9 その終結は無味
「銀色の液体を操る」リノのその能力は、長月に想像していた以上の過酷さだった。その頑丈さに手こずらされ、ようやく破壊したと思えば次のハティが当然のように現れる。なまじ倒せてしまうがために、復活されるというのは精神的な負荷が大きい。これならば、最大の努力をして一体を倒せた方がまだましだ。
四体目となるハティが崩れ、液体となり、そこから五体目のハティが出現する。長月は一向に月宮と合流できず、それどころかリノにさえ近づけていない。
それはまた、月宮も同様だった。
彼はハティをその能力で破壊できる。回避などを考えずナイフを一振りすれば液体に戻すこともない。
しかし彼の周りには長月とは違い、数体のハティが常に待機している状態だ。巨体であるために少ない二、三体でしか攻撃をしかできず、リノが次々に作り出すハティが順番待ちになっているのだ。どんなに完全な破壊を繰り返しても、リノをどうにかしないかぎりはハティが生み出され続ける。
故の停滞。
破壊の速度を生産速度が上回っているため、前に進むことができない。無論、この状況下での後退は蛮行に過ぎず、月宮は前進するために停滞の道を歩むしかなかった。
リノは長月たちを眺めるだけでその場から動こうとしない。ときどき手を組んだ腕を空に向けて上げ、身体の筋を伸ばすくらいだ。その間も、彼女の足もとに広がる銀色の液体からはハティが生産され続ける。
五体目のハティに意識を移し応戦する。他に気を回す隙は見つけられるが、しかしそれもほんの僅かな時間だ。切り替えの遅さが致命的な敗北に繋がる。そんなギリギリの闘いをしてしまうのは、やはり月宮が気になって仕方がないからだ。
一度見せた異常が頭から離れない。
抱いた不安が拭い去れない。
それを招いたリノを無視できない。
再びリノに目を向けたとき、長月はこれまでとは異なるものを見た。
リノの足もとに銀色の液体から鎖が伸びていた。方向は長月たちがいた場所――今は虹凪四季がいる場所からだ。
伸びた鎖が液体に呑み込まれていくかのように縮まっていき、その最後尾にいた緑色の手形が特徴的な仮面をした人物が着地した。
「あれ、終わったの?」
「ああ、終わりだ」
終わりと聞いて、長月が想像したのは二つだ。
虹凪が敗北したか、都市警察が来たか。
「都市警察も来たみてえだから帰るぞ」
「おしまーい」
そう言ってリノは、手を合わせた。軽快な音はなく、もっと近くにいたなら空気の抜けるようななさけない音が聞こえただろう。
すると、その手合わせに呼応するように、ハティの行動が一斉に停止し、急激に膨張し始めた。
(これは――)
長月は持っていた鉄槌を投げ捨て、全力で後退した。
ハティは風船のように膨らみ、高さが三メートルを優に超えた。そして表面が波打ち始め、ところどこから棘のような鋭利なものが突き出す。
無機質な重低音。
まるで断末魔のように空間に響かせ、ハティは爆発した。
視界いっぱいが銀色に染まり、リノたちも、月宮の様子も見えなくなる。銀色の液体が波のように押し寄せ、その鋭利な棘が散弾のように周囲に放たれた。鉄槌を砕かれるのを見て、捨てたことが正解だったことを知る。
バックステップを続けつつ、向かってくる棘を避ける。一つでも直撃すれば、行動力は落ち、その他にも直撃してしまう。またしても油断ならない状況だ。
いつまで続くのか。
そう思っていた途端、ぴたりと液体と棘の動きが止まった。本当にいきなりの停止だ。時間が止まったかのように、静寂が訪れた。そして銀色のそれらは、風化していく岩のように消滅していった。
銀色の消えた視界には、月宮だけが映った。リノたちの姿はない。
長月は彼のもとに向かった。
「無事ですか」
「見てのとおりだ。なんともない」
それは見える個所に問題はない、ということだろうか、と長月は思った。たしかに大きな怪我は見当たらない。そのことは喜ばしいことだが、素直に喜べない。
長月はふつふつと湧き起こる感情を抑え、冷静さを繕った。
「リノたちは?」
「俺が破壊を終えたときにはもういなかった」
「途中で動きが止まったのはあなたのおかげだったんですね」
「いや、単純にリノが射程範囲から外れたからだと思う。ただの目晦ましだったようにも感じられた。危害を与えるつもりはなく、注意を逸らすためだけのものだったのかもしれない」
長月は月宮から視線を外し、周囲を見回した。銀色に浸食されていた土のグラウンドにはいつもの色が戻っている。どこにも銀色は見当たらない。
「みんなの無事が心配です。行きましょう」
虹凪のことも心配だったが、長月は日神たちの無事がなにより気になった。月宮も秋雨の心配をしていることだろう。愛栖や如月がいるから大丈夫なはずだ。それに、校舎側から大きな破壊音はしなかった。建物そのものが崩れる事態にはなっていない。
そうだな、と月宮が歩き出したのが視界の右端に映り、長月は月宮の顔を窺ってから先を行くように歩き出した。
歩き出そうとした。
一瞬だったが、たしかな違和感があった。
なにかが違っている。
長月は確認するために振り返った。
月宮がすぐ傍にいた。
不思議そうにこっちを見ている。
「どうした?」
「いえ……、なんでもありません」
いつもどおりの月宮を見て、長月はかぶりを振った。
向き直り、校舎に向かう。
頭の中で彼の姿を重ねる。
抱いた違和感。
それが明らかになる。
赤みを帯びていたのだ。
彼の黒い瞳が、あの一瞬だけは完全には戻っていなかった。いつもは染み込むように消えていくその赤色が残っていた。
それがなにを意味するのか。
誰がその意味を知っているのか。
背後の彼の足音。
しかし別の足音も聞こえてくるように感じられる。
いったいなにが近づいてきているのだろうか。
※
リースは天野川高校の様子が窺える高層ビルの屋上まで移動していた。見えるのは校門前に集まる粒のような人影と、彼らが出てくる車くらいだった。
「結構来てんなあ。やっぱり前代未聞だからか?」眉の上あたりにかざしていた手を下げる。
「前代未聞なの?」
「知らん!」
この街で過ごしてきたわけでも、この街の事情を知ってここに来ているわけでもないため、過去にどんな事件があったかなど知る由もない。加えて興味もなかった。
屋上の縁に座り、事態の観察をしていたが、それも興味がなくなっていた。隣に座るリノは初めから興味がなく、膝の上に肘を乗せ、花のように開いた両手に顎を乗せている。見るからにつまらなさそうだ。
「……お前にしては珍しかったな」
「なにが?」ムスっとした表情のままリノは問う。
「誰も仕留められてなかっただろ」
ああうん、とリノは気にもしてないように肯定した。
リノの能力はリースの能力の完全上位互換である「銀」を操る《欠片持ち》だ。リースの能力である「鎖」ができることが、リノの能力の「銀」ならばそれ以上のパフォーマンスを発揮できた。
リノの戦法は主に物量による蹂躙――作りだした銀色の僕に戦わせ、自分はなにもしないというものだ。リノの意識があるかぎり、その僕たちが無限に増え続けるため、自分で動く必要がまるでない。
そして、リノが動くまでもなく、相手を薙ぎ倒すことができる。
効率的かつ効果的な戦法だとリースは思っていた。しかし今回、リノは誰一人として倒せていない。たしかに相手の数は二人と少なく、一人はどうしようなく厄介ではあるが、それでももう一人は倒せそうなものだった。
「もうちょっと真面目にやれば仕留められたと思うよ」
「なんでそうしなかったんだよ。またあれか? 面倒だったのか?」
「それは否定しないけど」
「しろよ」
「なんていうか……、今じゃないって思ったんだ」
「なんじゃそりゃ」
「わかんなーい」リノは足をぶらぶらと動かした。「そんなことよりお腹空いた」
「今のうちに飯でも食っておくか」
リースが立ち上がると、リノも「うん」と頷いてそれに続いた。
ビルの屋上――その縁に立つと風を感じられて気持ちが良かった。少々強過ぎる感じもするが、たとえそれで落下することになっても《欠片の力》があるため、どうとでも対処ができる。常人なら恐怖を感じるのだろうかと、いつお疑問に思う。
縁を歩いていると、
「リースちゃんの方はどうだったの」
と、リノが訊ねてきた。
立ち止まり、足もとに目を落とした。
「え、なになにもしかして負けちゃったのぉ? それで終わりだったのぉ?」嬉しそうに、そして楽しそうにリノがうしろから抱きついてくる。
「負けてねえよ!」
「つまんなーい」
「……勝ってもねえけど」
鎖の締め付けを強くしても、虹凪四季は瞼を閉じることなくリースに目を向け続けた。苦しそうにしているのに、能力の発動もできないのに、それでもなお精一杯の抵抗と言わんばかりに鎖を掴んでいた。
その精神は勇ましい戦士のようだった。ただの学生である彼が、こうして強気に振る舞えることにリースは尊敬の念すら抱きつつあった。
そしてだからこそ、ふさわしい死を迎えさせるべきだとも思った。
首に巻いた鎖の締め付けをさらに強めて意識を失わせ、その後に心臓を鎖で射抜く。
リースに向けられた虹凪の瞳から光が失われ始めていた。それでもやはり虹凪は鎖を掴み離さない。
リースは彼の心臓を射抜くための鎖を放った。もう痛みすら感じないだろう。異物感もないはずだ。あとは眠るように沈んでいくだけだ。
しかし。
ガキン、と放った鎖は弾かれ、その首を縛っていた鎖は砕かれる。
「こいつはッ――」
地面から伸びた土の刃。リースに気付かれることなく、さらには心臓を射抜くために放った鎖を防ぐことのできるほどの速度で能力を発動させられるのは、たった一人しか心当たりがなかった。
土の刃が崩れると、咳き込む虹凪の傍にレオル・ハイランドが立っていた。
「なにしてやがる」
怒りの色が見える声と表情。
リースは少し後退した。その感情に恐れたからではない。怯む理由もない。だが、彼とまともに闘うとなれば、あまりにも間合いが近過ぎた。
「そりゃあ、こっちの台詞なんだよ! てめえこそこんなところでなにしてんだ。ヴォルクと別件があるはずだろうが」
「そんなこと、こっちのことに比べればどうだっていいんだよ」
くそが、とリースは小さく舌打ちをした。こうなるからこそ、リースたちが天野川高校を襲撃したというのに、これでは意味がない。面倒事が増えただけだ。
(ヴォルクはなにしてやがんだッ……)
あの男が見す見すレオルの行動を放っておくはずがない。寝首を掻かれるような真似もありえない。考えられるのは、あえて見逃したくらいだ。それ以外にレオルがヴォルクのもとから簡単に離れることができるとは思えなかった。
「こんな話、俺は聞いてない」
「言うわけねえだろ。てめえがはいそうですかって頷くはずがねえからな」
「当たり前だ! 無関係の人間を巻き込むのは間違ってんだろ!」
「てめえの正々堂々紳士魂にはこっちも呆れてんだ。無関係の人間なんていねえんだよ。この世界に生きてんなら、全員が関係者だ」
今ある世界の変革――そのためにリースはヴォルクに従っている。もしもそれが達成されたとき世界の構造は大きく作り変わるため、無関係でいられる人間は誰一人としていない。巻き込まれるのが今か先かなど大差ないのだ。
しかしレオルはそう思っていない。変革によるものと、変革を成すためのものでは、意味が違うと考えている。同じ“犠牲”であるはずなのに。
「わからねえのか」レオルは拳を握る。「やり方が気に食わねえって言ってんだ」
リースはレオルが気に食わないが、しかしここで彼と闘うとなるとそれはそれで面倒であるため、沸騰し始めた感情を無理矢理冷ました。
「わーたよ」リースは両手を挙げる。「私は帰るわ。萎えた」
リースが行っているのは、あくまで目的のおまけだ。手が空いたから、手持ち無沙汰だから遊んでいただけに過ぎない。固執する必要はなかった。
「あとでヴォルクに叱られろ、バーカ!」
そう言い捨てて、リースはリノのもとへ向かった。
「やっつけちゃばよかったのに」
ハンバーガーを頬張りながらリノは言った。個人経営のハンバーガー屋というのが珍しくて買ってみたが、その判断は正しかったと思える味だった。
「時間と準備が足りねえ」
レオルとまともに闘うとなれば、それなりの策を講じる必要がある。しかしそれは闘いながらできるものではないし、ましてや都市警察が来るあの状況では時間も足りなかった。
ふうん、とリノはポテトを摘む。
「闘わずして負けたんだ」
「うっせー」
リノは残りのハンバーガーを勢いよく口の中に放り込んだ。