2 たしかな不可視
「お前にはねえのか?」
ふいに問われ、彷徨は逡巡した。それは考えるまでもなく答えがわかっているからだ。そして、だからこそ答えを考えだしたくもあった。
「その様子じゃあ、ねえみてえだな」
まさしくそのとおりだ。殺人鬼の言葉どおり、彷徨にはない。子供が無邪気に語る夢のように、他の誰でもなく、自分が成し遂げたいと思うことがない。
なにもないのだ。
語れる夢も、誇れるなにかも。
子供は未来に夢を見て、自分がどうありたいかを語る。未来を語る。先の長い人生で、なにが起きても不思議ではなく、彼らがその夢を叶えることだって、もちろんできる。未来は不確定だからこそ、夢を見られる。
だが、彷徨は幼いころより、そんな夢を見ていない。未来を見据えたことがなかった。なりたい自分がなかった。
なににもなれないと思ったわけじゃない。
なにかに現実を突き付けられたわけでもない。
否定されたことなど一度もないのに、彷徨は夢を見ることをしていなかった。暗く見えない未来の道を照らし出すこともなく、かといって今自分が立っている場所に光を灯すこともしない。
まさしく《乖離世界》のように暗闇に包まれ、それを受け入れてきた。それでいいと、それがいいと、生きてきた。
殺人鬼にも劣る生き方をしてきた。
「俺のような人殺し――人を殺すことで快楽を得ている奴らは、人間として終わっているし、道を踏み外しているが、だが面白いことに、誰よりも人間らしいと俺は思っている」
「……なぜ」
「それが、俺たちとお前のうしろにいる奴らとの差だ」
彷徨が振り返ると、そこにはあの影たちが静かに燃える炎のように揺れていた。少しずつ彷徨に近づいてきている。一つ一つは人間一人分程度の大きさでしかないが、しかし密着しているために巨影と化していた。
高さは変わらないが、幅は広い。さっきよりも数が増えているようにも見えた。端から徐々に丸みを帯びていき、彷徨たちを取り囲もうとしている。
「俺たちというのは、誰のことだ」
彷徨は影を意識しながら後退する。斧を持つ手に力が込められていた。
「そりゃあ、お前を含まないここで人間のかたちを保っている奴らのことだ。お前は自分を持っているが、誰がどう見ても影側だ」
殺人鬼がこの状況でも至って平然としている。やはり狙われているのが彷徨だとわかっているからだろう。
「戦う気まんまんかよ」
殺人鬼は渇いた笑いをした。
「それがもう間違いだって、気付かないのか?」
「どういうことだ」
戦わなければ、彷徨は影に呑まれ、現実世界での存在を失う。魂の行き場を失った結果、ここに留まるのか、それともサイクルに従うのかはわからないが、雪柳彷徨でなくなるのは確実だ。
影たちに対抗できる手段が手に握られた一本の斧しかない。徒手空拳でどうにかできるものでないことは見た目から判断できた。
「まあ、俺がお前の立場ならそうするけどよ」
「それならなにが間違いなんだ」
「殺人鬼と同じ思考をしているのは間違いだろ?」
人間として終わり、人間としての道を踏み外している殺人鬼と同じ思考をしている。たしかに間違いだと言われれば間違いだ。
しかしそれは現実世界でのことだ。生きている人間を殺害することが、道を踏み外すことであり、ここでは当てはまらないことだろう。
そう考えるも、彷徨の手からは力が抜けてきていた。なにか決定的な事実を突き付けられたような、そんな衝撃があった。同じ感覚を、魔術師とのときも味わっている。しかしやはりその正体は明らかにはならない。
「どうしたよ? 戦うんじゃねえのか?」
「俺は……誰と戦っているんだ……」
その言葉は、頭で考えたのではなく自然に口から零れた。緊張していた身体も、警戒の目もいつの間にか解けていた。
「あ? まだ戦ってねえよ。これから戦うんだろ」
「そうじゃない。そういうことじゃあ、ない」
視界いっぱいに影たちが並んでいる。揺らめきながら少しずつ近づいてきているが、脅威は感じられなかった。人の形をしておらず、その虚ろな目のような二つの点が、彼らは未知の敵のように思わせていた。
しかし彼らは人間だった者たちで、人間であろうとする者たちだ。未知の力によって《乖離世界》に辿り着いてしまっただけ。
戦うということは、倒すということ。
けれども白枝畔は彷徨の問いに「解放」という返答をした。倒せとは言っていない。つまり戦えとは言っていないのだ。
そして殺人鬼の言葉もある。銀色の斧を見たときに、魔術師の「消滅」を連想していた。消滅とはなにか。《乖離世界》からの「消滅」が「解放」に繋がるとは考えにくい。消滅とは消えてなくなることだ。束縛している鎖ではなく、束縛されている者を消す解決。これは「解放」ではない。
ならば「解放」とは鎖を外すこと。彼らを《乖離世界》に縛っている鎖は、《乖離世界》そのものだ。
世界のサイクルに割り込み、還るべき場所に還ることを許さないこの世界を消滅させることが、影たちを解放することであり、そして彷徨の使命だ。魔術師は言っていた。ここは彷徨のための世界だと。心歌が創り上げたものだと。
心歌の目的は。
彷徨のすべきことは。
「……いや、これじゃあ堂々巡りだ。なにも変わらない」
「そうでもねえぞ」
殺人鬼の長い腕が、彷徨の肩に回された。
「戦うってのは、お互いに敵意を持っていることだ。敵意を持ったどうしなら、どんなに強さに違いがあったところで、条件は対等、同じ土俵に立っている」
だから戦うことと殺すことは違う。
殺人鬼は言う。これまで何人もの人間を手にかけた男が語る。
「殺すってのは奪うことだ。自分のために、相手の命を奪い取ること。俺のような奴らは、その優位性に、征服感に快楽を覚える。悲鳴が好きだの、歪んだ顔が好きだっていう異常者は、戦う者じゃない。殺す者だ」
「俺は――」
「いいや、違うな」
殺人鬼は否定する。
「ここで踏みとどまっている奴が殺す者のわけがねえ。俺たちは躊躇わない。相手がどんな奴であろうとも、俺たちのために手にある得物でなにもかもを奪い去る」
こんなふうに、と殺人鬼は彷徨の首筋にナイフの刃を当てた。少しでも力を入れれば肉を裂くことができるだろう。彷徨の腕はナイフを認識するまでの間に、両方とも背後に回され、ナイフを持っていない手で固定されていた。
「お前……っ」
「これが殺すってことだ。今お前は俺を信用しかけていた。つまり俺たちは同じ土俵にはいねえ。油断していたお前を一方的に殺せる」
殺人鬼の拘束から逃れる方法を考え始めたが、すぐにどれも無意味だと察した。ナイフの刃が触れている以上、少しも動くことはできない。それは自傷行為であり、自殺行為でもある。
「当然、お前は抵抗を考えるよなぁ? 当然。当然。当たり前。誰だって殺意や敵意を向けられれば、そして実際に相手が行動してきたのなら、そうするよなぁ?」
何度も繰り返して、当然を強調する殺人鬼。彼は異音同義を繰り返す口癖があるため、これも強調しているわけじゃない。そう思っていたが、彷徨は不自然さに気付いた。
殺意と敵意。
それを向けられているだろうか。
たしかにナイフの冷たさを首筋に感じてはいるが、それだけだ。死への恐怖心を煽られているだけで、彼から直接的にそれらを向けられているわけじゃない。
つまり殺人鬼はなにかを伝えようとしている。
魔術師がヒントを残したように。
彷徨は殺人鬼の言葉を頭の中で何度も反芻した。彼がなにを言おうとしているのか、なにを伝えようとしているのか。その意味を潜考する。
到達したのは、殺人鬼の言うとおり当然のことだった。ただ彷徨がそこに思い至ったのは、彼の「間違い」の発言があったからである。もしも指摘されなければ、間違えたまま、失敗したまま、勘違いしたまま、終わっていただろう。
「影たちは、俺に助けを求めているのか……」
最初から殺意と敵意を向けられたから抵抗し、反発しただけだった。彷徨は影たちを見るなり《欠片の力》を使おうとした。発動しなくとも、危害を与えなくとも、敵意を向けたことに違いはない。
影たちを消滅させようとした。
それが間違いであり、勘違いだ。
彼らは彷徨を襲おうとしていたわけじゃない。彷徨が敵だと見做したから、彼らもまたそうしただけだ。それが言葉を使えない彼らの、せめてもの抵抗手段なのだから。
かつては人間であり、自分を取り戻せなかったからといって、なにも求められないわけではない。彼らの真意は「解放」だ。白枝畔が言っていたことが、そのまま答えだったのだ。
今の状況がそれを証明していた。銀色の斧を持ち、彼らと戦おうと、彼らを殺そうとしていたときは少しずつ向かってきていたが、今はただ揺らめいているだけだ。その虚ろな双眸も、真実に気付いた今では不気味でもなんでもなく、ただ悲し気な色をしている。
すっ、と殺人鬼が彷徨から離れた。
「それが、お前がここで得るべきものだぜ」
殺人鬼は器用にナイフを手で回して、しばらくするとそれは手品のように消えた。
「どういうことだ」
「俺みたいな殺人鬼でも持っている。誰でも持っている。だがお前は持っていなかったものだ。ようやっと一歩進んだってわけだ」
いや戻ったのか、と殺人鬼は焼けた声で笑う。
持っていなかった、ということは、今の彷徨はそれを手に入れたということだ。殺人鬼が言うには「取り戻した」のかもしれない。
しかし思い当たることがなかった。ただ影たちの真意に気付いただけで、彷徨自身になにか変化があったわけではない。
「俺はなにを取り戻したんだ」
殺人鬼はそれに答えず、落ちていた銀色の斧を拾い上げた。
「これはもういらねえな。かはっ。考えてみりゃあ、魔術師の奴のお前に対する嫌がらせだったのかもしれねえ。凶器を持った人間は狂気に呑まれるってな」
その肩を掴み、振り向かせようとしたが、しかしその手は彼には届かなかった。そこにいるのに、すぐ傍にいるのに、幻影のように手がすり抜けた。
「どうなってんだ」
彷徨は自分の手と殺人鬼を交互に見た。
「じゃあな」
殺人鬼は振り向かない。
「その目、大事にしろや」
「だから――」
意味を問う前に、殺人鬼の姿が消えた。余韻も、その幻影もなく、初めからそこにいなかったかのように。
彼だけじゃない。彷徨たちを取り囲むように佇んでいた影たちもまた消えていた。
彷徨はまた一人になる。