4 その思惑は失策
如月たちは商店街にあるファミリーレストランに来ていた。平日の五時を少し過ぎたころのため、学生客が八割を占めている。ほとんどがドリンクバーだけを頼み、普通にグラスに注ぎ入れたり、各種ジュースを混ぜて飲んだりと楽しみ方をグループそれぞれだ。
如月はストローを加え、オレンジジュースを吸い上げた。グラスいっぱいに入れたそれはいつの間にかなくなり、口には空気と残った水滴だけが吸い上げられる。ズゴゴ、と音を立てているが、そんなことは気にしていられない。
「トモ、汚いですよ」
右隣に座る長月が静かに注意をしてきた。しかし如月にはそれも気にしていられなかった。その目に映るのは、正面の席に座りにこやかに話しているレオル・ハイランドという得体の知れない男だけだ。
いきなり婚約を申し込んできたこの男の正体を掴みたかった。秋雨に近づくことが目的だったのではないか、秋雨に近づくことでなにかを得ようとしているのではないか。様々な思惑を考える。
その笑顔の裏にあるものを想像する。
ファミレスに来ることになったのは、レオルが言い出したからだ。いきなり婚約を申し込んだレオルに、如月は間髪いれずに蹴りを叩きこんだ。当然だ。こんなことをするのは、頭のネジが吹っ飛んでいるか、もともとない輩だけである。
そんな有害物を秋雨に近づけさせるわけにはいかない。長月も同じ考えだったようで、秋雨をレオルから遠ざけた。
こういった事態のとき、不思議なもので人だかりができそうでできない。目を向ける者はいても、足を止める者はいない。交通事故でも、火事でも、人が死のうとも、容赦なくできるのが人だかりだが、それは最初の幾人かがいるためだ。換言すれば、最初の幾人さえいなければ人だかりはできない。
特にこの手の争いは、見物する自分たちも巻き込まれる可能性があるため、そのリスクを考えれば、ただちらりと目を向け立ち去っていくのがいい。
だから如月は躊躇いなくレオルを蹴り飛ばしたのだ。関わってはいけないと周囲に思わせ、詳しい状況を理解できない彼らは、ぱっと見てレオルが秋雨になにかしたのだと思うはずだ。注目を浴びるのは、蹴られるレオルと蹴りを入れる如月だ。秋雨はあくまで状況を説明する一つの材料となるだけで、彼らの記憶には残らないだろう。
そしてなにより、如月が「躊躇いなく人に暴力を振るえる」という印象をレオルに与える必要があった。そうすれば関わってはいけないと判断するのは常人の発想であり、今後一切近寄ろうともしないだろう。
しかしそれが誤りだった。必ず退くと思っていたレオルは、そうせずにまた秋雨に近づこうと歩き出したのだ。
「ちょ、ちょっと! 近づくなっていうのがわからないの!」
「あんたにそれを言われる筋合いはないな」レオルは弾むような声で言う。こっちを責める気はまるでない。蹴りを受けたことに関心を抱いていない。だから疑惑は加速する。「俺はそこの『あっきー』に用があるだけなんだ」
「あっきー言うな! それは私のだ!」
如月ちゃん、と秋雨に制服の袖を掴まれ、如月は振り返る。彼女は困ったように笑みを浮かべていた。
「如月ちゃんの気持ちは嬉しいよ。だけど、レオルさんは私を助けてくれた人だから、その……暴力はだめだよ」
秋雨が困惑しているのはたしかだ。彼女はダメなものはダメと言い、嫌なことは嫌とはっきり言う。言葉を区切ったりしない。どうしたらいいかわかっていないのだろう。レオルの突然の言葉に脳の処理がついていけていない。
だからこそレオルは退けた方がよかったのだ。ちょっとしたハプニングがあった程度で済ませておけば、彼女がレオルに関わっていこうとはしない。
「……わかったよ」如月はレオルに向き直った。「いきなり蹴ったりしてすいません」
「いや、気にしてないさ。ただ俺の天使は、いい友達を持っているなと思っただけだ」
天使。
その言葉に震えた如月だったが、秋雨に従った以上手を出すことはできないと、湧き出した感情を抑えた。夜道で潰す――と心の中で呪詛のように唱え、気を紛らわせていく。
「あの、改めてさっきはありがとうございました。私、えっと、その……すごく人見知りで、初対面の人に話しかけられると、上手く話せなくなっちゃうんです」
「そんな女の子に寄ってたかった、あの馬鹿野郎たちを俺が許せなかっただけだ。複数人で一人を囲むなんて許せねえからな。男なら一対一だろ」
一対一ならいいという話じゃない。如月は静かに怒りを感じていた。この気に食わなさは茜夏以来だろう。どうにも反りが合わないのだ。彼の場合はお互いに煽りあって、堪え切れなくなるのだが、レオルの場合は一挙一動が堪え切れない。
その原因を探りたくもあるが、やはり探りたくなく関わりたくない気持ちの方が圧倒的に強かった。
「なにかお礼をしたいんですけど……」
「あっきー!」如月は秋雨に囁く。「そんなことしなくていいよ」
「でも助けてもらったし……」
「絶対関わっちゃいけない奴だよ」
「そうですね。私もそう思います」長月も如月に賛成する。「下心しか感じません」
「なにかあったらじゃあ遅いんだよ」
「えっ、如月ちゃんたちついてきてくれないの?」秋雨は目を見開いた。
本気で言っているのだろう。この流れならば、秋雨は一人でレオルと行動することになるだろう。向こうはそれを望んでいるはずだ。「お礼」という言葉を使ってしまった以上、相手の言葉を受け入れるしかない。
それに、婚約のあとでは、「婚約されるよりはまし」という考えに至りやすく、たいていのことを了承してしまうことだってある。
本当に危うい。
だからこそ月宮は秋雨の周囲を強化したのだろう。如月たちを失う選択が彼にないのは、あくまで秋雨を守るためだ。どんなことより、誰よりも優先される。
如月の中で、レオルに対しての怒りが、秋雨への心配で塗り潰されていく。
「もちろん私たちもついていくよ。だからお礼だからといって、なんでも了承するのはダメ。それは私たちが判断するから。いい?」
「うん、わかった」
話が一段落し、如月はレオルに向き直る。彼は顎に手を当て、目を閉じていた。熟考していることは見て明らかだ。
「あの、お礼……」
「ん?」レオルの瞼が開かれる。「話ついたのか? だったら、ちょっとお茶でもしないか? 腹減っちゃってよ。それがお礼ってことで」
こうして如月たちはファミレスに行くことになったのだ。考えすぎだっただろうか、と先を歩くレオルの背中を見ていたが、すぐにその考えを棄却した。まだなにが起こるかわからない。細心の注意は払っておくべきだ。
しかしレオルに変わった様子はない。ファミレスに着き、席に通されると、ドリンクバーを四つとハンバーグセット(ご飯は大盛り)を注文した。席を立ったかと思えば、全員分のジュースを取ってくるし、ハンバーグセットがくればそれを美味しそうに食べていた。
おかしい。
なにも起きない。
長月はどう思っているのかと顔を盗み見るが、やはり無表情――澄まし顔だ。警戒はしているだろうから言うこともない。
続いて秋雨の様子を探る。彼女はレオルの食べっぷりに驚くと感心したように小さく頷き、いつものように笑みを浮かべた。彼女の考えていることはわかる。喜んでもらえてよかった。ちゃんとお礼ができた。そんなことを考えているはずだ。
しばらくしてレオルの食事が終わった。このファミレスはご飯のおかわりが自由なため、レオルは五回もそれを行い、かなり時間を費やされた。
「いやあ、食べた食べた」レオルは紙ナプキンで口元を拭った。「ごちそうさん」
「喜んでもらえてよかったです。よく食べるんですね」
「燃費悪いんだよな、俺。少し動いただけですぐに腹が減る。それがちょっとじゃないんだ。かなり減る。だからちょくちょくなにかを食わないとぶっ倒れちまう」
「大変ですね」
「まあ食べることは好きだし、金銭面で困ってることもないから、大変ってほどじゃないさ。ただ仕事中に腹が鳴ると仲間に怒られるから、それを抑えるのが大変といえば大変だ」
「お仕事はなにを?」
合コンか、と如月は静かに突っ込みを入れた。あるいはお見合いだ。どちらも経験がなく、本での知識でしかないが、秋雨の問いで連想されたのはそれらだった。
「雑用」レオルは肩を竦めた。「これがまた雑も雑で。端的に言われたことをこなさなくちゃならない。まあ雑な指示なのは自由にやれってことなんだけどさ。こちとら考える頭を持ってねえから、これも大変だな」
事務所みたいだな、と如月は感じていた。所長、または所長代理から言い渡された仕事をこなしていく。その指示も雑だ。「これをやっておいて」「あれを片付けておいて」などと言われるだけだ。
じゃあ次はこっちの番、とレオルは会話の主導権を秋雨から奪い去った。問い質される側と答える側が入れ替わる。
「名前なんていうんだ?」
秋雨がはっとした表情になる。まだ名乗っていなかったことに気付いていなかったのだろう。別に律儀に答える必要はないが、正直に答える必要はないが、秋雨は律儀に、正直に答えてしまう。
「秋雨です。秋雨美空って言います。遅くなってごめんなさい」
「いいよいいよ。こうして聞けたんだし」レオルは咳払いをして、俯き加減になった。「み、美空さ……いやまだ早いか。秋雨ちゃん……は馴れ馴れしいし、呼び捨てはもっと早い。秋雨さん。秋雨さん……うん、悪くない。これでいこう」
そういう会議は脳内でやるべきだ。意外にも奥手な一面を見せるレオル。しかし如月はそれが演技の一つにしか見えなかった。彼に向ける視線が好意的なものに変わることはない。いつまでも疑い続ける。
さすがに秋雨でも怪しさや、聞こえてくる言葉に気持ち悪さの一つでも感じるかと思って横目で確認したが、彼女は小首を傾げているだけだった。どうやらレオルの口に出ている脳内会議は秋雨にははっきりと聞こえていないらしい。
(運のいい奴め……)
ただそれは秋雨がそれほどレオルに関心を持っていないという裏付けとなる。如月はレオルの一挙一動、言動を見逃すまい、聞き逃すまいとしているため、ぼそぼそと聞こえてくる言葉にも耳を傾けている。少しでもレオルを気にかけているのなら、この駄々漏れの会議が聞こえないはずがなかった。
ほっと胸を撫で下ろす。少女漫画のような展開をほんの少しでも危惧していたが、その心配は無用だったらしい。
彼女の恋心は動かされない。
いつもその先にあるのは彼だけだ。
そうか、と如月は今更になって閃いた。レオルが秋雨に好意を抱いているのなら、秋雨には意中の相手がいることを仄めかせばいい。そうすれば諦めもつくだろう。
どうして今まで気付かなかったのか不思議なくらいだ。
思いついたら即実行。
「あっきー」如月は秋雨の制服の袖を引っ張った。
「なに?」秋雨の顔が近づく。
「つっきーがいることを伝えた方がいいよ」
「月宮くん? ここにいるの?」
「そうじゃなくて。あのレオルって奴、あっきーのこと好きみたい」
「えっ?」
秋雨の驚く表情を見て、如月は察した。あの婚約の申し出を、彼女は冗談かなにかだと処理したようだ。だからこんなにも落ち着いていたのだ。
だからといって打つべき手を打たないわけにはいかない。
「あっきーには好きな人がいることを伝えて、あいつには帰ってもらお」
好きな人がいると聞いて、秋雨の顔が一気に赤くなる。
「そ、そんなの無理だよぉ。会ったばかりの人に、月宮くんのことが――好きな人がいるなんて伝えるなんて絶対に無理ぃ……」
たしかに秋雨にはハードルが高いかもしれない。ただでさえ人見知りで、恋愛のことになると上がってしまうのに、知り合ったばかりの相手に意中の相手を伝えるのは不可能だろう。一ヶ月がかりでもきっと無理だ。
「じゃあ、こうしよう。私がそれとなく伝えるから、あっきーはその顔のまま俯いてて。できるだけ恥ずかしそうにしてくれれば、それなりに伝わると思うから」
「そ、そもそも、伝える必要あるの?」
「諦めてもらうにはてっとり早い。あっきーはつっきーしか眼中にないんだから、いつか振るよりも、今振った方がいいでしょ」
「で、でも……」
「これ以上の議論は無意味。やるよ。あっきーはつっきーとの新婚生活でも想像してて」
「新婚……」
ぽんっ、と秋雨の思考回路がショートした。顔はさらに赤くなり、身体はふらふらになっている。この調子なら問題ない。なにを言われても頷いてくれるはずだ。
如月はアホみたいな会議をいまだに繰り広げているレオルを見据える。向こうも向こうで、こっちの話を聞けない状況にいたようだ。実に好都合である。
「あの!」
「――え、あ、おう。な、なんだ?」
「非情に言い辛いんですけど」如月はそんな嘘を枕に置いた。「あっきーには好きな人がいるんです」
「……え?」
レオルは硬直し、それからゆっくりと秋雨に視線を向けた。如月も確認のために彼女を見た。恥ずかしそうに俯いている――ように見える。それを確認し、すぐにレオルに視線を戻し、こっちは真剣であるという意思を示す。
「……そっか。そうだったのか」
「そうなんです。だから――」
「わかった!」レオルの目にぎらついた光が宿る。「つまり俺は、美空さんの今の想い人よりも強くあればいいんだな」
「は?」
「やっぱり強い男が好かれる絶対条件だしな。俺も、美空さんにかっこいいところを見せて、好印象を与えるぜ」
「いや、だから、そういうことじゃなくて」
「やっぱり恋はこうじゃなきゃな! 試練や壁が多いほど燃えるってもんだ。くぅぅ、やる気出てきたあ!」
レオルは感情を動きで目一杯表現したあと、店にある掛け時計を見た。
「やっべ。もうこんな時間じゃねえか。俺行かなきゃ」
美空さんまた会おう。
そう言い残して、嵐のように場を荒らすだけ荒らしてファミレスから出て行った。嵐が通りすぎれば、そこに残るのは静けさだけだ。如月はただ彼の背中を目で追い、それから目の前のグラスに目を落としレオルの言葉を反芻した。
頭の中に浮かび上がった一つの答えを確認するために、この状況を冷静かつ淡々と見守っていた長月に問い掛ける。
「もしかして失敗した?」
「ええ。どうやら焚きつけてしまったようですね」
「そんなー!」




