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悠久の世界は月のために  作者: 鳴海
第2章
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3 失う理由

 雪柳彷徨は仰向けの状態で浮かんでいた。眠るように瞼を閉じ、背中は少しだけ後傾している。腕や足は重力に従って力なく垂れ下がっているのではなく、まるでなにかに支えられているかのようでもある。


 それはまるで、空気のクッションにでも乗っているかのようだ。目には見えないが、柔らかい類のものがそこにあるように感じられた。


 そんな彼の傍には、一人の女の子が立っていた。幼い顔立ちに、それを強調するかのような浴衣。ただそれらとは不釣り合いなほど、針を刺すかのような鋭い空気を放っている。攻撃を目的にしているわけではなく、警告をしているのだ。


 これ以上近づくな、と。


 そのような状態の室内で、咎波君人とがなみきみひとは迷っていた。アイリスの命令により彷徨の様子を見にきたが、まさか彼女の言う悪い予感が的中しているとは思っていなかったのだ。


 いや、思いたくなかったと言った方が、実に咎波らしい思考である。ただでさえあのアイリスが「悪い」を付け、なおかつ「予感」と言ったのだから、事務所員としては、彼女に関わる者としては、警戒レベルは最高潮に達する。


 未来を見てきたかのように振る舞う彼女が、「予感」などという漠然として言葉を使うことなど青天の霹靂へきれきだ。


 咎波は静かに深呼吸をした。ともかく、今は自分のことはどうでもいい。浴衣の女児・心歌の放つ空気に動けないでいる咎波自身よりも、隣にいる充垣染矢の方が心配だ。


「この程度でビビると思ってんのか」


 思ったとおり、充垣は心歌にハルバードを振るおうとしている。


「いいかい、染矢くん。馬鹿な真似はしないでくれよ?」


「どうしたんだよ、咎波さん。いつになく――いや、いつも以上に弱気な態度じゃねえか」


「むしろここでいつもどおりでいられる染矢くんが凄いよ。僕には真似できない」


「わかんねえから、オレにわかるように説明してくれ」


 琴音の言う充垣の残念さがよくわかった。実力も、その勇猛かつ冷淡な姿勢も悪くないのだが、どうにも相手の実力を軽視する傾向がある。見たまま、感じたままが正しいと疑っていない。


 揺るがない自信があるのは長所だ。誰もができることじゃない。けれども、その長所は所詮常人の域を超えないのだ。琴音やアイリスのような「怪物」の前では、その勇猛もただの蛮勇になる。


「彼女の威嚇いかくに惑わされちゃいけない。これは、僕たちの実力を測るものだ。どれだけの目を持っているのかを確かめている」


「じゃあなんだ、今感じている強さは偽物だってことか?」


「そうだよ」


 言うかどうか迷った末に、咎波は告げた。


「たぶんだけど、琴音くんと同等かそれ以上だと思う」


 さすがの充垣も、これには目を見開き、言葉を失っていた。事務所員の中で誰よりも洗練された強さを持つ琴音以上かもしれないと聞かされれば、みな同じ反応をするだろう。


「……おいおい、さすがに冗談だろ?」


「あくまで僕の意見だ。僕は冗談ではなく、本気で言っている。だから困っているんじゃないか」


 様子を見に来たのはいいもの、これからどうしたらいいかわからない。ただ見たままをアイリスに報告するべきなのか。しかし見たままを報告するには、あまりにも情報が足りない。彷徨が宙に浮き、それを守るように心歌が立っている。それだけでなにが伝わるというのだろうか。


 彷徨の身になにが起きているのかを訊き出したいものの、そうすることすら許されない空気だ。なにが彼女の琴線に触れてしまうのかわからないため、下手に言葉をかけることもできない。


 だが、


「お前、何者なんだ」


 と、充垣が空気を読まずに訊いた。さすがの咎波も、これには心臓が跳ねた。そして身体中から一気に汗が噴き出す。


 よくやった、と言いたいところではある。咎波の口からでは、どれくらいの時間を費したところで、それでも出ないだろう言葉だ。故に賛辞を送りたくもなる。連れてきてよかったと心から思える。


 しかしそれは生きてこの家から帰ることができたときの話である。もしも心歌が言葉すら攻撃と見做したのなら、ここは戦場と化す。その過程でまず充垣が消されていたかもしれない。


 どうなる、と咎波は心歌から目を離せずにいた。今まで何度か見てきたが、今以上に彼女を視界に入れていたことはない。今日まではその力の片鱗すら見せていなかった。


「私は誰でもない」


 心歌は充垣を見据える。


「あなたの瞳に映る私の姿と、私が同じとはかぎらない」


「意味がわからねえ。お前はお前じゃねえのか?」


「私は私。でも私は私じゃない」


「ダメだ、降参だ」


 充垣は肩を竦めた。


「こういうのは苦手だわ」


 充垣との会話が成立しているのを見て、咎波は心歌が言葉を攻撃と判断しないと見て、彷徨について訊ねることにした。


「彷徨くんの状況を教えてもらってもいいかな」


 心歌の視線が、咎波に移る。一点の曇りもないガラスのような瞳に捉えられると、まるで氷の世界にいるかのように身体が震えた。


「彷徨は眠ってる」


「なんのために」


きたる日のために」


「それはどういうことだい?」


「『最高』の魔術師から聞いているでしょう? だからこそあなたは、雪柳博士の助手の一人として、何度もここに訪れている」


 初めから知っていて、それでもなにも語らずにいたということか。咎波は観察、監視をしていたつもりだが、逆にされていたようだ。


 心歌の言う魔術師はもちろんアイリスのことであり、彼女から聞いた「来る日」といえば、「X日エックスデイ」のことだ。アイリスもまたその日のために活動を続けている。どこでなにをしているのかはわからないが、少なくとも見据えているのはその日だ。


 だとすれば、心歌もまたアイリスのように予知のような能力を持っているのかもしれない。未来を見てきたかのように、あるいは能力で「可能性としての未来」を見てしまったから、こうして彷徨の家に居着いたと考えられる。


 しかし咎波は、それを知らない。


 その未来については、なにも聞いていない。


「あなたは知っている」


 心歌の言葉に、また心臓が縮み上がった。咎波の思考を突いてきたかのような、抜群のタイミングだったからだ。


 アイリスを目の前にしたときと同じかと思いきや、それはとんだ勘違いだったようだ。もっと洗練されている。研ぎ澄まされている。もっと別角度からの、別次元からの刺激を受けているかのような感覚だ。


「……どうして僕が知っていると?」


「それがあなたの根源だから」


 すべての行動、選択には必ず理由がある。原因がある。目の前にある選択肢に対して、無心を試みたとして、これまでの経験が選ぶべくして選ぶのだ。


 だから咎波がここにいるのも、ただアイリスに従ったからではない。彼女に従う理由があって、その理由に繋がるからこそ、ここに来なければならないと思った。


 それは心の深い場所にあり、


 それは心に深く刻まれている。


 ああそうか、と咎波は気付いた。どうして今の心歌を前にしたくないのか、その理由がようやくわかった。


 自分を掘り下げられてしまうからだ。積み重ねてきた記憶と経験の、もっとも下層にあるものまで。だから自分がどういう人間で、これまでなにをして、どうして今があるのか。それを綺麗に整頓されてしまう。


 その際に、思い出したくない記憶と、それに付随する感情まで露わになる。「根源」にあるものが最上であるとはかぎらない。苦い記憶となった辛い経験があったからこそ、生まれてくる願い、希望、夢がある。


 歳を重ねれば重ねるほど、大人になればなるほど、その綺麗な言葉たちは錆び付いていく。主張するほどの輝きを見せることが滑稽なのだと自分に言い聞かせ、諦め、切り捨てる。


 だが、咎波はまだ諦めてはいなかった。そのために事務所に入り、だからこそアイリスに従っている。


 すべては実現のために。


「あなたは彷徨と違って失ってないから思い出せる」


「彷徨くんが失っている? なにを?」

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