第3話 透明な手の温度
翌日の空は、白と青の境目がほどけたように混ざっていた。
林田凛が教室に入ると、先に来ていた森永と日浦が、机の上に色とりどりの短冊を広げていた。商店街の文具店で買ったものらしい。金、青、桃、白、薄緑。紙の角が朝の光を受けて、静かに光る。
「おはよう、リンリン!」
森永が一枚の薄緑を持ち上げる。
「これ、君っぽい」
「薄い緑、好き」
凛は微笑んで、紙の端を指でなぞった。繊維のささくれが小さく引っかかる。
「で、何書く?」
日浦がペンを用意して訊ねた。
凛は返事に困って、窓の外を見やる。雲の向こうで、光がゆっくり剥がれていく。
「まだ、言葉にならないや」
「じゃあ、放課後までに考えよ。夕方から商店街、飾り付け始まるんだって」
「……うん」
そのとき、後ろの方で小さなざわめきが起きた。
机の間で立ち止まっていた女子が、しゃがみこんで何かを探している。
「どうしたの?」
森永が声をかけると、彼女は少し泣きそうな顔で言った。
「ペンダント、落としちゃって……母にもらったやつ。朝はつけてたのに」
胸元を握るような仕草。
「どこかでひっかけたのかも」
日浦が教室の隅を探しに走る。森永も机の下を覗き込む。
凛は、視線だけをそっと最後列へ滑らせた。
昴は席に座り、窓の外を見ていた。いつもと同じ。
けれど次の瞬間、彼はゆっくりと立ち上がり、ふと視線を床へ落とした。
歩みは迷いがなく、黒板脇まで進むと、椅子と椅子のわずかな隙間に手を伸ばした。
そこに、細いチェーンの先の小さなトップが、光を集めていた。
「これ、かな」
昴の声は穏やかだった。
「……あ、それです! ありがとうございます!」
女子は泣き笑いの顔で受け取り、何度も頭を下げる。
教室の空気がふっと明るくなり、拍手がひとしきり起きた。
昴は「よかった」とだけ言い、静かに席へ戻る。
凛は、その一部始終を見ながら、胸の内側で小さな音を聞いた。
――カチ、と何かがはまる音。
“整える”。今のは、ただの偶然だろうか。
昴の横顔は変わらず静かだ。
ただ、指先から手首にかけての輪郭が、ほんの一瞬だけ、温度のある透明に見えた。
「すごいタイミングだね」
席に戻った昴へ、前の席の男子が言った。
昴は苦笑して、ノートの端にペン先を置く。
そのペン先が紙を撫でた瞬間、凛は自分の心拍が一つ分深くなるのを感じた。
ホームルームが始まり、日付が板書される。
「明日の放課後、七夕の飾り付けの手伝いを募ります」
水庭がそう告げると、教室の数人が手を挙げた。凛も、迷いなく手を上げた。
「林田、ありがとね」
水庭が微笑む。
凛の隣で、森永と日浦も手を挙げた。
「行こ行こ。笹、商店街から学校にも来るらしいよ」
「願いの渋滞だね」
日浦の一言に、みんなが笑った。
授業の合間、凛は短冊をノートの間に挟み、何度か書き始めてはやめた。
“忘れない”――と書いて、消す。
“消えないで”――と書いて、また消す。
言葉が強すぎる。紙の上で先走る。
彼女は、言葉になる前の、まだ形のない息のような願いを、胸の中でひっそりと温め直した。
昼休み。
窓辺の昴は、星座の線をノートに引いていた。
「それ、何座?」
凛が近づいて訊くと、昴はペン先で紙を示した。
「これは、わざと線を引いてない」
「引かない?」
「点だけを並べて、線は見た人に任せる。
そういう夜の方が、よく見えるときがある」
凛は点の並びを追い、点と点の間に、自分なりの線を通してみた。
――見える。
見えないはずの線が、確かに存在して、星たちを静かに結び始める。
「不思議だね。線がないのに、つながる」
「人は、つなぎたがるから。
失われたものも、手に入らなかったものも、
その間に線を引いて、名前をつける」
「それは――“整える”のと似てる?」
昴は少しだけ考え、頷いた。
「似てるかもしれない。
僕がやるのは、世界の方の線。
人がやるのは、心の方の線」
「どちらも、必要?」
「どちらかだけじゃ、どこかが宙に浮く」
チャイムが鳴り、午後の授業が始まる。
凛は席へ戻りながら、ノートの余白に小さく点を打った。
名前のない点。
そこに線を引くのは、たぶん、七夕の夜だ。
放課後。
商店街は、笹を立てる音と、提灯の紙の擦れる音で賑やかだった。
凛は森永と日浦と並んで歩き、文具店の前で短冊の追加を買った。
店主が笑って言う。
「願いが重なると、笹が重くなるね」
「重い願いは、叶いにくいのかな」
森永の冗談に、店主は首を振った。
「重いほうが、風で飛ばないよ」
凛は、その言葉を心のどこかにそっとしまった。
学校に戻ると、職員室の前に笹の束が積まれていた。
手伝いに集まった生徒たちが、ひもを切り、輪飾りを作り、短冊を結びつける。
凛は薄緑の短冊を胸ポケットから取り出し、指で角を軽く折った。
――書く?
胸の奥で、言葉がまだ寝ている。
彼女は一度、短冊を戻した。まだだ、と感じたから。
夕方の風は、日中よりも冷たく、笹の葉を声のある楽器に変えた。
校舎の隙間を抜ける風の音を聞きながら、凛はふと四階へ向かう階段に足を向けた。
踊り場。
昨日と同じ場所に、昴がいた。
何も言わずに、窓枠に指を置いて外を見ている。
凛が隣に立つと、昴は少しだけ顔を向けて、気配のような笑みを見せた。
「今日、ペンダント、すぐ見つけたね」
凛が言うと、昴は肩をすくめた。
「たまたま視界に入った」
「そういう“たまたま”を、人は願いって呼ぶのかもしれない」
昴は答えず、窓の外へ視線を戻す。
風がふたりの間を通り、踊り場の埃が微かに踊った。
しばらく沈黙が続いたあと、昴がふいに言った。
「温度って、形になるときがある」
「温度が?」
「透明なものにも、温度はある。
触れられないものにも、温度はある」
凛はゆっくり手を伸ばした。
窓枠に置かれた昴の手の近くまで、指を持っていく。
触れはしない。
ただ、距離を測る。
その瞬間、空気が少しだけ、きらめいた。
温度の境界が、ふっと見えた気がした。
水面に指先を近づけたときの、ひやりとした気配。
「……冷たい、の?」
「温度が薄い、って言う方が近い」
昴は窓枠から手を離す。
その輪郭の少し外側――空気の縁に、光の薄い縫い目が走って、すぐ溶けた。
凛は息を整え、指を胸に戻した。
「痛くは、ない?」
「ないよ」
「じゃあ、怖くもない?」
「ない」
「私だけが、怖い」
凛の言葉に、昴は少しだけ笑って首を振った。
「怖いのは、生きてる証拠」
踊り場の上から、教師の靴音が近づいては遠ざかった。
校庭の隅では、運動部の掛け声が続いている。
世界は、いつも通り進む。そのいつも通りの速さが、今夜は少しだけ不自然に感じられた。
「旧観測所、明日行く?」
凛が訊く。
昴は、迷わず頷いた。
「行こう。雲の端が切れるはず」
「どうしてわかるの?」
「風の音が、そう言ってる」
「詩人」
「古い言い方をするのが癖」
ふたりの笑い声に、風が一拍遅れて重なる。
そのとき、下の階で誰かが「あっ」と声を上げた。
一本の笹が、結びをほどかれて廊下に倒れそうになっている。
凛は思わず階段を駆け下りた。
「支えるよ!」
生徒たちが慌てて集まり、笹を壁際に戻す。
「あぶな……」
凛が息を吐いた瞬間、結び目の色紐が、するりと凛の手元に滑り込んだ。
見覚えのない、赤い紐。
結び直そうとして指を通したとき、紐の端が、勝手に輪を作って――一度、ふっと、締まった。
「え?」
自分の手がしたのか、風がしたのか、誰にもわからない速度。
笹は、二度目の危うさを見せることなく、壁に寄り添って立った。
「助かったぁ……」
近くの生徒が胸を撫で下ろす。
凛は、呼吸を整えながら後ろを振り向いた。
階段の上、踊り場の影で、昴がこちらを見ていた。
目が合う。
彼は首を横にも縦にも振らず、ただ目を細めて、風の音を聞いているようだった。
夜。
手伝いを終えて家に戻ると、母が「お疲れさま」と声を掛けてくれた。
食卓の湯気が、今日も整っている。
凛は食事の後、机に向かってノートを開いた。
点を三つ、四つ、五つ。
線を引かない星座を、余白に作る。
――私が引く線は、どこに伸びるのだろう。
短冊を取り出し、ペンを置く。
今日なら、何かが書ける気がした。
けれど紙の前で、手が止まる。
“忘れない”
“消えないで”
どの言葉も強すぎて、紙の繊維を傷つけそうだった。
凛は深呼吸を一つして、短冊をそっと伏せた。
「まだ、言葉の前でいい」
窓を開けると、夜風が部屋の隅の影を一度だけ揺らした。
風鈴が鳴り、すぐに止む。
遠くで列車が橋を渡る音。
凛は地図を広げ、指で明日のルートをなぞった。
観測所の土台、倉庫の影、フェンスの切れ目。
そこに“明日”という名前の線が通る。
ペンを取って、ノートの端に書く。
“温度は、形になるときがある。
透明にも、温度がある。”
書いた瞬間、胸の中で、昨日の“冗談”が完全に形を失った。
もう、冗談とは呼べない。
世界の方の線が、一本、確かに引かれたのだ。
ベッドに横たわる前に、凛は引き出しから例の三角の紙を取り出した。
《焼きそばパン、おいしかった?》
線の細い、癖のない字。
あのさりげなさで、世界が少しずつ“整えられて”いく。
それは、とても静かな速度で、しかし確実に。
灯りを落とす。
目を閉じる。
暗闇に、点が浮かぶ。
線は引かない。
明日、観測所へ行ってからでいい。
そのとき、どの線が必要か、きっとわかる。
眠りの縁で、凛はゆっくりと手のひらを開いた。
誰にも触れていないはずなのに、そこには確かに温度があった。
透明なものの温度。
彼の手の近くで感じた、薄い境界の気配。
それは冷たくなく、熱くもない。
ただ――“在る”。
――明日。
旧観測所で、空に線を引く。
そう決めて、凛は静かに眠りに落ちた。




