9 その香りは警告
音無と話していても虹凪は隙を見せなかった。戦い方はなっていないが、戦うときの姿勢は心得ているようだ。それと彼の能力が、相手との経験の差をどうにか詰めていた。
だが、月宮は隙を見逃さない。小さな綻びを見つけたのか、とうとう月宮の蹴りが虹凪の腹部に直撃し、彼は地面を転がった。
虹凪は苦しそうに咳き込む。起き上がるのも辛そうだった。
そんな彼に、月宮は淡々と近づいていく。無表情だ。冷たい目で、虹凪を見下ろしている。本当に知り合いなのかさえ疑わしい様だ。
音無はすぐさま近づき、その腕を掴んだ。
「もう決着はついてるでしょ」
「まだ心が折れてない。どんなに苦しがろうとも、心が死んでなきゃまた立ち上がれる。その足を折るか、その心を砕くしか、あいつは止まらない」
理屈はわかっても、音無は月宮の腕を放さなかった。放すことができなかった。虹凪は自信と覚悟の炎に燃え尽くされる可能性があるように、類似したものを月宮から感じたのだ。
そう、この感覚は――。
この感覚は、暴走したフェリチタを目の当たりにしたときと同じだ。狂気に満ちた邪悪な気配が、月宮の姿を陰らせる。
音無はその瞳で、虹凪を、月宮を見た。気付いたのは、この一戦が二人だけの場で行われていたら、どちらも破滅していたかもしれないということだ。負けた方は当然として、勝った方も近い未来になにかを失う。
だから、止めるしかなかった。たしかに月宮の言うように虹凪の心は折れていない。また立ち上がるかもしれない。しかしだからといって再起不能にする必要はない。再起不能ならまだいいが、今の月宮はそこで止まるとは思えなかった。
「今の自分がわからないの?」
どんな瞳をして、どんな表情をしているのか。
その手には鉄パイプではなく、ナイフが握られている。
「わかってる」
「いいえ、わかってない。月宮は今、自分がどこに立っているのかわかってない。出会ったころのルーチェたちと同じ狂気を放ってるのよ?」
月宮はきっと虹凪を殺すだろう。どこで彼の中の歯車がずれてしまったのかはわからない。そんな様子は見受けられなかった。考えられるのは、虹凪を蹴り飛ばしたときだ。あの瞬間から纏う空気が変容している。
危機から逃れるためにその根源を断絶しようとする原始的ともいえる防衛本能が働いているとしか思えない。襲ってくる相手を生かしておけば、また同じ危険に晒される。だから今のうちに排除してしまおう。そんなふざけた考えをしているとしか思えない。
「これは俺たちの問題だ」
「違うわ。忘れたの? あなたにした依頼は私のサポート。虹凪はたしかにあなたを狙っているけれど、それ以前に虹凪は『解放』されている被害者かもしれない。だからあなたの決着のつけ方を許すわけにはいかない」
投げかけた言葉は賭けだった。音無は月宮の心に響く言葉を持ち合わせていない。彼の心を知らないために、どうすれば揺らぎ、また安定するのかがわからない。
ずれてしまった歯車どうしを繋ぎ合わせられる効果的な方法がなかった。
たとえアナトリア姉妹がどうこう言っても、これは冷静さ――いや冷淡さを失わせることはできないだろう。そこまで深い関係性はない。
だから音無にある手札は「仕事」のカード一枚のみだった。普段の月宮を知らなくても、事務所で働く彼は知っている。依頼のために外法に手を出すことも。そうまでしてでも、依頼を達成しようとする意思が常にあることも。
その意思を響かせる以外にない――。
賭けに出てから数秒も経っていないのに、体感時間では数分は経っていた。答えが出るまでが長い。
やがて音無の不安は、安堵に変化していく。それは月宮の赤みがかっていた瞳の色が、黒に戻ったからだ。ピリピリとした空気も、まるで別人のようになくなっていた。
「その優しさは場違いじゃないのか?」
「これは優しさじゃないわ」緊張が解かれ、音無は腕から手を放した。「雇い主からの命令よ。止まりなさい」
「――了解」
月宮は静かに深く息を吸って吐き出した。自分でもずれに気付いたのだろう。冷静さではなく、冷淡さで行動していたのがわかったのだろう。
「しかしどうする。虹凪の能力は厄介だぞ」
音無は虹凪を見やる。立ち上がったのはいいが、まだちゃんと動ける状態ではないようだ。もしかしたら骨折しているのかもしれない。その表情が彼を襲う痛みを物語っている。
それでもまだ動こうとする。
本来の「心」ならば、制止させていただろう。これ以上は危険だと、未来を失うと、身体に無理はさせなかったはずだ。そういうふうにできている。痛覚はそのために存在している。
だが『解放』された心は、その危険信号を無視する。傷ついた身体を酷使することも、自身に手をかけて死をもたらすことも、決して止めない。それが『解放』されたものだからだ。押し殺してきた願望や苦悩が、その人間のすべてを支配してしまう。
理想の実現への意志が彼らを動かす。
間違っていたとしても。
「意識を失うのを待つか、意識を失わせるのかのどちらかね。どちらにせよ、長期戦は望むところじゃないわ。長引けば、彼の命が危ないかもしれない」
「それが難しいって言ってるんだが……。まあ、お前に従う」
月宮と目を合わせ、頷き合う。言葉はもういらなかった。
音無は虹凪の右側、月宮は左側を陣取る。その様子からして、虹凪は先ほどみたいに動くことはできない。痛みを克服しているのなら、淀みなく立ち上がれたはずだ。立ち上がって、動けたはずだ。
そうしないのは、そうできないからに他ならない。
ならば、両側にいる敵を意識させ、その場から動かさない方が虹凪の身体のためになる。無理に動けば折れた骨が内臓を傷つけかねない。彼が動けない状況を作るのが得策だ。
そして遠距離で戦ってもジリ貧になる先ほどとは違い、虹凪が動けないのならそれも意味がある。近づけない状況なのだから、虹凪はその場で能力を使い続けるしかない。能力を使い続ければ疲労が蓄積する。疲労が蓄積すれば、能力をまともに使えなくなる。そうなれば確保は簡単だ。
音無は《欠片の力》で風を作り、虹凪に向ける。音無の能力を知らないのだから微風であろうとも能力を使わざるをえない。瞳に欠片が浮かび上がったのを見た虹凪は、思惑どおり右手を突き出し、微風を打ち消した。無論、彼からすれば微風ではなく、なにかしらの《欠片の力》を消しただけだ。
それが無意味だとも気付けない。
気付けないからこそ、向けられる警戒は音無の方が上だ。
彼の望みは、月宮を倒すことで自信と覚悟を得ることだ。その意志は月宮を討ちに行こうとする。けれども月宮を討つ前に誰かに負けるわけにもいかない。月宮ではない誰かに負けるということは、月宮に及ばないのと同義だ。彼の中での序列を考えれば、それは手に取るようにわかる。
虹凪はその場から動かないでいるものの、音無の攻撃、月宮の投擲にしっかり反応している。もちろん反応できる程度には、攻撃のタイミングをずらしていた。それでも大した反応だと音無は思った。そして順調だとも。
しかし事はそう上手く運ばない。
「なにやってんだ!」
周囲への警戒を怠っていたわけじゃない。むしろ神経を尖らせていたほどだ。だが、それでもその男はその警戒を、尖らせた神経を掻い潜り、音無たちの前に現れた。
音無の背後から駆け現れ、少し通り過ぎたところで立ち止まる。
そしてもう一度、
「なにやってんだ」
と振り返って、音無に訊ねた。男の暗い金色の髪が、音無の風でなびく。小麦色の肌は健康的ととれる印象で。精悍な顔立ちをしている。怒りよりも困惑の色の方が強い瞳は、やはり説明を求めている。
邪魔をされても困るため、音無は端的に説明することにした。もちろん、虹凪への注意は怠らない。
「私たちは都市警察よ。今は暴走した《欠片持ち》を取り押さえようとしているの。危険だから下がっていて」
しかし男は下がる様子を見せず、改めて虹凪に目を向けた。そしてなにかに頷くと、再び向き直る。
「俺も手伝う」
「え?」
音無が呆気にとられている隙に、男は虹凪に向かって駆け出していた。少しでも虹凪の能力を見ていたのなら、それが蛮行であることは誰にでも明らかだ。近距離での戦闘は、圧倒的に向こうに分がある。
それでも立ち向かうというのなら、なにか策があるのだろう。
彼が何者かは知らないが、都市警察として街の住人をむざむざと危険にさらすわけにもいかない。音無は彼のあとを追いかけようとした。しかし思い留まる。
正直に言えば、三人目が現れたのはありがたい。それだけ虹凪の意識を割くことができる。その結果として、音無たちが“選ばざるをえなかった長期戦”が短縮も可能だ。
しかしやはり危険が伴う。危険だと判断した場合は、彼に風をぶつけてでも回避させる。たとえ怪我をさせることになっても、虹凪の能力によって消されること、それによって虹凪が少しでも自信と覚悟を得てしまうよりはましだ。
「気をつけ――て……」
音無の言葉は、現れたそれに掻き消されるかのように霧散した。
(土の匂い……)
虹凪の姿を大地が――「土」が包み込んだのだ。ほんの一瞬で、ドーム状に形成されたそれが彼を視界から消し去った。
(やっぱり、《欠片持ち》だったのね)
だが、虹凪にそれは通用しない。虹凪の能力はポストイットをはがし取るくらいの容易さで、自身を包んだドームを削り取っていく。虹凪の姿が視界に戻ってくる。その目は見知らぬ相手だけを直視していた。
その削り取られた個所から、男は数十もの飛礫を叩きこんだ。ドームはまだ残っているため、虹凪は移動による回避ができない。それを狙っているのだ。男は虹凪の状態を知らないためにとった戦略だろう。
しかし小粒であればあるほど、虹凪の《欠片の力》は一片も残さず消去できる。月宮が最初に放ったナイフも完全に消えていた。あの程度の大きさならば、残す選択をしないかぎりは消えてなくなる。
自らの攻撃でドームを破壊し、消しきれなかった飛礫が地面を穿ち、虹凪の周囲に戦塵が舞い上がった。
「なるほどね」男はにやりと笑う。「あんたの使える能力の範囲はだいたい把握した。そんなもんなら別に警戒していくこともないな」
戦塵が次第に晴れていく。虹凪は倒れていなかった。膝もついていない。相当に苦しいはずなのに、それが億尾にも出ていない。
境界を越えてしまったのなら危険だ。痛みのその先、警告すら聞こえない域に到達してしまったというのなら、虹凪は感覚を失いかけている。
男は悠々とそんな虹凪に向かって歩いていく。本当に警戒していない。さっきまでは戦意が感じられたが、今はなにもなかった。
あと一メートルもない距離になったとき、虹凪が飛び掛かった。右腕を伸ばし、見ず知らずの男を消そうとする。
だが、男に変化はない。そんな虹凪をただただ見ている。
「あんた、肘の先くらいでしか対象を消せないんだろ?」
その言葉に呼応するように、地面から伸びた土が虹凪の右肩を持ち上げ、続いてそれを消そうとした左腕の動きを阻害するように左肩も突き上げられた土によって固定された。虹凪は十字架のような体勢にさせられたまま身動きが取れなくなった。
月宮と音無では、この芸当ができない。月宮は攻撃に、音無は攻撃と防御に特化しているからであり、相手を拘束する手段を持ち合わせていなかった。
虹凪はどうにか腕を動かして拘束から逃れようとするが、土での拘束はさらに重なり、彼の身体で表に出ているのは顔と肘の先だけとなった。
「必死の抵抗は嫌いじゃないぜ。だがな、その目はダメだ。剥き出しになった心に操られているようじゃあ、俺には敵わない。また機会があれば、戦ってくれよな」
男は虹凪を拘束している土を小突き、音無のもとへ歩き出した。その瞳にはすでに欠片はなく、その表情にあるのは達成感だった。
「どうだ、力になれたか?」
「ええ……。ありがとう。助かったわ。私たちも、彼も」
「なに、困ったときはお互い様だ。それより、他の仲間は呼ばなくていいのか? 身動きのとれない状態なら、やれることもあるだろ」
「わかってるわ」
援護の連絡はすでに済ませていた。だが、別の要件で連絡をとる必要があるため、音無は携帯電話を取り出した。
その様子を見て、男は踵を返す。相手が電話に出るのを待ちながら、その後ろ姿を目で追っていく。通りすがりだったため、当初の目的どおりにこの道を通り抜けていくのだろう。そう思ったのだが、男は月宮に話しかけていた。ちょうど虹凪を固定した土により、月宮の姿は見えない。
通話が繋がったと同時に、音無は彼を視界から外した。なるべく音を拾われたくない。
「どうした」と導。
「調べてほしいことがあるの」
「なに」
「《欠片持ち》のことなんだけど、能力はたぶん『土』を操る系で、本人の特徴は小麦色の肌、暗い金色の髪。背は百八十くらい」
「めんどくさ。名前とか知らないの?」
そういえば聞いていなかった、と音無は振り向く。するとそこに、かの男の姿はなかった。
「え?」
移動してその陰を確認するも、男の姿はない。しかも月宮の姿もなかった。
月宮なら大丈夫だろうと思うものの、さっきの彼の様子がちらつく。それだけじゃない。暴走したフェリチタを止めた際の月宮も思い返される。
嫌な予感がする――嫌な予感しかしない。
「わかったよ」
「ほんと? 名前は?」
「それが誰かわからないことがわかった」
該当者なし。
ノーナンバー。
それを知ったとき、音無は沼に足を踏み入れたようだった。沼と言うよりは闇そのものだ。進んではいけないと、なにかが――誰かが言っている。
そんな気がしてならなかった。




