3 その逃避は連鎖
月宮からの連絡を受けて、音無はその現場に来ていた。陸橋横の薄暗い場所。人通りは少なく、自動車の方が多く通るくらいだ。周囲には貸倉庫や小さな工場があり、夜が深まれば本当に誰も通らなくなる――通るのを避けるほどである。
現場に着いたとき、すでに被害者たちは救急車で運ばれていた。ただフェンスの曲がり具合や塀の壊れた様子を見れば、だいたいのことは想像できる。それに、コンクリートの地面には穴が空き、血痕が広がっていた。
今は鑑識課が念入りに調査をしているため、周囲には黄色と黒の立ち入り禁止のロープが張られていた。まだ野次馬は集まってきていない。人通りの少なさを示すかのように。
「やあ、舞桜ちゃん」
誰かに現場の詳しい状況を訊ねようとしていた矢先に、声をかけられた。その無精髭に寝癖を直していないようなボサボサの髪には見覚えがあった。都市警察に所属している大人で、ここまでだらしない男は一人しか知らない。
「金雀枝さん。いたんですね」
「なんか棘を感じたけど、気のせいかなあ」金雀枝は顎髭を撫でながら苦笑した。「人手が足りなくて大変だろ。きみみたいに、本当に強い《欠片持ち》は都市警察でもそういないからね。できる者に仕事が多く回ってしまう」
「わたしはそれでも平気です。そんなことより、被害者たちの状態を教えてもらえますか?」
はいはい、と金雀枝は気怠そうに、頭を掻いた。誰かに促されて話すよりも、自分から話したいようだ。
「被害者は八人。どれも若い男。七人が病院送り、一人が死亡」
雑な報告だったが、良く言えば簡潔であり、音無には充分なものだった。七人もの負傷者を出し、一人を殺害して逃走。悪い言い方になるが、まさにこの現場にふさわしい被害があったということだ。
その犯人の名前と外見は、月宮から聞いていた。
リノとリース。
リースの方は「鎖」を操る能力者であるらしい。まだ断定はできないが、その系統に属する《欠片持ち》である。鎖で如月を攻撃し、そして逃走のために使用した。たしかにその痕跡が残っている。気絶させようとか、少しだけ黙らせようとかは思っていない。あくまで殺すつもり――いや、相手を人間と思っていないで能力を使っている可能性がある。
(これも「解放」によるものなの……?)
しかし月宮によれば、それはないらしい。「解放」された者にしては「成し遂げようとする意志」を感じなかったと言っていた。たしかにあのときの男子学生も、虹凪四季も身を滅ぼしてでも到達したい場所があるようだった。
それを踏まえて考えると、導き出される答えは多くない。
ふいにバイブレーションの音が聞こえてきた。携帯電話の着信のものだろう。その持ち主である金雀枝は「おっと失礼」と言って、スラックスのポケットから携帯電話を取り出し、受話口を耳に当てた。金雀枝の言葉から、その内容はわかった。彼は驚かず、むしろ呆れる、面倒であると言わんばかりの語調で話す。
ほんの二、三分で通話は終わり、金雀枝はまた頭を掻きながら携帯電話をしまった。そして溜まっていたその感情を含ませるように一気に息を吐き出した。
「犯人の正体はわかったんですか?」
リースとリノのことは都市警察の誰にも話していない。それを話せば、月宮たちのことも説明しないとならないだろう。事務所に協力を仰いだなどとは信頼できる相手でもなければ言えたものじゃない。
月宮たちには帰宅するように言った。依頼主としての発言だったため、その言葉を守っているとは思う。
「いや、わからなかったようだ」
やはり、と音無は導き出していた答えに丸をつけた。レオルの存在もあり、そうではないかと簡単に思うことができていた。
「ノーナンバーってことですよね」
「現場に残った波動の残滓を検知して、雪柳研究所のデータベースにある《欠片持ち》と照らし合わせたが一致はなし。ちなみに被害者たちは《欠片持ち》じゃなかったみたいだ」
どんな経緯で彼らが襲われたのかはわからないが、もしも出会っただけ、すれ違っただけという些細な都合で襲われたのだとしたら、誰もが等しくリースの「鎖」の餌食になる。それはまるで天災に近い。無抵抗も無関係も、彼女の前では無意味だ。
アナトリア姉妹もそうだった。その可能性があった。
そのときに頭に浮かんだのは、両親やイヴのことだ。無能力者が能力者相手に逃げられるなどとは、ましてや人を殺めることに躊躇いのない者では、逃げるという選択すらできないだろう。
アナトリア姉妹の例を続けるなら、彼女たちがそうだったように、近づく者だけを攻撃する場合もある。「触れぬ神に祟りなし」という言葉どおり、リースたちに関わらなければ、被害を受けることもないのかもしれない。
そしてそれが、音無が都市警察にリースたちのことを言えない理由の一つでもあった。外見を話せば、捜索はより簡単になるだろう。しかし最後はやはり近づくしかない。相手が誰であろうとも、どんな悪だとしても、都市警察として踏むべき手順は踏まないとならないからだ。
もしも不意打ちの襲撃をするとなれば、それはもう「都市警察」としての行為ではない。むしろ彼らが忌み嫌う「事務所」の行為だ。依頼の達成のためならば手段を選ばない。少し前までは音無も嫌悪していたが、今はそれが恋しい。
「犯人の捜索はどのようにするつもりですか?」
「基本的には登録された《欠片持ち》を捜すのと変わらないよ。違うのは少し地道になるということ。まずは被害者たちの回復を待つばかりだ。最後まで意識のあった奴が死んでるのが残念だよ」
最後まで意識があった男が殺された男とはかぎらない。なぜなら殺された男の携帯電話を使って通報したのが月宮だからだ。通報があったために、その携帯電話の持ち主が最後まで意識があったと都市警察が思っているだけだ。
「犯人は躊躇いもなく能力を使ってきます。この現場でもわかるとおり、その凶悪性は明らかです。今までよりも一チームの人数を多くした方がいいと思います。《欠片持ち》も複数人は必ずチームに」
「それだと人手が足らないのにさらに足らなくならないかい?」
「仕方ありません」
人手の足りなさは充分に理解している。
だからこそ月宮に依頼をしたのだ。
それでも足りなくなった。《欠片持ち》の心を「解放」している者、レオル、リース、リノと捜し出さなければならない人物が増えている。それも、一人ひとりが能力者として充分な実力を持っていると仮定してもいいほどだ。
人体消失事件のように凶悪だが、それよりもよっぽど被害の拡大が早い。
できることならばやっておきたい。
それがたとえ結果的に無意味だったとしても、今できる最善を尽くすしかないのだ。
音無は静かに、言葉を紡いだ。
「命には変えられませんから」
※
「いやー、驚いたなー」
追われていないか確認したあと、一息つくようにリース・エキュルルースは呟いた。まだ人通りのありそうな大きな道を選んでみたが、予想とは反して多くない。せいぜい二人か三人程度だ。そのおかげで見通しはよかった。
「さて」
ここまではあえて人目のつきやすい道を選んだ。逃走で人目のつかない複雑な道を選ぶのはあまりにも常套手段すぎるため、裏をかいたのだ。さらにその裏をかき、そしてそのまた裏をかいて現状に至る。
いくら人通りが少ないと言っても、必ず一瞥された。なにせ背中ではリノが寝ている。おぶっているわけでもなく、ただしがみ付いているだけ。意地でも歩きたくない、寝ていたいという執念を感じる。
さすがに肩に痛みを感じ始めてきた。感じるのが遅くなってきたのは、この生活に慣れてしまったからだろう。最初は叩き落とそうと四苦八苦したのだが、いつからかそれを諦めて、されるがままとなった。
リノ・シェロホルンと出会ってから、そう日を重ねてきたわけじゃない。半年前くらいに顔を合わせ、それから今まで続いているだけだ。
正直にいえば、リノという人間の中身についてはよくわかっていない。なぜかいつも眠そうにしていて、気付けば寝ている。言いたいことははっきり言う。せいぜいその程度だ。
第三者から見れば仲がいいように見えるが、リースからすればいつこの肩にかかる腕によって命をとられるかわかったものではない。
それでも彼女を拒絶できないのは、リース自身が押しに弱いからだろう。変わらない、変われない自分に嫌気が差して、溜息をひとつ吐いた。
胸が痛い。
「どうしたの、リースちゃん。溜息なんかしちゃって」
「いやさ、知り合いが胸を掴んで離さなくて。つーか、起きてるのかよ」
「掴み心地がいいからね。仕方ないよ」リノの胸を掴む力が少し強くなる。
「あー、羨ましい。私もこんな立派なものが欲しいなー」
「いてえよ! 離さねえと、そのない胸をマイナスにすんぞ!」
「それは困る」
圧をかけられていた胸から、それが取り払われた。同時にリノが自分の足で立ったためか、身体も軽くなる。
リースは両肩を回して、そのあと手を組んで空に向けて腕を挙げた。ぐぐぐっ、と身体の節々が伸ばされ、心地よかった。
だが、またも胸を掴まれた。
「よし、わかった。待ってろ、今マイナスにしてやる」
「強調する方が悪いと思います」
うるせー、と胸を掴んで離さないリノの頭を鷲掴みにする。しかしまるで磁石のように引き合っているかごとく、リノはその手を緩めない。
深夜とはいえ、まだまだ暑い。こうもべったりとくっつかれては堪ってものではなかった。我慢の限界がたった今訪れたのだ。
人目もはばからず揉めていると、背の高い男が近くを通り過ぎた。一瞬知り合いかとも思ったが、雰囲気が異なっていた。見上げてみれば、やはり別人だった。逆立った髪を揺らしながら、男は一瞥もせずに歩いていく。
(相当鍛えてるな、あの身体)
バスケットボールのユニフォームのようなノースリーブを着ているため、その引き締まった腕が露わとなっていた。いわゆるスポーツマンという類なのだろう。意外とこれまで接近したことはなかったが、悪くないと思えた。
しかし今は男よりもリノだ。リースはその掴んで離さないリノの手を引っぺがそうと試みてみる。「うぅん」とリノも抵抗をしてきた。
「――おい」
試みを始めてすぐに、男の声が近くでした。その声色からどこかで喧嘩でも始まるのかと期待して周囲を見渡した。すると、さっきの男がこっちに身体を向けて立っていた。その顔はスポーツマンというより不良のようであった。人のことは言えないが、彼も目付きが悪い。
「あ? なんだよ。私らに用か?」
リノに決めていたヘッドロックを緩めず、リースは男を見やった。もしかしたら都市警察の一員で職務質問でもするつもりなのかもしれない。警察の口の悪さはどこも似たようなものだな、とリースは思った。
「お前ら何者だ」
その声が鼓膜を揺らし、言葉を認識したとき、ざわっ、とリースたちを取り囲む空気が一変した。生温かい夜の空気が、まるで研磨されたかのように肌に刺さる。
なるほど、リースは考えを改めた。目の前にいる男は都市警察だろうとなんだろうと、「強い人間」であることに間違いない。適当にこの場をやりすごそうと思っていたが、どうやらそれは叶わないようだ。
実に退屈しない街だ。
「私らはただの仲のいい女子だけど」
「普通ではないってことだな」
リースはヘッドロックをやめ、リノを解放した。彼女は頭を抑えながら、リースの背後へと回り込む。いつからそこがリノの定位置だった。
「揚げ足取りかよ」
「いやさあ」男は不敵に笑う。「お前らから血の臭いがするんだわ。今日は一人くらい殺したか? これまで何人殺してきた」
あーあ、とリノが小声で呟き、そのまま続ける。
「リースちゃんが殺しちゃうから変なのに絡まれるんだよ」
「うるせー! なにもしてなくても絡まれただろ! たしかに私たちは可愛いけど、あんな大人数で囲んでくる方が悪いんだ」
探検がてら歩き回っていたら、八人の男に声をかけられた。その言葉が陳腐極まりなく、自らの欲望を正直に伝え過ぎていた。
誘うにしても、もっと言葉を選ぶべきだ。そんな助言をすると掴みかかってきたので、暴力には暴力で答えた。
誰も殺してはいないはずだったが、思えば、あの二人から逃げるときに足もとにいた男の存在を失念して能力を使ってしまっていた。そのときに殺してしまったかもしれない。
弱いくせに適当な言葉を並べたのが運の尽きだったのだろう。
「あと好みじゃなかったしね」
「それが一番大切」
リースは自分の右肩を二回叩いた。決めていたサインではないが、リノには伝わるだろうと思ってのことだ。リノは察してくれたのか、抱きつくように腕を回した。
「なにごちゃごちゃ言ってんだ」
「別れの言葉だよ、ド低能」
陸橋のところでそうしたように、《欠片の力》で「鎖」を射出した。足もとから現れたそれはリースたちを乗せて、勢いよく建物の二階部分に向かっていく。リースはバランスを保つようにしゃがみ、男が唖然としているのを見届けた。
建物に鎖が突き刺さると、再び「鎖」を射出する。今度は別の方向へ。これを繰り返していくことで、縦横無尽に移動することができた。ただ射程距離があるため、一本の鎖で遠くに移動することはできない。
しかしリースの能力は射程距離を除けば、それなりに使える。鎖と言っても、細いものから太いものまで、またその輪の大きさは自由に変えることができた。人が乗ることができる大きさのものだってできるし、なにも数字の「0」のような形である必要もない。
「うぅ……、気持ち悪い……。もっとゆっくり……」
「叩き落とすぞ! 嫌なら自分で動け!」
建物群の陰に逃げ込み、完全に男の姿が見えなくなってもリースは能力での移動を続けた。鎖の射出は角度等しか計算していないため、どこの建物のなにが破損したところで、気にしたりしない。配管を壊して水が吹き出しても、ガラス窓を貫いたとしても、その建物と縁のないリースには無関係だ。
やがてリースは地面に降りた。能力による移動で酔ったリノが体重を押し乗せてくるため、肩がそれに耐えきれないと悲鳴を上げたからだ。降り立った場所は水たまりだったようで、水が勢いよく跳ねた。
「うわっ、最悪だ」
リノもなにか言うと思ったが、酔いにかなり参っているようで静かだった。
どうしてこんなところに水たまりが、と思い、原因を探るように見渡した。配管を壊したにしては水たまりができあがりすぎている。
「おっ」
微かに水の流れる音が聞こえ、それを辿るように目を移すと、そこには水道があり、蛇口には緑色のホースがつけられていた。蛇のようにとぐろを巻いたそれの口からは、絶え間なく水が流れて出ていた。
「もったいねえなあ」
近づいて、ハンドルをひねった。きゅっ、と絞る音がした。
「さ、帰るか」リースはグロッキーになっているリノを見やった。
「もう最悪……。これも全部リースちゃんのせいだ。探検しようとか言わなきゃこんなことにならなかったんだ。変なのに絡まれるし、変なのに絡まれるし、変なのに絡まれるし。なんで三回も絡まれてるんだよ。意味わかんない。靴だって汚れちゃったし……。リースちゃんなんかヴォルクくんに怒られればいいんだ」
「グロッキーなわりによく喋るじゃねえか」
「……帰る」
「そう言ってるだろうが」
ゾンビのように近づいてきたリノの姿を見て、リースは肩を竦めた。もともとどこでどう生活していたか知らないが、かなり甘やかされていたのかもしれない。あるいは厳しい環境にいた反動で今になってわがままに成り果てたのだろう。
(ほんっと、手がかかる)
戻ったらなにも言わずに眠って欲しいところだ。ヴォルクに告げ口されては堪ったものじゃない。揺れる水面に彼の顔を思い浮かべる。あの色男こそなにを考えているのかわからない。
ふと、リノが歩くに伴って聞こえてきていた水が跳ねる音が止んだ。
顔を上げてみれば、やはりリノは立ち止まっていた。
「どうした、帰るんだろ?」
「なんだ、帰るのか」
しかし答えたのはリノじゃなかった。突然の背後からの声に、リースは勢いよく振り返る。そこにはさっきの男が立っていた。
「てめえは……」
たださっきと違うのは、その男が担ぐように槍にも斧にも見える銀色の武器を持っていることだ。闘う準備はできているようだ。
「帰る前に、オレと遊んでくれや」
男は不敵に笑う。