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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

恋愛短編集

真夜中の冷蔵庫

作者: 月見酒
掲載日:2026/02/09

本作は、「通常位相」における恋愛の、その最も残酷な側面である**「資源の枯渇」**を描いた物語です。

私たちは、愛を無限に湧き出る泉のように語りがちですが、現実にはそれは、時間や金、そして何より自分自身の「生」という熱量を燃料にした、有限の燃焼現象に過ぎません。

深夜のキッチンという閉ざされた空間で、賞味期限の切れた食品と、減り続ける預金残高。それら卑俗な具象の積み重ねが、いかにして一人の人間の「慈しみ」を焼き切ってしまうのか。その物理的な損耗の過程を、喉越しの不快感や、指先の冷えといった解剖学的な質感を通して観測していただければ幸いです。


深夜二時。ワンルームの狭いキッチンに、冷蔵庫のコンプレッサーが上げる低い唸りだけが、波打ち際のような不規則なリズムで満ちている。直人は、その振動を鼓膜の裏側で数えながら、光沢のある黒い扉をゆっくりと開いた。

突如として溢れ出した青白いLEDの光が、網膜を刺す。昼間の過剰なPC作業で疲弊した眼球にとって、その光は暴力的なまでに無機質で、冷たかった。光に照らされた庫内は、ひどく寒々しい。半分に切られたまま切り口が茶色く変色した玉ねぎ、ラベルの剥がれかけたドレッシングの瓶、そして一番奥に押し込められた、四個パックの安いヨーグルト。

直人は、そのうちの一つを手に取った。

指先から伝わるプラスチックの結露した冷たさが、体温をじわりと奪っていく。蓋のアルミホイルに印字された日付は、三日前に過ぎ去っていた。

『三日前。あの日は、彼女が新しいオーディションのための服が欲しいと言って、僕のクレジットカードを使った日だ。彼女の笑顔と引き換えに、僕はこのヨーグルトを食べる機会を失い、そして今、賞味期限の切れたそれを、暗闇の中で見つめている』

彼はアルミの蓋を静かに剥がした。ピチャリ、という、水分が分離して上澄みとなった液体の音が、狭い部屋の静寂に鋭く響く。スプーンを突き立てると、抵抗なく柔らかい層を割り、底へと沈んでいく。一口、それを口に運ぶ。舌の上で広がるのは、本来の甘みではない、発酵が進みすぎた微かな酸味と、冷蔵庫の脱臭剤の匂いが混ざり合った、形のない「停滞」の味だった。

食道の粘膜が、その冷たい異物を迎え入れるために、小さく不随意の収縮を起こす。嚥下するたびに、胃の底に重い鉛のような塊が溜まっていく感覚。それは栄養ではなく、ただの空腹の紛らわしであり、同時に、彼がこれまで積み上げてきた「献身」という名の、消化できない残骸だった。

遠く、深夜の国道を走るトラックの地響きが、建物の建材を伝って微かに足裏を震わせる。世界はまだ動いている。誰かが荷物を運び、誰かが金を稼ぎ、誰かが消費している。その巨大な循環の端っこで、自分だけが、三日前に死んだヨーグルトを喉に流し込んでいる。


隣の部屋からは、カーテン一枚を隔てて、彼女の穏やかな寝息が聞こえてくる。

時折、寝返りを打つ布の擦れる音。その音は、直人が半年前に無理をして買い換えた、寝心地の良い高級マットレスから発せられるものだ。彼女の若く、しなやかな肉体は、その上で健やかに、明日への希望を糧に眠り続けている。

直人はヨーグルトを口に運びながら、手元のスマートフォンの液晶画面を点灯させた。

網膜を焼く二度目の光。そこに映し出されているのは、銀行アプリのログイン画面だ。震える指先で暗証番号を入力する。画面が切り替わり、表示されたのは、かつて彼が「二人でいつか住む広い部屋」のために貯めていたはずの、無残に目減りした数字の羅列だった。

『この数千円が、彼女の美容院代に変わった。この数万円が、彼女のSNSの写真を彩る、流行のカフェのパンケーキに変わった。そのたびに、僕は「彼女が輝くならいい」と自分に言い聞かせ、心の台帳に赤字を積み上げてきた。それが僕の役割だと、信じてきたはずなのに』

その数万円を捻出するために、直人が費やした「時間」を脳内で換算する。椅子に縛り付けられ、眼球の奥が焼け付くような痛みに耐えながら、クライアントの理不尽な要求を飲み下した数十時間。彼の脊椎を削り、視力を削り、寿命を削って得た結晶が、彼女の投稿の「いいね」という一瞬の電子信号に変換され、消えていく。

ふと、画面の通知欄が光った。

彼女のSNSアカウントが、一時間前に投稿した写真への反応を知らせる通知。画面をタップして表示されたのは、彼女が友人たちと、直人の知らない華やかな店で笑っている姿だった。ハッシュタグには「#自分へのご褒美」「#明日も頑張れる」。

その写真の端に写り込んだ、最新型のスマートフォン。

それを手に入れるために、直人がどれだけの深夜作業をこなし、どれだけの個人的な欲求を殺してきたか。彼女はそれを知っているはずだ。あるいは、知った上で「当然の愛」として受け流しているのか。

そのとき、彼の胸の奥で、カチリ、と何かが外れる音がした。

それはあまりに小さく、しかし決定的な、精神の構造が崩壊する予兆だった。


それは、激しい怒りでもなく、深い悲しみでもなかった。

スプーンを持つ右手の指先から、急速に生気が引いていく。それは冷たさを感じるというより、体内を循環していたはずの微かな熱そのものが、足首の先から、指の関節一つ一つから、音もなく零れ落ちていくような感覚だった。

ふとした瞬間に電球が切れるように、あるいは砂時計の最後の一粒が落ちるように、彼の中に残っていた「愛」という名の資源は、今、完全に枯渇した。

これまで幾度となく、彼女の奔放さを許し、その笑顔を買い支えるために注いできた精神的な貯蓄。それが、目の前の液晶画面に映る無機質な数字と、賞味期限の切れた酸っぱい固形物を飲み込んだ不快感によって、一滴の余さず使い切られたのだ。

「……あ」

喉の奥から漏れた声は、自分でも驚くほど乾ききっていた。

悲しみですら、表出させるにはコストがかかる。今の直人には、彼女との日々を嘆くための熱量さえ残されていない。

彼は静かに立ち上がり、半分残ったカップをシンクへ置いた。陶器とプラスチックが触れ合う高い音が、静まり返った部屋に、もはや回復することのない断末魔の代わりに響いた。


< Q = mcΔT >


直人の脳裏に、不意に熱量の公式が浮かぶ。物質が失った熱エネルギーは、どこへ行くのか。彼女という対象を温めるために放射し続けた彼の熱は、今、この冷え切ったキッチンの床に散らばり、二度と彼の中へは戻ってこない。比熱を失った心は、ただの冷えた肉塊としてそこに放置されている。


胃の腑は半分残したヨーグルトのせいで空っぽであるはずなのに、横隔膜のすぐ下あたりには、重苦しい「冷えた鉛の塊」が居座っている感覚があった。肺が酸素を取り込み、心臓がそれを全身へ送っても、それが血肉や活力に変換されることはない。生命活動というシステムが、潤滑油を失って、ただ金属同士を擦り合わせながら空回りしているような、不毛な軋み。

カーテンの向こう、彼女の寝息は変わらず穏やかだ。

しかし、その音はもう直人の耳に届くとき、意味をなさない空気の振動へと還元されていた。かつて愛おしいと感じたそのリズムが、今はただ、自分の人生を削り取るノイズにしか聞こえない。上階の住人が深夜に流す水の音が、配管を伝って不気味に響く。それは、彼がこれまで彼女に注いできた「時間」や「金」や「情熱」が、下水へと流し込まれていく音のようにも聞こえた。


直人は、まだ冷気が残る指先で、自分の頬に触れた。

そこにあるのは、自分という形を保つだけの、ただの皮と肉だった。

数時間後には夜が明け、彼女は眩しい笑顔で目を覚ますだろう。そして「おはよう、お腹すいちゃった」と、昨日までと変わらない無邪気さで、直人の残りの人生をねだるはずだ。

彼は、その光景を容易に想像できた。

だが、それに応えるための「心」は、もうどこにも存在しない。

彼がこれから彼女に与えるのは、愛の不在を隠すための、精巧に作られた死んだ言葉と、義務的な微笑みだけだ。それは、これまでの「無償の愛」よりも遥かに過酷な、空洞の演技の始まりだった。

冷蔵庫の扉を閉める。

部屋を支配していた青白い光が消え、再び訪れた闇の中で、直人は一人、立ち尽くした。

彼はまだそこに立っているが、彼を形作っていた「直人」という存在の核は、真夜中のキッチンの床に、音もなく散乱して消えていた。

深夜の静寂は、より一層その密度を増し、彼の肺胞の隅々まで冷たい虚無を流し込んでくる。

。 。 。

夜明けまで、あと三時間。

彼は、自分が何者でもなくなったことを確認するように、暗闇の中で何度も、浅い呼吸を繰り返した。


「もう、頑張れない」

そう思う瞬間、私たちの内側では何が起きているのでしょうか。

本作の主人公・直人は、何か決定的な裏切りに遭ったわけではありません。ただ、少しずつ、少しずつ、自分のための熱量を他者のために放射し続け、気づいた時には自らを温めるための火種さえ失ってしまいました。

数式 < Q = mcΔT > が示す通り、一度放出された熱は、外部の冷気に混ざり、二度と元の形には戻りません。

夜が明けたあと、彼が彼女に向ける微笑みは、もはや愛ではなく、ただの「慣性」です。その静かな絶望は、狂気よりも遥かに深く、そして私たちの日常のすぐ隣に潜んでいます。

あなたの冷蔵庫の奥で、誰にも気づかれずに死んでいる感情はありませんか?

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