8 その決意は暗雲
「『解放』?」
「そう。私は遠からずそれが真実だと思ってる」
天野川高校が放課後になる時間を見計らって、音無はその正門前で月宮を待った。予想の一時間前からそこで待機していたのが功を奏し、月宮を捕まえることができた。見ようによっては一番早く下校を始めた者だが、しかし鐘はなっていない。十中八九サボりだった。
それから予定より早く仕事を始めた。街を徘徊し、不審者がいないか捜査する。今はその道中だ。
音無は雪柳から聞いた話を月宮に伝えた。もちろん「雪柳彷徨」という名前は明かしていない。あくまで雪柳研究所から得た情報として語る。
「誰かに操られているなら、彼らは自我を持ちすぎてる。ただ騒ぎを起こしたいだけなら、路地裏で能力を使わせる必要もない。彼らは自分で考え、自分で行動を起こしているの」
昨日の彼が偽りの言葉を使っていたとは思えない。血走りぎらついた目も、隠せない苛立ちも本物だ。
解放されたいという思いも、当然本物。
月宮は立ち止まって、考える素振りを見せた。音無の話と、昨日の彼の行動を照らし合わせて考えているのだろう。それに、可能性だけでいえば、白い仮面の人物たちも浮上する。彼らも主犯格ではなく、誰かに『欠片の力』を受けている、と。
「昨日の――夕方の奴は、現実から解放されようとしていたのか?」
「それは最終的にそうなっただけ。彼は昨日の被害者たちにイジメを受けていたんだと思う。だけど《欠片持ち》は一般人と同等に生活するために安易に能力を使うことができない――幼いころから使っちゃいけないと教わってきたことが、彼を抑制していた」
耐える日々が続いたのだろう。《欠片持ち》という理由で虐められることは多くはないが、起きないことじゃない。能力を見せてみろと言われることもあるだろう。能力で反撃してみろと煽られることもあるだろう。
だけど《欠片持ち》はそうしない。音無たちのように普段から誰かに対して《欠片の力》を使う訓練をしていなければ、街の規則が行動を制限する。
そう教えられてきた。
心に刻みつけられてきた。
常人として生きていくためには、そう振る舞わなければならない。
能力さえ使わなければ《欠片持ち》は無能力者なのだから、能力で人を傷つけるわけにはいかない。街に平穏をもたらすための規則が、《欠片持ち》を傷つける結果となった。悪環境に抵抗する術を奪い取った。
「それが解放されたわけか。反撃しちゃいけない、我慢しないとならないとこれまでは理性が保っていられたけど、誰かによってその箍を外された」
「たぶんほとんどの《欠片持ち》が街の規則から『解放』されたんだと思う。今までのように抑えようとせず、能力を使ってしまう……。どう? 当たってると思わない?」
「抑圧されていた心が『解放』されるにしても、規模の小ささはどう説明する? 大きな被害は出てないぞ」
「胸部にあった波動は、自然と消えたそうなの。埋め込まれた瞬間が最も効果を発揮するのなら、多くの《欠片持ち》が長い時間束縛されている『能力の行使』が『解放』されてもおかしくはないわ。そして、たとえ『解放』されても、彼らは欲望のままに能力を使うわけじゃない。騒ぎを起こしてはいても、暴走はしてないもの」
「禁止されていることをやってみたくなるような感覚になるわけか。だからそこまで大きな被害が出るわけじゃなく、規模が小さくなる。一応は抑制できているんだな」
開けるなと言われれば開けたくなり、行くなと書かれていれば行きたくなる――そんな衝動が能力を植え付けられた《欠片持ち》を襲っているのだろう。雪柳の意見を簡潔にまとめるのなら、そういうことだった。
だが、それでも問題は解決には至らないし、大きな被害が絶対に出ないわけじゃない。
小さな子供が悪戯をする程度のことでも積み重なれば、多大な被害を及ぼすことになる。たとえば複数の《欠片持ち》が同時に能力を使ったことにより、意図せずに相乗効果を生み出してしまうかもしれない。
そして最も危険なのは、『解放』された心の根強い部分が「能力の行使」ではなかった場合だ。昨日の彼のような「環境を壊したい」という破壊的な意思を押し隠していたとき、それは行動に移されてしまう。昨日は怪我を負わせるだけで済んでいた。だけど彼が「イジメの加害者を殺したい」という心を抑え込んでいたのなら、それだけでは済まなかった。
同様に、それ以上のことを抑え込んでいる《欠片持ち》がいるかもしれない。もしもそんな彼らに魔の手が伸びたとき、この街は平穏を保ってはいられないだろう。
街が混乱に満ちたとき、音無は自分がどういう行動をとるのかわからなかった。守りたいものがたくさんあり、守りたい人が多くいる。彼らは守りたいと強く思うが、混乱の規模によっては間に合わないかもしれない。
やれることはやりたい。
けれども、できることはほんの少しだ。
強く思うだけで理想を実現できるのなら、初めからそうしている。誰かと対立することも、戦う訓練も必要ない。
そうできないから、そうするしかない。
「大切な誰かを守るために、大切な誰かを失わないとならないとしたらどうする?」
その言葉に、音無は二つの意味で驚いた。
一つは今まさに音無が考えていたことを見透かされたようで、心が冷たい刃物を当てられたかのように凍え震えたからだ。
そしてもう一つは、その言葉を発したのが、隣にいた月宮ではなかった。音無たちの行く手を遮るように一人の少年が立っていた。制服を見てすぐに天野川高校の生徒だと気付く。男子の制服でなければ、女子と間違えてしまうような顔立ちだ。
その目は虚ろなようでいて、悲しみに満ちた色を見せていた。周囲の寂れた風景が、それをさらに強調していた。
その色の意味は反対でも、昨日の男子生徒と同じだ。
「――虹凪」
隣にいる月宮が、彼の名前を呼ぶ。知り合いのようだ。今回の被害者が無作為に選ばれている以上、知り合いが巻き込まれる可能性はあったが、まさかこんなにも早く出くわすことになるとは思ってもいなかった。
ただ覚悟はできている。目の前に導向日葵が現れようとも、音無は臆することはない。敵対関係になったのではなく、彼らはあくまで助けるべき相手だ。そこを履き違えなければ、心は揺るがない。
「月宮。僕は僕なりにその問いに対する答えを出してみた」
虹凪という少年は、自分の右手のひらを見つめる。彼の目にそこになにが映し出されているか、音無にはわからない。
「僕は誰かを犠牲にすることは選べない。たとえ理不尽な状況にあっても、僕は両方を選びとってみせる」
「そうか」月宮の声は冷たい。まるで相手の胸中を察しているかのように。「まさかそれを言いに来ただけじゃないよな」
「ああ」虹凪の視線が、月宮に向けられる。「僕は僕のために――僕の都合でお前を“消す”ことにした」
「――なっ」
思わず声を漏らしたのは音無だった。まず月宮がなんの躊躇いもなくナイフを虹凪に向けて投げたこともそうだが、虹凪がそれを《欠片の力》によって文字どおり“消した”からだ。彼が手を振るっただけで、ナイフは完全に消滅した。
消失する過程はなく、一瞬で結果が現れた。
考えられる答えは一つしかない。
「ねえ、まさか――」
「そのまさかだ。その“瞳”でしっかり見ておいてくれ」
ナイフを投げられたことが開戦の合図となり、虹凪が月宮に向かって走り出した。その瞳には当然、欠片が浮かび上がっている。
月宮は彼に向かっていく。なにか勝算はあるのだろうか。アナトリア姉妹の猛攻、事務所員による狙撃を退けた彼の「力」ならばなにかはできるだろう。しかしそれを表立って使うことはできないはずだ。
音無が見ていたかぎりでも、月宮が扱えるのは「創り出す力」と「破壊する力」だ。ナイフや剣を自在に手元に出していたし、アナトリア姉妹の血液による攻撃と防御、事務所員の追尾する狙撃を弾くのでも防ぐのでもなく、破壊していた。ほとんど間違いはない。
虹凪が《欠片の力》を使おうとも、それに対抗できるかもしれない。
問題は、この街では能力を使えるのは《欠片持ち》だけであり、その能力も一人につき一つしか持ち得ないという認識であることだ。
月宮はその意外性を持ってして、奇襲性を高めている。その能力について知られれば知られるほど、アドバンテージは失われていく。《欠片持ち》ではないと油断させることもできなくなる。
その特殊性が故に、衆目に晒されるわけにはいかない。
だから昨晩も苦戦を強いられた。白い仮面を付けた人物たちがどんな目的で彼の前に立ったのかが不明な以上、能力をさらけ出すことはできなかった。
音無は月宮の言葉を頭の中で反芻し、理解を深めた。その瞳で見ろという言葉。おそらく彼は虹凪の《欠片の力》を知っているが、その詳細までは知らないようだ。
たとえば、どこまでが能力の範囲なのか――。
月宮は音無にそれを見極めるように言ったのだ。
その「消去」の範囲を。
欠片を浮かび上がらせる虹凪に対して、月宮は周囲に転がるもので対抗していた。工事の際に置き捨てられたと思われる五、六十センチほどの鉄パイプを拾い、それを武器に戦う。虹凪の能力の範囲を知るための武器であり、彼を止めるものでもある。
たとえ虹凪の骨が折れようとも、月宮は意に介さない。それが伝わるほど、月宮が振るう鉄パイプは勢いがあり、鋭い一閃を見せる。
だが、虹凪はその攻撃をいともたやすく「消す」。彼に届くはずだった鉄パイプは、その根元を残してこの世界から消滅し、月宮の攻撃は空を裂くこともない。
消されては捨て、また新たに拾い上げて振るう。
その攻防が続く。
ただどちらも防御はない。月宮も、虹凪も、相手を倒すことだけを考えている。攻めて、攻めて、攻める。それこそが二人にとっての防御でもあった。
音無はこの時点での虹凪の能力についてわかり始めていた。それは月宮も同じだろう。
虹凪の能力は彼の両手にしか宿っていない。だいたい肘くらいまでだ。そして「消去」の選択は「どこまで消せるか」ではなく「どこまで消さない」か。さらに効果範囲に触れたものしか消すことはできない。
鉄パイプが触れれば、鉄パイプを消すことができる。だがそれを持っている月宮までには影響は及ばない。
また鉄パイプが根元で残ることから、触れたものの大きさや長さ次第ではすべてを一気に消去することはできない。それに、鉄パイプの残る長さがその時々によって変わる。おそらく虹凪は自分に直撃する分だけを消していると考えられた。
しかしそこまでわかっていても、月宮は決め切れない。虹凪の能力に触れれば、それで終わりだからだ。虹凪はたとえ不格好になろうとも、その両手のどちらかを少しでも月宮の身体に触れれば、その能力によって勝利できる。
実戦経験でいえば月宮の方が格上だ。それは動きでわかる。だが、彼と並び立てるほどの《欠片の力》が虹凪にはあった。
音無も《欠片の力》を使って援護をしたいと思うが、下手に虹凪の体勢を崩すのは不味い。予期せぬ動き、本来ならありえない体勢になることが、月宮にとって最悪の事態を招きかねない。
ならば、体勢ではなく意識を狙う。集中力を削ぎ、動きに遅れを与える。
「虹凪! どうして月宮を狙うの!」
それは今訊ねる必要のないことだ。気にはなっても、今である必要はどこにもない。虹凪を捕らえてからでも遅くはない。しかしだからこそ、演技をするまでもなく本心で訊ねることができた。
虹凪は自分の都合で月宮に消すことにしたと言った。それが「大切な誰かを守るために、大切な誰かを失わないとならないとしたらどうする」という問い対する答えに繋がっているかのように。
それが音無にはわからない。どうして月宮なのか、月宮でなければならないのか、それが判然としない。
「それは、月宮が強いからだ」虹凪は音無に一瞬だけ目を向けた。「僕は弱い。こんな力を持っていても――こんな力だからこそ誰かに使うことができない」
人を消すという行為が、それをもたらす者にどんな思いをさせるのか、音無は知らない。知っているのは、仲間を消されたときの気持ちだけだ。
哀しみや怒りよりも、虚無感が心を襲った。そこに“彼女”の姿がないのに、消されたという現実だけが残されている。信じられないはずのその光景が、なぜだか心に突き刺さるのだ。頭では否定していても、心が理解してしまう。
本当にもういないのだと。
たとえば彼のような力を持っていた場合、同じように生きていた人間を消したとき、いったいどれほどの罪悪感に苛まれることになるだろう。優しい性格であればあるほど、相手が悪人だとしてもその感情に苦悩することになるのかもしれない。
ただ命を奪うわけじゃない。
だからこそ相当の覚悟が必要なのだ。
虹凪はそれに至らせることのできる能力を持っているために、誰よりも――誰にも理解できないほど痛感している。
「僕は自信と覚悟が欲しいんだ。誰かを守れる自信と、誰かを奪える覚悟が。そうじゃなきゃなにも守れない。全部零れ落としてしまう」
失わないために奪う覚悟。そのときに直面しなければ、欲することはないものだ。月宮のように事務所で命を削る仕事でもしていなければ――。
(だから月宮を……)
音無は虹凪が月宮を狙う理由がわかった。自信と覚悟。それを持ち合わせている月宮だからこそ、彼を乗り越えたときそれを得られると思っているのだ。
それだけじゃない。虹凪と月宮は知り合いだ。知人でも消すことができる。という基準を定めることで、それ以下の相手ならば迷わず手にかけられるようになるかもしれない。
弱者から脱するために強者を狩る。
より大切なもののために、そうじゃないものを排除する。
もしも達成できれば、精神的に得られる自信はかなりのものだろう。正しいかどうかは別として、月宮を世界から消した事実が燃料となり、自信と覚悟の炎は、虹凪の心で業火として燃え上がる。
だが、その業火は心の中で燃え上がるだけで留まるだろうか。
導きの光、活力の源として終えるだろうか。
音無にはどうしてもそう思えなかった。