはり!)


 その瞬間、茜奈は走り出していた。一刻も早くその身体に抱きつくためだ。匂いを嗅ぐため、体温を感じるため、感触を確かめるためだ。


「秋雨ちゃーん!」


「えっ?」


 きょとんとした目で茜奈を見る秋雨。その姿がまた愛らしく、抱きつかざるをえなかった。これを見て抱きつかない猛者がいるとは思えない。


 勢いに負けて倒れそうになる秋雨を、茜奈は抱き締める力を強めることで守った。


「せ、茜奈さん?」


「そうだよ、秋雨ちゃん! ああ、なんていい匂いなんだ。柔らかいし、温かいし、もうたまらん! もっと吸って、もっと感じて、秋雨ちゃんを蓄えておかないと」


「なんですか、それ」と秋雨は笑う。


 秋雨美空は茜奈の振る舞いに怒ったりしない。いつも笑って許してくれるのだ。だから茜奈は思う存分に彼女を堪能することができる。月宮も秋雨が嫌がらないことに横槍を入れてきたりはしない。


 秋雨美空だけが、茜奈の心を埋めてくれた。


 かつて可愛い女子を食べていたときの心を。


 もちろん男も食べていたのだが、それについてはあまり思うところはなかった。あれは反対に、心を埋めるためにしていたことに過ぎない。


 今は茜夏が傍にいる。


 それだけで充分だった。


 五分くらい秋雨を抱き締めて満足したため、彼女を解放した。顔に汗が見えたが、文句の一つも言わないあたりさすがである。


「すまなかった。そしてありがとう!」


「どういたしまして」秋雨は微笑んだ。「今日はお休みですか?」


「いいや、仕事だ。休みなのは秋雨ちゃんの方だろう。物騒な事件が起きているのに、一人でなにしているんだ? それともどこかに月宮くんが?」


「おつかいです」秋雨は持っていたビニール袋を持ち上げて見せてきた。「月宮くんはいませんけど。事務所で会ってないんですか?」


「今日はまだ見てないな」


 今日どころか、ここ最近月宮とまともに会っていなかった。顔を見ることはあっても、ほとんど話すことはない。事務所の仕事というのは、不透明なものばかりだ。だから彼が――彼らがなにをしているのか、茜奈にはわからない。


「しかし秋雨ちゃん、天野川高校が襲撃されたというのに、おつかいなんてしていていいのかい?」


「たまたま天野川高校が襲われただけって聞きましたし」


 私が狙われているわけじゃないですから。


 秋雨は平然とそう言った。


 あの月宮港と一緒にいるだけあって、只者じゃないとは常々思っていた。その異常性もどこかで感じていた。今までは気にするほどでもなかったが、今の発言は秋雨美空という一人の少女が、どこに立っているのかを知るのに充分なものだった。


 茜奈が月宮や秋雨に惹かれるのは、おそらく「人間らしくない」と思っているからだ。二人ともどこか作り物のように感じられる。秋雨は感情豊かに一途で、月宮は感情乏しく一途である。異なっているようで同じ、同じのようで異なっていた。


 秋雨は感情表現が豊かで周りからの共感を得やすいだろう。しかし月宮はその一途さに共感できなければ、機械のような冷たい存在に思えるかもしれない。


 ただ茜奈から言わせれば、月宮の方が人間らしい。彼も茜夏と同じだと考えられるからだ。必要なもの以外を取り除いてしまったのだ。


 事務所という組織に身を置き続けるために。


 身を粉にし、心を削った。


 その過程が想像できる。


 秋雨はその過程が想像できない。百戦錬磨というわけでもないはずなのに、この余裕が湧き起こる意味が理解できない。平穏は崩されたはずだ。自分の周りが必ず平和であるはずがないとその肌で感じたはずだ。


 それでも彼女は、自分が狙われているわけじゃないと言う。


 それがいかに的外れな言葉か気付いているのか。


(でも、可愛いから許せる!)


 とはいえ、この街が危険な状態であることに違いはないため、秋雨にどんなに余裕があろうとも、ここは家に帰すべきだ。


「なにが起きるかわからないからね。たとえ狙われてなくても巻き込まれる可能性はある。きみが傷ついたら月宮くんが可哀想だ」


「そ、そうですかぁ」秋雨の顔が紅潮する。やはり彼女の中では自分の危機よりも、月宮の方が上であるらしい。


「なにかあっては不味いから、私が送り届けてあげよう」


「てめえが一番あぶねえ」


 頭部に軽い一撃を受ける。声で茜夏とわかるため、わざわざ振り返ることもしない。秋雨に向いたまま続ける。


「迷惑でなければ、だが」


「全然迷惑じゃないですよ。よろしくお願いします」


「――いや、よろしくできないみたいだ」


 茜奈はふいに感じ取ったその気配の主に目をやっていた。


 黒いコートを着た、銀色の髪の男。


 その容姿だけで言えば合格だ。だが、その雰囲気は欲を減退させる。敵意にも似た悪意。攻撃的であるのに相手を捕らえて逃がさない。底なし沼のような、果てない脅威。


「秋雨美空を渡してもらおう」


 魅力的な声がまた、心を優しく撫でる闇のようだった。


 瞳に浮かぶ欠片。


 返答次第では、と告げている。


「茜夏。秋雨ちゃんを頼む」


「一人でやれるのか?」


 いきなり核心を突いてくるあたりはさすがである。茜夏の言うとおり、不安は拭えない。簡単に勝てるはずも、もしかしたら勝利することもできないかもしれない。それだけのものを銀髪の男から感じる。


 裏組織で仕事をしていたときでも、ここまでの相手に出会うことはなかった。


 近しいと言えば、やはりウィンクだろう。彼女も底知れぬものを感じさせた。事実、底知れぬ相手であり、惜しくも右手は届かなかった。


 今回も届かないかもしれない。


 だが、届かせなければならない。


 彼が大事にする彼女を守るために。


「ああ。やってみせる」


 茜夏は頷くこともなく、秋雨を連れてこの場から去っていく。


 銀髪の男は動かない。


「待っていてくれるとは意外と優しいんだな」


「いい機会だからな。『冥界の巫女』がどれほどのものか確かめさせてもらおう」


 聞きなれない単語だったが、なにを指しているのかはすぐにわかった。月宮が茜夏の様子を見に来たときも《冥界》や《悪魔》などと言っていたのを憶えている。やはり「外側の力」であるらしい。


 かつてはこの力を忌み嫌っていたが、そのおかげでいろんなものを手に入れられたことに感謝していた。


 そしてまた一つ感謝をする。


 この力があるおかげで、時間を稼げることに。


 茜奈は右手の手袋を外して投げ捨てた。誰かを喰おうとするのは久しぶりだ。それだけに右手が疼いた。


「一つ訊きたいことがある」


「なんだ?」


「きみの名前はなんだ? その様子だと私の名前も知っているんだろう。そっちだけ知っているのは不公平だ」


「ヴォルク・ルドファイン」


 名前が告げられた同時に、彼の欠片が強く光った。


 それに呼応するように右手が動き出す。茜奈がこれまで生き延びられているのは、この右手があるからだ。銃弾や《欠片の力》といった攻撃に自動で反応するため、茜奈が気付けない、見えない、感じられない攻撃であっても、右手が勝手に動き守ってくれる。


 難点なのは、どんな攻撃を受けているかまではわからないことだ。自動防御はしてくれるが、それを解析してくれるわけじゃない。


 ヴォルクの《欠片の力》は見えない。やりにくい相手だ。


 しかし茜奈は長年この奇妙な口と過ごしてきたためか、右手が反応を示したその瞬間に動き出すことができる。そのため右手の動きについていけない、という事態には陥らない。だから茜奈を見る者は、茜奈が超反応をしていると思い込む。


 そしてその思い込みによって、相手を退けさせることができるのだが、銀髪の男はその様子を見せない。


 勝つ算段があるのか。


 あるいは勝つ気がないのか。


 どちらにせよ、五体満足で凌げる確信があるようだ。「冥界の巫女」という単語が出るのだから、もちろんその力のことも知っているだろう。


 出会ったこと自体は偶然だ。そのため、偶然出会ってもいいように特定の相手の対策を練ってきていると考えられる。


 特定の相手。


 おそらく個人ではない。


 周囲がざわつき、見物人が増えてきた。不思議なもので、人間というのは「このぐらいなら大丈夫だろう」と高を括る。ある程度の距離を保ち、何十人で固まっていれば、そこが危険だとしても、その危険を見るために留まる。


 スリルを求めているのだ。


 日常から少し外れたものを見たいと。


 しかしそれは愚かな行為。


 好奇心で留まるのではなく、危機感で逃げるべきだ。


「さすがは巫女だな。不意打ちも無駄か」


 ならば、これはどうだ。


 ヴォルクの手が見物をする群衆に向けられる。何人かが声を上げ、逃げようとした。だがなにも起こらない。電撃も爆発も、なにもない。群衆は呆気にとられ、なにかが起きているのではないかと周囲の確認を始める。


 茜奈もその様子を窺った。自分の身に《欠片の力》が向けられたのなら右手が反応を示しているはずであり、逆に言えば右手が反応しなければ自身に害が及ぼうとしていない。


 つまり――。


 小さな悲鳴が聞こえ目をやれば、人垣を掻き分け十数人の男女が前にのめり出てきた。見るからに普通だ。ただの一般市民だ。


 その目を除いて。


 血走った目は、明らかに茜奈に向けられていた。そして一人が走り出すと、それに合わせて全員が茜奈に向かってきた。


 これはどうする、とヴォルクの好奇心を感じさせる声が聞こえてきた。


「どうするもなにもない」


 茜奈は躊躇うことなく、向かってきた一人目をその右手で喰った。主を失った衣服が、羽毛のように地面に落ちていく。


 耳障りな悲鳴が上がった。だが人垣が消えることはなかった。まだここにいようとしている。その意味を知らぬまま、傍観し続ける。


 気にせず、二人目も喰った。


「いいのか、こんな大勢の前でその力を見せて。それは秘匿すべきものだろう?」


「私は隠そうとは思っていない」向かってくる者を喰いながら、茜奈は答える。「裏の組織や茜夏、事務所がそう言っているだけだ」


「今の彼らには、お前が敵だ。《欠片持ち》でもない能力者。常識外の異端。忌み嫌われ、拒絶され、隔離される存在」


「別に構わないさ」最後の一人を喰い終える。「本当の私を見てくれる人がいる、それだけで充分だ。他の人間のことなんか知らん」


 ヴォルクの言うとおり、野次馬の目には茜奈が敵に見えているはずだ。《欠片持ち》でないだけでなく、一般市民も消し去ってしまっている。都市警察に通報されているに違いない。


 だが、それは瑣末な問題だ。たとえ都市警察が相手になろうとも、ヴォルクが秋雨美空のもとに辿り着かなければ問題はない。


 それよりも頭にあるのは、ヴォルクの能力ことだった。洗脳系の能力だったとして、どうして喰った彼らが選ばれたのか。他にもたくさんいる。年齢もバラバラで、人垣の最前列にいたわけでもない。


 だからこう考える。


 選ばれたのではなく、彼らにしか効果がなかった。


 なにかしらの共通点があり、それにヴォルクの能力が反応したのだ。おそらくは群衆のほとんどがヴォルクの能力を受けているのだろう。効果が出ていないだけ。


 だが、洗脳系と思えないでもいた。もしそうなら茜奈たちが気付かぬうちに、秋雨に《欠片の力》を使えばよかったはずだ。だからあのときの秋雨も効果の範囲外にいた。


 確実な洗脳ができるわけじゃない。


 思いのままに操ることができない。


 しかしそれでも茜奈に使ってきたということは、茜奈は効果範囲内にいた。身体的特徴、年齢が関係ないのなら、あとは「見えない個所」だ。


 たとえば感情。


 たとえば思想。


 そういったものに作用するのかもしれない。


「少し見くびっていた」


「私をか? それとも《冥界の巫女》をか?」


「お前のことだ。直情的かと思えば、深い思考をし、状況を冷静に分析している」


「他にやる奴がいないだけさ」


「なるほど」ヴォルクの瞳が光る。「ならば、やり方を変えよう」


 瞬間、茜奈の懐までヴォルクは迫っていた。


(な、に――!?)


 ヴォルクの手が迫る。至近距離で《欠片の力》を使い、茜奈を洗脳しようとしているのだろう。避けられなければ、どんな異端でも意味はない。


 右手が反応し、ヴォルクを喰おうとする。


 しかし、彼の手はすでに届いていた。


「どうする、《冥界の巫女》」


 腕の付け根に触れられた感覚があったのとほぼ同時に、その感覚が消え失せた。その代わりに、アンバランス感と激痛に襲われる。


 それまでそこにあったものが、ない。


 あって当然のものが、ない。


 それは宙を舞い、赤い液体を撒き散らしている。


 かつてない痛みに、茜奈は地に膝を着けてしまう。目の前に敵がいるのに、痛みでどうすることもできない。傷口を抑えるより、地面を掴んだ。


「案外脆いんだな」


「……悪いが、これでも人間なんだ」


 なぜだか反撃ができないでいた。身体が痛みに負けているのだろうか。意思はあるのに、まるで言うことを聞かない。


 できるのは、ヴォルクから目を離さないことだけだった。


 見下ろす彼を、見上げる。


「いいや、違う」ヴォルクは言う。「これで人間になった。周りにいるその他大勢と同じになれたんだ」


 それは、いつか夢見ていたこと。


 こんな手さえなければ、両親と暮らせていた。祖父母を失うこともなかった。どうして自分だけがこんな目に遭わないとならないのか。


 普通になりたい。


 普通でありたい。


 そう願ってきた。


 だが、それはいつかのことであり、今ではない。もうそんなことを考えたことはなかった。普通に堕ちてしまえば誰も守ることができない。普通であろうとしたがために、なにかを救えなくなるかもしれない。


 自分よりも、誰かを想う。


 自分のためではなく誰かのために。


 あの右手は必要だ。


「もうお前に興味はないが、一度でも異端になった者はまた繰り返す可能性がある。ここで果ててもらう」


 胴体から右腕を奪い取ったその手が、茜奈に迫る。それなのにやはり身体は動こうとはしなかった。どうにかしようと動きたいと思うほどに、それに反して身体は動かない。


 だからなのか、茜奈は観察と考察を始めていた。


 ヴォルクは《欠片持ち》だ。原則として一人に一つの能力しか有しない。一般人を茜奈に向かわせた力、茜奈から自由を奪った力は同一のものだろう。どちらも動きを制御するという意味では同じだ。一方は動かされ、もう一方は動きを封じられた。


 そして、その力は他者を操るだけじゃない。急接近を可能にし、右腕を宙に舞うほどの勢いで奪い取ることもできる。


 今まさに、ヴォルクの《欠片の力》を受けているためか、ある仮説がふと頭に浮かびあがった。


(すべてが、逆転している……?)


 動かない人間を動かし、動きたい人間を留まらせ、停留が行動に、定着を分離に変えた。そう言葉で整理すれば、共通項が見えてくる。


 群衆の中から不特定多数が選ばれたのも、おそらくは彼らが茜奈に対して敵意を抱いていたからだ。人間というのは「数」に紛れようとする。みんなが見ているのなら、自分も見ていようと。


 それに、人間には自制心がある。ただ心のままに行動せずに、自分にとって都合の悪いことは選択しない。たとえ「正義の心」であっても、潜めておく場合が時としてあるものだ。


 ヴォルクはその自制心を利用した。まさしく逆手にとった。心を抑えようとする力を逆転させ、心を剥き出しの状態にした。


 茜奈が動けないのも、ヴォルクから離れたいという意思が逆転しているからだ。彼の《欠片の力》の効果を受け、この場に留まろうとしてしまう。


 しかしそれがわかったところでどうしようもないのも事実。いくら留まりたいと考えても、身体は動かない。頭で考えただけではヴォルクの能力からは逃げられない。心から「留まりたい」と叫ばないかぎりは決して動くことはできない。


 それでも茜奈は抵抗を試みる。能力が途切れる瞬間があることを願って。


 徐々に近づくヴォルクの手。


 冷たい眼差しは揺らがない。


 だが、その手が急に動きを止めた。


 あと数ミリほどの距離で、都合良く、運良く、停止した。


「おい、『欠片』。それ以上、私の依代に近づくな。喰い殺すぞ」


 ヴォルクの視線も、そして茜奈の視線も、その“彼女”に向けられた。


 一言で表すなら、黒い影。口と肌色の右腕以外は、すべてが黒い。髪のような部分が別の生物のように揺らめいている。


 そしてその左腕は、いくつもの黒線で茜奈の右肩と繋がっていた。


 故に茜奈には彼女の正体がすぐに理解できた。


「これはこれは」ヴォルクは動じない。「まさか《冥界の巫女》と対面できるとは思わなかった。不完全とはいえ――」


「不完全でも、貴様など相手じゃない」


 黒い影は輪郭を陽炎のように揺れながら近づく。ヴォルクは腕を引っ込め、茜奈から離れた。その間に黒い影が割って入る。


「依代に手を出さないのなら、その“存在”だけは見逃してやる」


「見逃す――か。たしかにそうしてもらえると助かる。用事のついでに、壊そうと思っただけだ」ヴォルクは茜夏たちが逃げた方へ歩き出す。三歩ほど歩いたところで、足を止め茜奈を一瞥した。「動きたければ“諸悪の根源”に頼むんだな」


 余計な一言を残し、ヴォルクは再び歩き出す。待て、と呼び止めたかったが、そうできなかった。手を伸ばそうとしても、やはり動かない。


 ただその背中を見ていることしかできなかった。


 突然、視界が黒く染まった。すっ、と見覚えのある口が現れたことで、彼女が目線を合わせたのだとわかった。


「徐々に自由になっているようだけど、まだしばらくかかるな」


 これまで一度も言葉を発しなかった口から声が出ているのは不思議な感覚だった。もしかしたら話さないだけだったのかもしれない。


(今ならキスしても喰われないだろうか)


 しかし身体は動かない。


 妙に色っぽい唇をしていると思えば、まさか本当に女性の口だとは思っていなかった。憎悪の対象ではあったものの、あまりに魅力的すぎて理性が吹き飛びそうになったこともあった。柔らかそうなのに触れられない。それにまた惹かれた。


 自制するために手袋をしているのかもしれない、と茜夏に説明したこともあったが、彼からの返答はもちろん「馬鹿らしい」だった。


 そんなことを思い出していると、身体が軽くなった。


「もう動けるだろ。能力は喰ってやった」


「本当だ」


 動作を確かめるために、とりあえず彼女の胸を左手で触れようした。だが、実体はなかった。煙のように掴めなかった。


「いつも見ていたが、やっぱお前馬鹿だな」


「最高の褒め言葉だよ」


 いざこうして対面すると、滞留していた言葉を吐き出すことができなかった。その機会があるのなら言おうとしていたものが、なに一つ消化されない。


 気持ちの整理がつかない。


 それは、ヴォルクの言ったとおり彼女が「諸悪の根源」だからだとしても、それと同じくらい感謝をしているからに他ならない。


 だからきっと、下手なことを告げて関係を壊したくはないのだ。


「右腕もそのうち繋げてやる。次はもっと上手くやれよ。私の助けに頼らないでさ」


 見れば、茜奈と彼女を繋げる黒線の太さと数が大きくなっていた。痛みもない。感覚的には右腕がある状態と変わらない。


「あなたがもっと上手くやってくれればいいだけだ。私の身体にいるならそれくらいはやってくれ」


 そう言うのか、と《冥界の巫女》は含みのある言い方をした。


 口の位置が上がり、彼女が立ち上がったのだとわかった。振り向き、ただ黒い影だけが茜奈の視界にはあった。


「なにをしてるんだ?」


「周りの連中から、お前に関する記憶を喰ってるんだ」


「そんなことはいいから、ヴォルクを止めてくれ」


 唇を間近で見たせいで失念していたが、今は悠長に話している場合じゃない。彼女は見逃してしまったが、茜奈には見過ごすことはできない。


 一刻も早く、ヴォルクを止めなければ秋雨が危険だ。


 それに茜夏も。


「やっとそれを言ったか」と呆れた調子の声。「問題ない。あれは所詮『欠片』だ。私に勝てないように、自分以上の奴には勝てない」


 月宮のことを言っているのだろうか。《欠片持ち》以上となると、この街で思いつくのは自分か月宮くらいのものだった。


 茜夏が連絡してくれたようだ。


 それをどうして《冥界の巫女》が知っているのかは定かではない。人智を超えた存在であるため、街にいる人間の動きくらいならば把握できるのかもしれない。


 一度出会った美少女がどこにいるのかだいたいわかるのと同じだろう、と茜奈は結論付けた。


「そうか……。彼なら安心だな」


 月宮なら自分よりも上手くやるだろう。特に彼は誰かを守ろうとするときに最も力を発揮するタイプである。わかっているのかわかっていないのかで言えば、きっと彼はわかっていないと茜奈は思う。


 それに今回の守る相手のことを考えれば、月宮は本気を出さざるをえない。誰を相手にすることになっても逃げ出さなかったのは、ひとえに彼女を守ろうとする意志が強かったからだ。


 彼の役に立てたのならよかった、と茜奈は胸を撫で下ろした。月宮が秋雨のもとに到着するまでの時間稼ぎができた。


 しかし続いた《冥界の巫女》の言葉に、意表を衝かれる。全身が震え、やがて吹雪の中に身を投げ出しているかのような寒さに襲われた。


「彼? 誰のことを言ってるんだ。言うなら“彼女”だろ」

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