1 彷徨う魂
気付くと、そこは暗闇だった。
どちらが上で、どちらが下なのか。
どちらが右で、どちらが左なのか。
それが理解できないほどの闇。
なにもわからない。
ここがどこで、自分が誰なのかも。
なにを考えているのかも、不明瞭になっていく。
そんな中で、光を見つけた。
淡い光の粒子、渦、塊、川、湖、海。
どれも正しく、どれも間違っている。
言葉にできないほど曖昧なものだ。
だが、それはたしかに存在している。
温かいために近づきたいが、冷たくも感じそうすることができない。
「あの光に、あなたは行けないよ」
突然、光を背にして影が現れた。
「存在が曖昧になっているわね。自分のことはわかる?」
不思議なことだが、そう訊かれただけで、自分が人間であったこと、性別は女だったことなどを思い出してきた。
「思い出してきたようね」
自分を思い出したことで、今まで当たり前のようにできていた「見る」という行為、「聞く」という行為、「話す」という行為を意識的に可能にできるようになった。
今まで自分がどんなカタチをしていたのか見ることができなかったが、手も、足も、胴体や足もその目で確認することができる。五感もきちんと働き、ここが肌寒い空間であることもわかった。
どちらが上で、どちらが下か。
どちらが右で、どちらが左か。
それらの概念が正しく認識され始める。
現れた影の正体は、女の子だった。浴衣を着て、歯の長い下駄を履いている。歳下だというのは感覚的にわかるが、しかしなぜだかそうではないような気もしていた。
おそらく女の子らしからぬ静かな雰囲気を纏わせているからだろう。
それに、ここは矛盾だらけだ。真逆のものが統合されている。
「あなたは?」
「私はこの世界では誰でもない」
彼女がなにを言っているのか理解できない。
この世界とはなにを指し、なにを意味しているのか。
「どの世界でも、私は誰でもないの」
「わかるように説明して」
「私を観測する者の目によって、私という存在は変化する。あなたがまだ誰でもない以上、私もまた誰でもない」
「私が誰でもない?」
そんなはずない。
自分のかたちは思い出した。
人間であったことも、女であったことも。
それ以外になにを思い出せば、「自分」になれるというのだろうか。
なにが足りないのだろう。
浴衣の女の子は振り向いて、光を見つめた。
「あの光は、魂の光」
「魂?」
「そう。人間が人間であるためのもの。心とはまた別の、人間に欠かせないもの」
「私にはもうないの?」
人間であったのは過去だ。今は人間のかたちをしていて、思考もできるが、もしも彼女の言うように魂が「人間であるためのもの」だとするのなら、すでに命を落としている自分にはもうないのだろうか。
「まだあるよ」
女の子は振り返る。
「だからここにいるの」
安心できたような、不安がさらに募ったような気分にさせられた。求めていた返答ではあるものの、それじゃあ自分はいったい何者なのかが判然としなくなる。
人間である証を持ち、
しかし人間であったのは過去だ。
「あの光を温かく感じるのは、あそこがすべての魂が還る場所だから。冷たく感じるのは、あそこに到達すれば自分という個が終わるから」
あの感覚の理由はそれだったのか、と納得した。たしかに還る場所であれば温かく思えるだろう。本来ならばそこにあって然るべきものなのだから。そしてそこに到達すると個を失うのなら、本当の「死」が待ち受けているために冷たく感じる。
ならば、あれは海なのかもしれない。生前は一度も訪れたことがないが、すべての生命が始まった場所である。終わる場所かはわからない。遺灰を海に撒くこともあるらしいため、そう言っても構わないのかもしれない。
「どうして私はあそこへ行けないの?」
「あなたは、あの世界にはない力によって命を落とした。理から反したから、環から外れてしまったの」
「あの世界にはない力……」
「そう。あなたのいた世界は特別なの」
言い換えれば、異常ということだ。
特別とは普通ではないということ。
異常もまたそうだ。
あの世界が異常だった――そう思うことはできなかった。
まるで心当たりがない。
「気付けないのも無理はないわ。あなたたちは世界の内側にいて、その異常性を孕んだ場所で過ごしてきたんだから。外側から見れば、あんなに不安定なものはない」
「ここはどこなの?」
「ここは《乖離世界》」
進むことも戻ることもできない、
理から外れた魂が彷徨う場所。
彼女はそう説明した。
そしてこう続ける。
「あなたに、あなたのいた世界の平和のために手伝って欲しいことがあるの」