2 闇の中で輝く
再現された力が完全なものではないことはわかっていた。あの少年の前で精霊を操ったときとはまるで感覚が違う。
あのときは得体の知れない力の歪みと、星の力が宿る宝石の力を利用して、人間界と精霊界を無理矢理繋げた。繊細かつ緻密な魔術だったため、それを維持するために極限まで神経を研ぎ澄ませていた。
かつて経験したことのないような地獄に精神が腐り落ちそうになったが、しかし精霊の力を扱えるようになった、精霊界と繋がることができたという念願を果たした歓喜が、それを緩和し、むしろ安定の先の極限状態にミゼットはなることができた。
そうでもなければ、あの少年と戦うことはできなかっただろう。
最高の気分で、最高のコンディションで、最高の相手と一戦交えることができた。
今はそれがない。達成感も、それによるアドレナリンの分泌もない。ただ与えられ、それが自由に扱えるだけだ。
その満たされない感覚が、正面に出現した鈍銀色の壁をつまらない目で見てしまう。精霊の攻撃を受けた消滅することのないそれには、いつものミゼットなら感嘆の声を一つでも上げているところだ。
だが、そうしない。
そうできない。
ただ権利があるというのなら、一刻も早くこの《乖離世界》から脱したかった。あらゆることを運命だからと受け入れてきたミゼットでも、この環境だけは嫌悪感を抱いている。それはおそらく運命の先にあるのが虚無だからに他ならない。
現実世界は未来の見えない運命だった。
しかしここ《乖離世界》はそれが見えてしまっている。
終着点が、結末が明らかだ。
心歌という人の皮を被った人外が定めた道――雪柳彷徨が能力を取り戻し、彷徨う魂を解放する。
そんなもの、ミゼットにはどうでもよかった。雪柳彷徨がどうなろうとも、他の連中が消滅しようとも、その結末に自身の崩壊が待っていようとも、ただ心歌の計画の糧に、雪柳彷徨の成長の一端を担う役割になるよりはずっと望ましい。
運命に引き寄せられるのではなく、運命の中を歩いていける。
(やれやれ、私も舐められたものだ)
精霊には攻撃を続けさせ、ミゼットは身を翻して後方から迫っていた攻撃を避けた。長い腕にナイフ。相手が殺人鬼であることを確認した。彼の鋭い視線が向けられている。だが何十人と殺害してきた彼の威圧など、あの少年に比べれば赤子と同じだ。ないも同然。
その余裕を悟ってか、彼は追撃をせずに後退した。あるいは精霊で防御しなかったことを警戒したのかもしれない。
だが、それは正しくもあり、誤りでもあった。彼が後退した直後に、再現された魔力の反応を感じ取った。
ここで扱える力は、一つを除いてその根源は同じだ。しかし精霊を別格と感じ取れるように、魔力や《欠片の力》を区別して察知することができるようにもなっている。そう設定されている。
ミゼットは宝石を一つ投げ、魔術どうしをぶつけた。光が瞬き、衝撃波が起きる。追撃が予測されたが、しかしそれはなかった。今度こそ精霊を警戒したのだろう。
彼はそういう男だ。
「会話もろくにしなかったきみたちがこうして共闘しているのを見ることができるとはね」
並び立つ魔術師と殺人鬼を見据える。護衛として契約したとき、あの最期の日に見たときとなに一つ変わらない彼らの姿がある。
見て取れる変化はない。
だが、今は意思の疎通ができている。これは明らかな変化だ。《欠片持ち》に対して戦意と殺意しかなかった彼らではないようだ。
「それを生きているときにして欲しかったものだ」
「どちらにせよ、僕たちは死んでたんだろう? だったら人の迷惑になった方がいいと思ってね」
たしかに彼の言うとおり、成功の暁には彼らを姫ノ宮学園ごと――できれば《狭間の世界》そのものを消してしまうつもりだった。精霊の力がどれほどのものかを測るには、それくらいしなければならないだろう。まして、繋がったばかりでは上手く制御もできない。
何事も限界を知らなければ、安定など手に入れられないのだ。
「気付いていてなお、私との契約に従っていたわけか」
「あんたを守りたかったわけじゃねえ」殺人鬼が言う。「俺たちは俺たちのやりたいことがあった――そんだけだ。利害の一致以外の他に、意味はねえ。あんたも、それをわかっていたから、俺たちに仕事を持ちかけたんだろうが」
「そうだな。そういった意味では扱いやすかった」
役に立たなかったが。
ミゼットはそう付け加えた。
その言葉に、殺人鬼も魔術師も笑みを浮かべる。その薄ら笑いには、相手を不快にする効果があるようだ。
「なにがおかしい」
「僕たちは同じ穴の狢なんだよ。興味本位で暗闇に手を伸ばしたら、獣に噛まれたんだ。自分たちが格上だと、狩る者だと驕って、その結果逆に狩られた。そうだろ?」
「否定はしない」
赤い瞳を持った少年にも似たようなことを告げられていた。それはミゼットの本性であり、心の奥底に隠してきた研磨された爪でもある。
そんなものを見せられていては誰もミゼットを信用しない。相手から信用されるためには、まずこちらが無害であることを証明しなければならないのだ。そのためにひた隠しにしてきていた。
たとえ癪に障る相手であろうとも、それを晒すことはなかった。その場で切り刻まなくとも、近い将来にそれが叶うと、その未来を見据えていたからだ。
ただそれはもちろん、水泡に帰した。その未来に到達する前に、爪を折られるどころか、心臓を抉り取られてしまった。
同じ穴の狢。
たしかにそのとおりだ。ここにいる三人――いや四人は、姫ノ宮学園にできた世界の歪みという穴に集まり、そして等しく殺された。危険な相手など数少ないと油断し、どんな相手でも握り潰せると過信した結果である。
それは間違いではあるが、必ずしもそうであるとも言えない。魔術師という人種にかぎらず、殺人鬼もまた自分に誇りを持ち、傲慢と言われるほどの過信があるからこそ、あの世界を生きてこられたのだ。
そして今もそれは失われていない。目の前にある障壁に対して、敗北するとは思っていないだろう。
「きみたちはなんのために私の前に立つ。まさか、雪柳彷徨を助けたいなどとは言わないだろうな?」
生前の彼らからすれば、それは確実に否定されることだ。誰かを傷つけ、自分を守るために生きてきた彼らがその培った技術を誰かのために扱うなど、天と地が入れ替わったとしても、起きえないことだ。
たとえ世界が滅ぶとしても、彼らにその選択は生まれない。
なんなら雪柳彷徨を殺すだろう。
つまり魔術師と殺人鬼を繋いでいるのは「雪柳彷徨」ではない。ミゼットの前に立ちはだかる理由は彼ではない。
そしてそれは正しかった。二人ともミゼットの言葉に渇いた笑いをみせた。言葉にしなくとも、本気でミゼットがそう思っているのなら愚かだ、と言わんばかりだ。
だからミゼット自身も、自分の発言に鼻で笑った。
「僕たちがそんなゴミのような理由で、格上の相手の前に立つわけないじゃん。まさかミゼットさんからそんな言葉が出るとはね」魔術師はまた笑う。「あー、死んで良かった。やっとそう思える」
「では理由を教えてもらえるか?」
「簡単だ」殺人鬼はにやりと歯を見せて笑う。「無様に死んだくせに、生を得ようとしている奴が気にいらねえんだ」
「与えられた権利だろう」
「違うね。権利じゃない。ただの餌だ。死んだ人間を思うように動かすための口実に過ぎないよ。やってることがやってることだけに、それができても不思議じゃない説得力もあるしね。あんたはそれに釣られたわけ」
「そうだな。だが、餌に食いついた魚は従順に釣られるだろうか」
「釣られないように抗うだろうな」
「私はそうしているだけだ」
「逃げるためじゃないだろう?」魔術師の両手には銀色の斧が握られた。なぜだかは知らないが、彼の魔術は斧を触媒とした。「そして、逃げるだけじゃない。あんたは餌を食い逃げしようとしている。それが滑稽だって言ってるんだ」
なるほど、とミゼットは彼らが無謀にも立ち向かおうとしている理由に感心した。そういう考え方もあるのかと。
いや、実際はそう難しいことじゃない。簡単かつ原始的な思考によるものだ。だからこそ気付けなかったのだろう。遠い昔に同じ考え方で、誰かの前に立ちはだかり、あるいは踏み潰したりした。
気に入らないから排除する。
ミゼットの行動理由もまた不純物を削ぎ落していけばそれが現れる。雪柳彷徨に対して、心歌に対して、白枝たち、魔術師たち。
そしてこの世界。
なにもかもが気に入らない。
だから壊したい。
実に純粋で、だからこそミゼット好みの思想だ。
「もう言葉はいらない」ミゼットは敵意と殺意を二人に向けた。「きみたちは滑稽に踊らされている私に、無様に消されるといい」
一瞬の緩みもなく、持てる技術と力によってねじ伏せる。
あの少年のときと同じように、相手に敬意を払って。
ミゼットと二人の交戦は、ほんの僅かな時間で幕を閉じた。それとほぼ同時に精霊による攻撃も終わりを告げる。